目次のいちばん最初にある『バスを待つうしろ姿』を書いたのは、いまから三年ほど前だろうか。そのあとほぼ一定の間隔を置いて、『紙の上に鉛筆の線』と『後悔を同封します』そして『坂の下の焼き肉の店』を書いた。いずれもこの順番に雑誌に発表した。『もう痛くない彼女』『いまはそれどころではない』『孤独をさらに深める』の三編は、二〇〇四年の夏に書き下ろした。『都電からいつも見ていた』を雑誌に書いたのはそのすぐあとだったが、内容から見て目次のこの位置に置くのがふさわしいという理由で、この位置にある。
八編を書いた順番とその配列は、はっきりさせておきたいと思う。なぜならどの短編も、絵を描く才能のある青年が、その能力にまかせて、なんの無理もなくさまざまな絵を描くことをとおして、自らの物語とその方向をほんの少しだけ作っていく、という主題がどの短編にも共通していて、ひとつまたひとつと書いていくにしたがって、その主題は、少なくとも一段階くらいは上の次元へと、拡張ないしは進化されていったように、書いた当人としては思っているからだ。
『バスを待つうしろ姿』『紙の上に鉛筆の線』『坂の下の焼き肉の店』『都電からいつも見ていた』『もう痛くない彼女』そして『いまはそれどころではない』の六編は、二十代の青年を主人公としている。どの彼もそれぞれに絵を描くのだが、注文に応じて商業的に絵を描く日々はまだ始まったばかりであり、彼の人生はもちろんのこと、いま現在の彼そのものが、海のものとも山のものともわからない状態だ。ただしその彼は絵を描くことが出来る。そしてその絵は、それを見た人の気持ちを強くひきつけてやまないほどの、奥行きのある素晴らしい出来ばえだ。
『孤独をさらに深める』の主人公は、いま少し年齢を重ねて三十代に達している。『後悔を同封します』の人は四十五歳になっている。絵を描くことの出来る青年として人生をスタートさせた彼らは、絵を描く日々がうまくいき、その延長線上にいまもいる。ただし三十代そして四十代ともなると、自分がこれまでやってきたことを、肩ごしに振り返ることが、ときたまはある。振り返ってそこになにが見えるか、前方に視線を向けなおして、そこになにがあるのか。『孤独をさらに深める』と『後悔を同封します』では、そのようなことが書かれている。
なにかはっきりしたことが出来ない人は小説の主人公にはなれない、という考えをおそらく僕は小説を書き始めた最初から、持っていたのだろう。いっさいなにも出来ない人を主人公にした小説はもちろん成立するけれど、ひとりの書き手によって書き得る数は少ないのではないか。たくさん書いてそのどれをも物語としてきちんと成立させようとするなら、それらの物語の主人公たちは、なにかが確かに出来ないといけない。一編の小説を書こうとするとき、なにがどの程度の質においてどのくらい出来る人を主人公に選ぶかという地点で、書き手はまずたいそう厳しく試されているような気がする。
『バスを待つうしろ姿』を書くときすでに、絵を描くことの出来る青年を主人公にすることは、きまっていた。絵を描く人を主人公にしてひき続きいくつか書き、最終的には一冊の本を編むことが出来るほどの分量にしてみたい、とも僕は思った。その思いは現実になりつつある。本を一冊作りたいのではなく、合計してそのくらいの分量になるいくつかの物語を、書くことが出来るかどうか試してみたい、ということだった。
八編の物語を書くために自分が使った言葉は、いったいどういう性質の言葉なのだろうか、と書いた当人の僕はいま思う。主人公たちそれぞれが絵を描く行為は、いまの彼らのありかたをそのままあらわしている。と同時に、彼らが生まれてから現在まで過ごして来た時間と、そしてそのなかで体験したことすべてが、いま絵を描くという彼らの行為を支えている。そしてさらには、彼らひとりひとりのこれからの日々のおそらくはぜんたいが、いま描く絵のなかにすでにあるはずだ。
ひとりひとりの主人公をめぐって、おおざっぱにはこういうことを書くために、僕は言葉を使った。絵を描く才能は遺伝によっている、という説を僕は信じている。本人の思いはどうあろうとも、絵を描こうと思えばなにであれたちまち描くことが出来、その絵は誰もが驚くほどにうまい、というような才能だ。絵を描く行為は明らかに体の行為だが、その行為のなかには、たったいま触れたとおり、それぞれの主人公の来し方と行く末という、心の営みのすべてが溶け込んでいる。
彼がなにを考え、そのことの延長としてどのような絵を描き、それによって自分をさらにどのようにしていくのか、といったことすべてが、僕の使う言葉によって記述され描写されていく。この本にある八編の短編小説は、内容を充分にともなった上で、起動しようと思えばいつでも起動させることが出来、そのまま持続させるなら好きなだけ持続させることが出来る、といった主人公たちそれぞれの、体の機能を描き出している。自分が描く絵をめぐって、それぞれの彼がいかに滑らかに、そして望むらくは充分な奥行きを持って、好ましく機能するか。このことのために僕は本一冊分の言葉を使った。
八編のどれにも、男性の主人公とともに、女性がひとりずつ登場している。彼女たちもまた主人公だ。しかし彼女たちには絵を描く必要はなく、いまの彼女たちそれぞれのありかたが、そのまま彼女たちのぜんたいであり世界であるという強さのなかにいるから、この強さにおいて、彼とまったく対等の関係のなかで、彼の発揮する機能と呼応し、共振や共鳴をすることが出来る。彼と彼女とのこのような関係は、向き合ったふたりのあいだだけで常に完結し、それゆえにいずれ先細りとなって消滅にいたる、といった性質のものではない。ふたりの機能がおたがいに作用し合い、何倍にもふくらんでいくなかで、ふたりのどちらに対しても、新たな地平を見つけさせる作用をし、ふたりともをそこへ押し出していく力であるといい。