太平洋側は晴天が続く、という予報が出ていた。矢野は日を選び、新幹線の列車もきめて、コンパルサに電話をした。そのとおりにしましょうと三津子は言い、それで約束は出来た。そして当日、小旅行の鞄を持って、矢野は東京駅までいった。プラットフォームには列車がすでにいた。乗車が始まるのを待ち、ドアが開いたらすぐに車両に入った。いったん席にすわり、発車してから三津子を探した。自由席の三両目に彼女はいた。隣の席はおそらく空席だと彼女は言った。だから矢野はそこにすわった。走る新幹線の外は晴天の真夏日だった。
「一九四二年生まれなのね、あなたは」
「ですからいま二十四歳です」
「絵はどこで勉強したの?」
「美大です。物心ついたときにはすでに絵が得意で、いろんな人に褒められて。絵を描くことだけが出来るのです」
「手塚さんとは長いつきあいなの?」
「美大の学生の頃、手塚さんの会社で僕はアルバイトをしていました。そのときに手塚さんが僕に絵の仕事をさせてくれて、それ以来です。卒業してデザイン事務所に勤めたのですが、すぐに辞めて、それからはいまのようなフリーランスです。手塚さんが仕事をくれて、同業の仲間たちに紹介してくれて、忙しいです」
「今日の予定は?」
「明るいうちに京都に着ければ」
「私たちは普通の列車に乗り換えるのよ。あと一時間三十分くらいかしら。これを降りて乗り換えるの」
「降りて、乗り換えて」
「そしてそれも降りて、今度はバス」
「どこへ向かうのですか」
「海、とでも言っておきましょうか。毎年、いってるところなの。今年も、こんなふうにそこへいけるのが、ちょっと怖いような気持ちもあって、ほんとにそこに着くまでは、あまり言いたくないのよ。言うとなんだか実現しなくなるような気もするし」
「ついていきます。連れていってください」
三津子が降りると言った停車駅でふたりは新幹線を降りた。長い跨線橋を渡り、従来からある駅へいき、そこで急行に乗り換えた。ふたつ目の駅で降りるとお昼だった。駅から少し離れたところにある商店街の食堂で、ふたりは昼食を食べた。そして駅前に戻った。バスの乗り場には、それぞれに行く先の異なるバスが、数台停まっていた。そのうちのひとつを指さし、
「あれに乗るのよ」
と、三津子は言った。
乗って料金を払い、座席にならんですわってしばらくすると、バスは発車した。すぐに市街地を出た。知らなければここが日本のどこともわからない田舎道をいき、やがて海沿いの県道に出た。走るバスの窓から海がすぐ近くに見えた。道路はやがて小さな岬の内側に入った。その岬の突端に向かっているのだということが、矢野にもわかった。海岸前という名のついた停留所で、ふたりはバスを降りた。
道路から海に向けて少し下がったところが、見晴らし台のような地形になっていた。そこに海の家という屋号の店があった。岬は岩場で海と接しているように見えた。下の海まで、かなりの高低差があった。
「階段があるのよ」
見晴らし台の端へ三津子は歩いた。鉄棒による手すりのついた狭いコンクリートの階段が、何度も折れ曲がりながら、下の岩場まで届いていた。
「降りましょう」
そう言って三津子は階段を降りていった。矢野がそのあとに従った。
「こんないい天気なのに、人がひとりもいませんね」
「みんな忙しいのよ」
笑いながら三津子が言った。
「冬の海が荒れている寒い日なら、ここは陰気な推理小説に描かれる、犯行現場ですよ」
「画家はそんなことを思うの?」
「すべては光ですから」
「どんな光が当たるかによって、おなじ景色でもまるで違ったものになるのね」
「そうです」
そんな話をしながらふたりは階段を下まで降りた。最後の部分はなだらかな坂になっていて、黒い玉砂利の海岸のなかに浅い角度でめり込むように終わっていた。模型のような小さな海岸だった。濡れた黒い玉砂利の広がりは、玉砂利のひとつひとつをよく吟味して敷きつめたような、人工的な雰囲気を持っていた。
「天然の海岸でしょうか」
矢野が訊いた。
「こんなところに、わざわざ作らないでしょう。でも、奇妙な海岸ね」
「スパイ小説だと、ひとり乗りの小型秘密潜水艇で、工作員が夜中に密かにここに上陸するのです」
「そういう小説が好きなの?」
「しきりに読んだ時期があります」
持っていた紙の手提げ袋から、なにかでふくらんでいる小ぶりな紙袋、そしてクラッチ・バッグを、取り出した。そのふたつを矢野に持たせ、三津子は上体をかがめてサンダルを脱いだ。細いヒールのある、夏の赤いサンダルだった。それを三津子は手提げ袋の底に入れ、その上に小さな紙袋、そしてクラッチ・バッグを収めた。そして手提げ袋を矢野に持たせた。シャツのボタンを下からはずしていき、三津子はシャツを脱いだ。水着姿の上半身があらわになった。
「気合を入れるために、水着は自宅から身につけて来たのよ」
シャツをたたんで手提げ袋に入れた彼女は、スカートを脱いだ。それも袋に入れ、髪をうしろで束ね、海の向こうの岬を示した。
「こことおなじような岬が、向こうにもあるのよ。ここからそこまで、私はこれからひとりで泳ぎます。一時間三十分かかるの」
三津子の言葉を受けとめながら、真夏の陽ざしに輝く三津子の白い体を、矢野は見た。肩幅や厚い胸板は、コンパルサのカウンターでいつも想像していたとおりだった。矢野の想像よりもはるかに、彼女の筋骨は逞しく出来ていた。かつては踊り子だった女性の脚は、やはりこのような素晴らしい出来ばえなのか、と矢野は思った。
「あなたはバスでさっきの駅まで引き返し、灯台前行きという別のバスに乗って、向こうの岬の見晴らし台前という停留所で降りて。ここにあるのとおなじような階段で岩場まで降りるとそこは防波堤で、その突端に階段があって、下の玉砂利の海岸へ降りることが出来るから。防波堤で待ってて」