← Library‹ 物のかたちのバラッド 紙の上に鉛筆の線

彼かれは階段かいだんを見上みあげた。幅はばの狭せまい急きゅうな階段かいだんだ。両側りょうがわには板壁いたかべが垂直すいちょくにあるだけで、なかほどの天井てんじょうに蛍光けいこう灯とうがひとつだけ灯ともっていた。鞄かばんを左手ひだりてに持もち、右手みぎての指先ゆびさきを壁かべに添そえ、彼かれは階段かいだんを上あがり始はじめた。階段かいだんに対たいして体からだを斜ななめにした。そうしないと体からだはうしろへ反そり、上体じょうたいがうしろ向むきに階段かいだんの下したへと落おちそうになる、と彼かれは思おもったからだ。階段かいだんを上あがりきると、そこには一いち軒けんのバーがある。中年ちゅうねんの酔客すいかくが踏ふみはずし、階段かいだんを転ころげ落おちることはないのだろうかと、二十にじゅう五ご歳さいの彼かれは心配しんぱいになった。

階段かいだんの頂上ちょうじょうは小ちいさな面積めんせきの踊おどり場ばだった。木製もくせいのドアがひとつ、斜ななめにあった。そのドアは内側うちがわへ開ひらいた。彼かれはバーのなかに入はいり、うしろ手でにドアを閉とじた。正面しょうめんにカウンターの角かどがあり、その向むこうに北沢きたざわ直子なおこがいた。この店みせの主人しゅじんだということだが、それ以上いじょうのことを彼かれは知しらない。自分じぶんに笑顔えがおを向むける彼女かのじょを、彼かれは見みた。美人びじんであることは確たしかだが、これほどだったかと彼かれは思おもいなおした。これほどの美人びじんが、いまここでひとり、なにをしているのか。バーの主人しゅじんである彼女かのじょは、こうして客きゃくを待まっている。自分じぶんはその客きゃくのひとりか、と立原たちはら洋平ようへいは思おもった。

「おひとり?」

直子なおこが訊きいた。

「そうです」

「来きてくださったのね」

カウンターの角かどにあるストゥールに彼かれはすわり、右みぎとなりの席せきに鞄かばんを置おいた。水彩すいさい画がを描えがくためのごく簡単かんたんな道具どうぐひと揃ぞろいを入いれて、たとえば旅行りょこうに持もっていくための、小こぶりで平ひらたい、カンヴァス製せいの四角しかくい鞄かばんだ。直子なおこの背後はいごの棚たなに小ちいさな丸まるい置おき時計とけいがあった。九きゅう時じちょうどを針はりは示しめしていた。

「今日きょうも絵えを描えがいたの?」

直子なおこが言いった。

「描えがきました」

「どんな絵えなの?」

「雑誌ざっしに掲載けいさいされる短編たんぺん小説しょうせつの、最初さいしょの二にページに入いれる左側ひだりがわのページ全面ぜんめんの、挿絵さしえです。小説しょうせつの舞台ぶたいになっている場所ばしょへ、今日きょうは朝あさからいってました。北きた区くの滝野川たきのがわです」

「その場所ばしょの絵えを描えがけばいいの?」

「商店しょうてん街がいがあって、そこを中心ちゅうしんにして路地ろじが網あみの目めのようにあるのです。路地ろじのなかで進展しんてんしていく短編たんぺんですし、現実げんじつの地名ちめいや番地ばんちまで出でてきますから、現実げんじつを描えがいたほうが面白おもしろいだろうと言いわれて、朝あさからいろんな場所ばしょをスケッチし、午後ごごもしばらくいて、篠崎しのざきさんの会社かいしゃへいき、そこで仕上しあげました」

「完成かんせいしたのね」

「今日きょうの日付ひづけを入いれて完成かんせいしました。一いち九きゅう六ろく五ご年ねん九きゅう月がつ十じゅう八はち日にち。気きにいってもらえて、使つかったあとは俺おれにくれよと言いわれました。額がくに入いれるとおっしゃるので、裏うらに署名しょめいもしておきました」

「一人前いちにんまえに仕事しごとをしたのね」

「そうです」

「それでいくらになるの?」

「さあ」

「五千ごせん円えんくらい?」

「三千さんぜん六百ろっぴゃく円えんが妥当だとうなとこでしょう」

「ひと月がつに十じゅう枚まいも描えがけば、あなたの歳としで会社かいしゃ勤つとめをしてる人ひとの給料きゅうりょうの、ふた月がつ分ぶんにはなるでしょう」

直子なおこのその台詞せりふに立原たちはらは答こたえず、微妙びみょうに微笑びしょうしていた。

「女優じょゆうの本ほんはどうなったのかしら」

「もうじき出来できるそうです」

「篠崎しのざきさんから一いち冊さついただけることになってるのよ」

篠崎しのざきとは、自分じぶんで小ちいさな出版しゅっぱん社しゃを経営けいえいしている四十よんじゅう代だいなかばの男性だんせいで、このバーの常連じょうれんだ。立原たちはら洋平ようへいの自宅じたくの近ちかくに高校こうこうの同級どうきゅう生せいが住すんでいて、彼かれとその父親ちちおやを経由けいゆしてひき合あわされ、立原たちはらは篠崎しのざきと知しり合あった。私立しりつ大学だいがくを卒業そつぎょうした立原たちはらは、会社かいしゃに勤つとめたが一いち年ねんで辞やめた。絵えがうまい彼かれは、雑誌ざっしに挿絵さしえその他たなんでも描えがく仕事しごとを、篠崎しのざきからもらっている。篠崎しのざきの求もとめに応おうじてなんでも描えがくのが、いまの立原たちはらの仕事しごとだ。立原たちはらは重宝ちょうほうされている。この秋あき深ふかくで一いち年ねんになる。

直子なおこが言いう女優じょゆうの本ほんとは、篠崎しのざきのところから刊行かんこうされる、欧米おうべいの女優じょゆうたちの名鑑めいかんだ。写真しゃしんではなくリアルな筆致ひっちの挿絵さしえを、どの女優じょゆうにも一いち点てんずつ添そえるという編集へんしゅうだった。その絵えを描えがくことを、立原たちはらはまかされた。どの女優じょゆうの絵えも、篠崎しのざきの案あんではおなじサイズだったが、いろんなかたちとサイズにすることを立原たちはらは提案ていあんし、受うけ入いれられた。おかげで女優じょゆうの絵えをたくさん描えがくことになったが、篠崎しのざきが刊行かんこうしている映画えいが雑誌ざっしのバック・ナンバーを、一いち冊さつずつすべて、資料しりょうとして立原たちはらはもらった。

このバーへ立原たちはらが来くるのはこれで三さん度どめだ。最初さいしょのときは七なな月がつの終おわり近ちかくで、篠崎しのざきともうひとり、雑誌ざっしに雑文ざつぶんを書かいている三十さんじゅう代だいの男性だんせいと、いっしょだった。二に度どめは八はち月がつのなかばに、立原たちはらがひとりで来きた。女優じょゆうたちの絵えを描えがいていた頃ころだ。雑誌ざっしの新刊しんかんを篠崎しのざきから託たくされ、それを届とどけるために立原たちはらはここへ来きた。いますわっているのとおなじ席せきに彼かれはすわり、直子なおこに問とわれるままに彼かれは自分じぶんのことについて語かたった。あなたがどんな絵えを描えがくのか、たいへん興味きょうみがある、ぜひ見みてみたい、と直子なおこは言いった。だから立原たちはらは鞄かばんからスケッチ・ブックと鉛筆えんぴつを取とり出だし、

「描えがいていいですか」

と言いった。

「私わたくしを?」

「そうです」

「見みたいわ。描えがいて」

ほんの二、三十にさんじゅう秒びょうのうちに、立原たちはらは直子なおこの胸像きょうぞうを描えがいた。ページを簡単かんたんにちぎることの出来できるスケッチ・ブックだった。そのページを切きり離はなし、立原たちはらは直子なおこに差さし出だした。受うけ取とって直子なおこは驚おどろいた。驚おどろきは当然とうぜんだった。鉛筆えんぴつの線せんがきわめて簡潔かんけつに紙かみの上うえを走はしっているだけなのだが、そこには直子なおこがそっくりそのまま、生いき写うつしのように描えがき出だされていた。ただ単たんに似にている、という次元じげんをはるか高たかく越こえていた。表情ひょうじょうは生いきているようであり、視線しせんには命いのちがあり、唇くちびるはいまにも動うごいて声こえを出だしそうに思おもえた。直子なおこはその絵えを気きに入はいり、立原たちはらは進呈しんていした。

その時間じかんまで客きゃくは彼かれひとりだったのだが、そのすぐあと、中年ちゅうねんの男性だんせいたち三さん人にん連づれの客きゃくがあらわれた。賑にぎやかなその三さん人にんの相手あいてを直子なおこはしなければならず、立原たちはらには席せきを立たつきっかけとなった。その立原たちはらに、

「あいだを空あけずにまた来きて。ひとりで来きて。話はなしをしたいわ」

と、直子なおこは言いった。

その三さん度どめが今夜こんやになった。

Click a word · hold for the whole sentence 0%