雨の日の午後、自宅でその電話を受けたとき、五郎には直感のようなものが働いた。
「三田村さまのお宅でございましょうか」
と、中年の女性が電話の向こうで丁寧に言った。おだやかに隅々まで優しい、品のある口調と声だった。はい、そうです、と自分が答えると、お母さまはいらっしゃるかしら、とこの女性は訊くのではないか、と五郎は思ったのだ。根拠はなにもない。直感としか言いようがなかった。そしてその直感は的中した。
「わたくし、博多に住んでおります、杉浦由起子と申します」
そこでひと区切りだったから、
「はあ」
と、五郎は言った。
「お声がお若いですから、息子さんでしょうか。五郎さんとおっしゃる」
「そうです」
「まあ、それはそれは、わたくし、こうして初めて電話でお話をしますけど、じつはお母さまの昔の友人で、杉浦と申します」
「はあ」
「初めまして」
「どうかよろしく」
「こちらこそ。突然の電話でびっくりなさるでしょうね、ごめんなさい」
「とんでもありません」
「小学校に入る以前から、ずっとお母さまとは友だちで、博多の短大もいっしょに卒業した仲なんですよ」
「そうですか」
「杉浦と申します」
「三田村五郎です」
「いまおいくつかしら、二十七、八歳ね、きっと」
「二十七です」
「お父さまは、お元気?」
「はい。元気にしています」
「お仕事をなさってるわよね」
「忙しくしてますよ」
「それはたいへん結構だわ。お父さまには、一度だけお目にかかったことがあるのよ。ずいぶん前のことですけど。じつはいまこうして電話でお話しさせていただいてるのは、来月にわたくしはほんとに久しぶりに、東京へいきますの。もしお時間をとっていただけるなら、ぜひ息子さんに会っておきたいと思いましたの。美穂ちゃんの息子さんに」
五郎の母親の名は美穂子と言った。彼が三歳のときに彼女は心臓の疾患で急死した。それから二十四年が経過した。
「四半世紀と言いますけれど、もうじきなのね。ほんとに早いものだわ」
「お目にかかりましょう」
「うれしいですわ。いまこうしてお話をしてるだけでも、どきどきしますよ。お子さんが出来たときには、美穂ちゃんはほんとに喜んでいて」
「いろいろ話を聞かせてください」
上京の日時を杉浦由起子は五郎に伝えた。電話機を置いてある小さなテーブルには、卓上のカレンダーやメモ用紙、そしてボールペンなどがあった。ご自宅を訪ねたいと杉浦由起子は言った。カレンダーのその日の下に、五郎はボールペンで線を引いた。そして日付の枠のなかの余白に、来客、博多、杉浦さん、と走り書きした。その日の午後、二時から三時のあいだに自宅を訪ねる、と彼女は言った。最寄りの私鉄駅そしてバス停留所からの、自宅までの略地図を手紙で送ることを、五郎は約束した。彼女が電話の向こうで言う博多の住所を、彼は書きとめた。そして電話を終えてすぐに、彼は略地図を描いた。短い文面の手紙を添えて封筒に入れた。夕方に外へ出たとき、彼はそれを投函した。
そして次の月のその日、午後二時すぎに、彼女はあらわれた。アトリエに改造した部屋に五郎はいた。庭とその向こうの生け垣、門、そこからの玄関までの飛び石など、低い窓ごしに見渡すことが出来た。彼女が門からなかへ入って来たとき、五郎は彼女を目にとめた。電話でやりとりしたときの声や口調の印象と、目にする姿との間にある落差を五郎は面白いと思った。歩きかたや身のこなしには骨格の良さがそのままあらわれている、と五郎は思った。ゆったりと大柄で、おおらかな表情の美人だった。彼女も窓ごしに五郎を見た。ふたりは会釈し合った。
玄関のすぐ脇に来客をとおす長方形の部屋があった。片方には丸いカフェ・テーブルに椅子が四脚、そしてもういっぽうの壁に寄せて、長いソファと短いソファが低いガラス・トップのテーブルに面していた。杉浦由起子は長いソファのまんなかにすわった。短いほうのソファにすわった五郎に、彼女は親しみを込めた視線を向けた。
「想像してましたのよ、どんなお顔のかたかしらと思って。似てらっしゃるのね、お母さまに。面影を感じるわ。子供の頃から思春期をとおして短大を出るまで、わたくしはずっと美穂ちゃんと友だちでしたから、美穂ちゃんがどんな顔の人だったか、よく知ってますのよ。はっきりと面影があるわ」
気持ちを込めてそう言った彼女の目に、涙が浮かんだ。しかしその涙は頬にこぼれるようなことはなく、いつしか消えた。
「僕の名前は五郎といいますが、五という字は母親の旧姓から取ったものでしょうか」
五郎の母親の旧姓は五島という。
「そうですよ。生まれてすぐに電話をかけてくれたとき、美穂ちゃんはそう言ってましたわ」
「五島という名は、五島列島と関係してますか」
「ずっとたどっていくと、親戚筋に当たる人に五島のかたがいたのですって。ごくかすかにつながりはあるのね」
そう答えて杉浦由起子はアトリエを見渡した。人としての奥行きを感じさせる笑顔を、五郎は観察した。母親が生きていればいまはこのくらいの年格好なのか、と彼は頭の片隅で思った。
「ここはアトリエね」
「そうです」
「絵をお描きになるの?」
「はい」
「うれしいわ、なんとも言えずにわたくしはうれしいのよ。門を入ってすぐにあのお部屋が見えて、あっ、アトリエだわ、と思ったのよ。そのときのうれしさを、いまわたくしは確認してます。血を引いてるのね、お母さんの。美穂ちゃんの」
「僕の母は絵を描く人だったのですか」
「そうよ」
という短い返答は、次の瞬間、鋭い閃光のようなものへと、かたちを変えた。目には見えないその閃光は、彼の五感のぜんたいを射し貫いて走り抜けた。そのあとに残った自分は、生まれ変わったような自分だ、と彼は思った。その思いに誇張はどこにもなかった。
「そうだったのですか」
自分の声が叫ぶように上ずっているのを、彼は自覚していた。
「ご存じなかった?」
ふたりのあいだにある空間をかいくぐって、優しい問いかけが彼に届いた。
「知りませんでした」