← Library‹ 物のかたちのバラッド 都電からいつも見ていた

都電とでんの車体しゃたいの前部ぜんぶにあるドアから、彼かれは雨あめの停留ていりゅう所しょに降おりた。降おりたのは彼かれひとりだった。だから彼かれはその場ばに立たったまま、車道しゃどうに向むけて傾かたむけた傘かさを開ひらいた。うしろのドアからも、降おりた客きゃくはいなかった。夜よるはまだ浅あさいのだが、この系統けいとうを走はしる都電とでんにとっては、乗客じょうきゃくが急きゅうに少すくなくなる時間じかんだった。自動じどう車しゃが走はしって来こないのを確たしかめた彼かれは、並木なみきのある歩道ほどうに向むけて、雨あめの降ふる車道しゃどうを渡わたった。走はしり去さった都電とでんとおなじ方向ほうこうへ少すこしだけいくと、四よつ角かどがあった。その角かどを彼かれは右みぎへ曲まがった。

二十にじゅうメートルほど向むこうに、今夜こんやもその店みせの看板かんばんのなかに明あかりが灯ともっていた。ほどよい大おおきさの縦長たてながの明あかり看板かんばんだ。淡あわい紫色むらさきいろのプラスティックの板いたに、明あかるいオレンジ色しょくで異邦いほう人にんという店名てんめいがあり、四角しかくい箱はこになっているその看板かんばんのなかから、明あかりが透過とうかしてくるというだけの、単純たんじゅんな看板かんばんだ。その店みせがある建物たてものの板壁いたかべの、ドアの脇わきにある小ちいさな窓まどのかたわらに、その看板かんばんは取とり付つけてあった。

看板かんばんに向むけて雨あめのなかを歩あるきながら、店みせのある建物たてものの様子ようすを彼かれは夜よるのなかに受うけとめた。なんの変哲へんてつもない、木造もくぞう二に階かい建だての民家みんかだ。店みせの部分ぶぶんだけ改造かいぞうしたのではないか、と彼かれは思おもった。道みちから少すこし引ひっ込こんでドアがあった。ドアのすぐ前まえに立たつと雨あめを避さけることが出来できた。彼かれは傘かさをたたみ、ドアを引ひいて開ひらき、店みせのなかに入はいった。入はいってすぐ脇わきの壁かべに寄よせて、傘かさを立たてる壺つぼがあった。雨滴うてきの垂たれる傘かさを彼かれはそこに立たてた。

「いらっしゃいませ」

と、女性じょせいふたりの声こえが重かさなった。店みせの空間くうかんに向むきなおった彼かれは、ふたりの女性じょせいたち、そして店みせの奥行おくゆきや造作ぞうさ、雰囲気ふんいきなどを、同時どうじに受うけとめた。女性じょせいたちふたりの笑顔えがおに対たいして、彼かれも笑顔えがおとなった。店みせに客きゃくはいなかった。

「どうぞこちらへ」

と、若わかいほうの女性じょせいがカウンターごしにストゥールを片手かたてで示しめした。だから彼かれはそこへいき、隣となりの席せきに鞄かばんを置おき、ストゥールにすわった。

「私わたくしは賭かけに勝かったのよ」

若わかい彼女かのじょが彼かれにそう言いった。この店みせにはこんな美人びじんがいたのか、と彼かれは思おもった。その思おもいのまま、彼かれは彼女かのじょの言葉ことばを受うけとめた。

「今日きょうのような雨あめの日ひは、お客きゃくさんは来こないわよと、こちらの叔母おばが言いうんです。残暑ざんしょが今日きょうで終おわるような、急きゅうに肌寒はださむい日ひでしょう。朝あさから冷つめたい雨あめが降ふっていて。ふたりで賭かけをしたの。ひとりはかならずお客きゃくさんが来くる、というほうに私わたくしが賭かけて」

「勝かちましたね」

「今日きょうは最初さいしょのお客きゃくさん」

カウンターの奥おくにとどまっている、叔母おばさんという着物きもの姿すがたの女性じょせいが、彼かれにそう言いった。

「一いち杯はいだけ飲のんで、すぐに店みせを出でて、しばらくしてまた来きたら、僕ぼくはふたりめの客きゃくになりますか」

彼かれの言葉ことばに若わかい彼女かのじょは明あかるく笑わらい、叔母おばさんのほうは複雑ふくざつに微笑びしょうしてみせた。

「妙みょうなことをおっしゃるのね。理屈りくつのお好すきなかたなのかしら」

三さん人にんは笑わらった。

「なにを差さし上あげましょう」

「ハイボール」

「なにかおつまみは」

「チーズはありますか」

「あるわよ」

「では、一いちセンチほどの厚あつさに切きって、それをさらに小ちいさなサイコロに切きってください」

「おつまみのこういう注文ちゅうもんも、私わたくしは初はじめてだわ」

半分はんぶんは自分じぶんに向むけて言ゆうかのように、叔母おばさんという女性じょせいが静しずかに言いった。カウンターの下したにある小ちいさな調理ちょうり台だいで、彼女かのじょは手早てばやくチーズを切きった。それを小ちいさな器うつわに入いれ、彼かれの手てもとに差さし出だした。絵えを描えがくことを仕事しごとにしている彼かれの目めに、その器うつわはきわめて趣味しゅみの良よい、美うつくしいものだった。ほどなくハイボールが、その器うつわのかたわらでコースターに載のった。

「なにか飲のみますか」

彼かれの誘さそいに若わかい彼女かのじょは首くびを振ふった。彼かれは叔母おばさんに顔かおを向むけた。

「私わたくしはいただこうかしら。おなじものを。夏なつの終おわりのハイボール」

叔母おばさんは彼かれの斜ななめ前まえまで来きた。若わかい彼女かのじょは二に杯はい目めのハイボールを作つくり始はじめ、彼かれはグラスを手てに取とってひと口くちだけ飲のんだ。グラスを持もったまま彼かれは次つぎのように言いった。

「おもての道路どうろを都電とでんが走はしってるでしょう。あの都電とでんに僕ぼくはしばしば乗のるのです。どちらが終点しゅうてんだか知しりませんけれど、起点きてんから終点しゅうてんまで、毎日まいにちのように乗のることもよくあります。その都電とでんの窓まどから、いつもこの店みせの看板かんばんが見みえていたのです。帰かえり道みちにいつか寄よってみようと思おもいながら、いつも停留ていりゅう所しょを過すぎてから、ああ、しまった、今日きょうも気きづくのが遅おそかった、と思おもってばかりいたのです。そして今日きょう、ついに、ふたつ手前てまえの停留ていりゅう所しょで気きづいて、すぐに席せきを立たって、ドアの前まえまでいって待まっていた、というわけです」

「そうね。都電とでんから看板かんばんは見みえるわね」

「僕ぼくがいつも乗のるのは、起点きてんから終点しゅうてんまでですから、一いち時間じかん以上いじょうかかるのです。窓まどから沿線えんせんを見みていて、気きになる店みせがいくつもあります。銭湯せんとう。焼やき鳥とりの店みせ。トンカツの店みせ。古本ふるほん屋や。いろいろ入はいってみましたよ。バーはここだけです」

「昼間ひるまは喫茶きっさ店てんなの」

「そうですか」

「始はじまりも喫茶きっさ店てんだったのよ。コーヒー豆まめ販売はんばいのチェーン店てんのような。コーヒー豆まめを割引わりびきで卸おろしてもらえて、いろいろと商売しょうばいの知恵ちえもつけてくれて、というようなチェーン店てんね」

「異邦いほう人にんというチェーンですか」

叔母おばさんのハイボールをコースターに置おきながら、若わかい彼女かのじょが笑わらった。

「店みせの名前なまえは好すきにつけていいのよ。なににしようか、いろいろ考かんがえて、さっきのお話はなしじゃないけれど、古本ふるほん屋やさんに入はいって本ほんの題名だいめいを眺ながめて、異邦いほう人にんにきめました」

「なんと読よむのか、わからない人ひともいますよ」

「きっとね。あまり変へんな人ひとに来きてはもらいたくないし。ちょっとだけ気取きどって。路傍ろぼうの石いしなんて、いいかなとも思おもったのよ」

叔母おばさんはハイボールを飲のんだ。彼かれも飲のんだ。そしてチーズのサイコロをひとつ、口くちに入いれた。

「マゾッホも、いいと思おもったの。サドマゾのマゾなんですってね、知しらなかったわ。帰路きろ、というのも覚おぼえてるわ。それから、空そら?」

「それも読よめない人ひとはたくさんいますよ。そらぜみ」

叔母おばさんは笑わらった。相手あいてをじっくりと取とり囲かこむような叔母おばさんの魅力みりょくと、若わかいほうの彼女かのじょの魅力みりょくとのあいだに、姻戚いんせき的てきなつながりはあるのだろうか、などと彼かれは思おもった。

「残のこりの雪ゆき。これもいいわね。ほかに覚おぼえているのは、散華さんげ。これも読よめないかしら。散ちる華はな、という読よみかたにしてもいいのね」

「昼間ひるまは喫茶きっさ店てんなら、僕ぼくは昼間ひるまに来きてもよかったわけですね」

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