← Library‹ 物のかたちのバラッド あとがき

目次もくじのいちばん最初さいしょにある『バスを待まつうしろ姿すがた』を書かいたのは、いまから三さん年ねんほど前まえだろうか。そのあとほぼ一定いっていの間隔かんかくを置おいて、『紙かみの上うえに鉛筆えんぴつの線せん』と『後悔こうかいを同封どうふうします』そして『坂さかの下したの焼やき肉にくの店みせ』を書かいた。いずれもこの順番じゅんばんに雑誌ざっしに発表はっぴょうした。『もう痛いたくない彼女かのじょ』『いまはそれどころではない』『孤独こどくをさらに深ふかめる』の三さん編へんは、二に〇れい〇れい四よん年ねんの夏なつに書かき下おろした。『都電とでんからいつも見みていた』を雑誌ざっしに書かいたのはそのすぐあとだったが、内容ないようから見みて目次もくじのこの位置いちに置おくのがふさわしいという理由りゆうで、この位置いちにある。

八はち編へんを書かいた順番じゅんばんとその配列はいれつは、はっきりさせておきたいと思おもう。なぜならどの短編たんぺんも、絵えを描えがく才能さいのうのある青年せいねんが、その能力のうりょくにまかせて、なんの無理むりもなくさまざまな絵えを描えがくことをとおして、自みずからの物語ものがたりとその方向ほうこうをほんの少すこしだけ作つくっていく、という主題しゅだいがどの短編たんぺんにも共通きょうつうしていて、ひとつまたひとつと書かいていくにしたがって、その主題しゅだいは、少すくなくとも一いち段階だんかいくらいは上うえの次元じげんへと、拡張かくちょうないしは進化しんかされていったように、書かいた当人とうにんとしては思おもっているからだ。

『バスを待まつうしろ姿すがた』『紙かみの上うえに鉛筆えんぴつの線せん』『坂さかの下したの焼やき肉にくの店みせ』『都電とでんからいつも見みていた』『もう痛いたくない彼女かのじょ』そして『いまはそれどころではない』の六ろく編へんは、二十にじゅう代だいの青年せいねんを主人しゅじん公こうとしている。どの彼かれもそれぞれに絵えを描えがくのだが、注文ちゅうもんに応おうじて商業しょうぎょう的てきに絵えを描えがく日々ひびはまだ始はじまったばかりであり、彼かれの人生じんせいはもちろんのこと、いま現在げんざいの彼かれそのものが、海うみのものとも山やまのものともわからない状態じょうたいだ。ただしその彼かれは絵えを描えがくことが出来できる。そしてその絵えは、それを見みた人ひとの気持きもちを強つよくひきつけてやまないほどの、奥行おくゆきのある素晴すばらしい出来できばえだ。

『孤独こどくをさらに深ふかめる』の主人しゅじん公こうは、いま少すこし年齢ねんれいを重かさねて三十さんじゅう代だいに達たっしている。『後悔こうかいを同封どうふうします』の人ひとは四十よんじゅう五ご歳さいになっている。絵えを描えがくことの出来できる青年せいねんとして人生じんせいをスタートさせた彼かれらは、絵えを描えがく日々ひびがうまくいき、その延長えんちょう線せん上じょうにいまもいる。ただし三十さんじゅう代だいそして四十よんじゅう代だいともなると、自分じぶんがこれまでやってきたことを、肩かたごしに振ふり返かえることが、ときたまはある。振ふり返かえってそこになにが見みえるか、前方ぜんぽうに視線しせんを向むけなおして、そこになにがあるのか。『孤独こどくをさらに深ふかめる』と『後悔こうかいを同封どうふうします』では、そのようなことが書かかれている。

なにかはっきりしたことが出来できない人ひとは小説しょうせつの主人しゅじん公こうにはなれない、という考かんがえをおそらく僕ぼくは小説しょうせつを書かき始はじめた最初さいしょから、持もっていたのだろう。いっさいなにも出来できない人ひとを主人しゅじん公こうにした小説しょうせつはもちろん成立せいりつするけれど、ひとりの書かき手てによって書かき得える数かずは少すくないのではないか。たくさん書かいてそのどれをも物語ものがたりとしてきちんと成立せいりつさせようとするなら、それらの物語ものがたりの主人しゅじん公こうたちは、なにかが確たしかに出来できないといけない。一いち編へんの小説しょうせつを書かこうとするとき、なにがどの程度ていどの質しつにおいてどのくらい出来できる人ひとを主人しゅじん公こうに選えらぶかという地点ちてんで、書かき手てはまずたいそう厳きびしく試ためされているような気きがする。

『バスを待まつうしろ姿すがた』を書かくときすでに、絵えを描えがくことの出来できる青年せいねんを主人しゅじん公こうにすることは、きまっていた。絵えを描えがく人ひとを主人しゅじん公こうにしてひき続つづきいくつか書かき、最終さいしゅう的てきには一いち冊さつの本ほんを編あむことが出来できるほどの分量ぶんりょうにしてみたい、とも僕ぼくは思おもった。その思おもいは現実げんじつになりつつある。本ほんを一いち冊さつ作つくりたいのではなく、合計ごうけいしてそのくらいの分量ぶんりょうになるいくつかの物語ものがたりを、書かくことが出来できるかどうか試ためしてみたい、ということだった。

八はち編へんの物語ものがたりを書かくために自分じぶんが使つかった言葉ことばは、いったいどういう性質せいしつの言葉ことばなのだろうか、と書かいた当人とうにんの僕ぼくはいま思おもう。主人しゅじん公こうたちそれぞれが絵えを描えがく行為こういは、いまの彼かれらのありかたをそのままあらわしている。と同時どうじに、彼かれらが生うまれてから現在げんざいまで過すごして来きた時間じかんと、そしてそのなかで体験たいけんしたことすべてが、いま絵えを描えがくという彼かれらの行為こういを支ささえている。そしてさらには、彼かれらひとりひとりのこれからの日々ひびのおそらくはぜんたいが、いま描えがく絵えのなかにすでにあるはずだ。

ひとりひとりの主人しゅじん公こうをめぐって、おおざっぱにはこういうことを書かくために、僕ぼくは言葉ことばを使つかった。絵えを描えがく才能さいのうは遺伝いでんによっている、という説せつを僕ぼくは信しんじている。本人ほんにんの思おもいはどうあろうとも、絵えを描えがこうと思おもえばなにであれたちまち描えがくことが出来でき、その絵えは誰だれもが驚おどろくほどにうまい、というような才能さいのうだ。絵えを描えがく行為こういは明あきらかに体からだの行為こういだが、その行為こういのなかには、たったいま触ふれたとおり、それぞれの主人しゅじん公こうの来こし方かたと行ゆく末すえという、心こころの営いとなみのすべてが溶とけ込こんでいる。

彼かれがなにを考かんがえ、そのことの延長えんちょうとしてどのような絵えを描えがき、それによって自分じぶんをさらにどのようにしていくのか、といったことすべてが、僕ぼくの使つかう言葉ことばによって記述きじゅつされ描写びょうしゃされていく。この本ほんにある八はち編へんの短編たんぺん小説しょうせつは、内容ないようを充分じゅうぶんにともなった上うえで、起動きどうしようと思おもえばいつでも起動きどうさせることが出来でき、そのまま持続じぞくさせるなら好すきなだけ持続じぞくさせることが出来できる、といった主人しゅじん公こうたちそれぞれの、体からだの機能きのうを描えがき出だしている。自分じぶんが描えがく絵えをめぐって、それぞれの彼かれがいかに滑なめらかに、そして望のぞむらくは充分じゅうぶんな奥行おくゆきを持もって、好このましく機能きのうするか。このことのために僕ぼくは本ほん一いち冊さつ分ぶんの言葉ことばを使つかった。

八はち編へんのどれにも、男性だんせいの主人しゅじん公こうとともに、女性じょせいがひとりずつ登場とうじょうしている。彼女かのじょたちもまた主人しゅじん公こうだ。しかし彼女かのじょたちには絵えを描えがく必要ひつようはなく、いまの彼女かのじょたちそれぞれのありかたが、そのまま彼女かのじょたちのぜんたいであり世界せかいであるという強つよさのなかにいるから、この強つよさにおいて、彼かれとまったく対等たいとうの関係かんけいのなかで、彼かれの発揮はっきする機能きのうと呼応こおうし、共振きょうしんや共鳴きょうめいをすることが出来できる。彼かれと彼女かのじょとのこのような関係かんけいは、向むき合あったふたりのあいだだけで常つねに完結かんけつし、それゆえにいずれ先細さきぼそりとなって消滅しょうめつにいたる、といった性質せいしつのものではない。ふたりの機能きのうがおたがいに作用さようし合あい、何なん倍ばいにもふくらんでいくなかで、ふたりのどちらに対たいしても、新あらたな地平ちへいを見みつけさせる作用さようをし、ふたりともをそこへ押おし出だしていく力ちからであるといい。

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