山手線の日暮里駅の隣に京成日暮里駅がある。その京成に乗り換える。京成の電車で荒川区を隅田川に向けて横切る。町屋という駅で降りる。町屋一丁目の停留所でバスに乗り、尾竹橋の手前で降りる。歩いてもいい。「若いきみだ、歩くといいよ」と、この仕事を紹介してくれた加納英人という雑誌編集者は言っていた。
「尾竹橋公園の川上の隣、だから北東にあたるか、隅田川に敷地の裏を接して、玩具の製造工場とその事務所があるんだよ。倉庫もそこだったかな。優秀な工場でね、輸出用の高級な玩具を作ってる。その事務所へいって、宣伝庶務の大畑という男に会ってくれ。話はすべてつないであるから、会えばわかる」
加納に言われたとおりの経路で、深町康祐はその工場を訪ねた。場所はすぐにわかった。道路に面して漠然とした入口があり、その入口にもっとも近い建物の壁に、玩具製造会社の名前がペンキでじかに書いてあった。敷地に入るとそこは入口とおなじように漠然とした空き地のようなスペースで、それを取り巻いていくつもの建物があった。必要に応じてひとつずつ建てていったらこうなった、という雰囲気が濃厚にあった。
加納が言ったとおり敷地のすぐ裏は隅田川で、対岸には発電所の煙突が四本、おたがいに近接して高く立っていた。敷地のなかを歩いていく自分に向けて、四本の煙突が動いてくるような錯覚を深町はふと覚えた。
空き地を囲んでひとつずつ無頓着に建てた建物のなかから、ここが事務所ではないかと思える建物を選び、彼はそれに向かって歩いた。ガラス戸のなかに見えるのは、雑然としているけれど事務所だった。彼はガラス戸を開き、なかに入ってうしろ手に戸を閉じた。かたわらに木製の短いカウンターがあり、ボール紙を三角の筒に折って「受付」と手書きしたものが、その上に置いてあった。カウンターにもっとも近い事務机では、制服を着た中年の女性が分厚い伝票の束を繰りながら、早い指の動きで算盤を入れていた。その指が止まるのを彼は待った。
おなじ制服を着た若い女性がひとり、大部屋の奥から机のあいだを歩いて来た。彼女に目を向けた深町は、そのまま彼女に見とれた。ここになぜこんな美人がいるのか、と彼は思った。こんなきれいな女性がここでなにをしているのか。カウンターの少し手前で立ちどまった彼女は、微笑してまっすぐに彼を見た。そしてかすかに鼻にかかった、しかしはっきりした声で、
「深町さんでいらっしゃいますか」
と訊ねた。
「そうです」
「お待ちしておりました。それではどうぞこちらへ」
彼のかたわらまで歩いた彼女は、片手でガラス戸を示した。そしてそれを開き、先に外へ出た。深町が出るのを待ってガラス戸を閉じ、
「部長が兼任で別の建物におります」
と言った。
空き地を斜めに横切り、ふたつの建物のあいだを入り、その裏にある小さな建物に向かった。先を歩く彼女の、くるぶしやアキレス腱の周囲のきれいな造形が、じつに好ましく動く様子を彼は見ていた。この建物も入口はガラス戸だった。木製の階段を二段だけ上がり、ガラス戸を開いてなかに入り、彼女は深町を招き入れた。
ここにはひとつの部署だけがあるように思えた。入ってすぐの片隅にソファと小さなテーブルがあった。応接のためのスペースだ。彼女はソファを片手で示した。
「どうぞおかけください。部長を呼んでまいります」
そう言って彼女は部屋の奥へ歩いた。ソファにすわると彼の体は深く沈み込み、彼女の姿は見えなくなった。中年の男性とともに彼女は戻って来た。
「宣伝庶務の部長をしております杉浦です。こちらは深町さん」
彼女がそう言い、ふたりの男性は挨拶を交わした。杉浦が名刺を出した。深町はいつもは名刺を持っていない。名刺を作って持っていけ、と加納に言われた。下北沢の名刺屋で作ったばかりの名刺を、彼は彼女と杉浦に渡した。彼女も名刺をくれた。ソファにすわって向き合い、
「お若いですね」
と、杉浦は言った。
「こんなお若いかたとは」
「二十五です」
「今年、一九六五年、アメリカ向けのクリスマスのカタログに載せる絵なんですよ。製品ひとつにつき一枚ずつチラシを作って、それにはカラー写真と説明文が英語でつきます。その何枚ものチラシをひとまとめに収める、なんと言ったかね」
と、杉浦は彼女に顔を向けた。
「フォルダーです」
「そう、そのフォルダー。書類ばさみのようなものですね。ふたつに開く。下が折り返してあって、そこにチラシを差しておくと下へ落ちない」
「よくわかります」
「そのフォルダーの表紙にあたる面に楽しげな絵をひとつ。もちろんカラーです。そしてフォルダーを開いたぜんたいに、おなじく楽しげな絵をひとつ。どちらもクリスマスの雰囲気で」
「はあ」
「設定はアメリカの日常生活ですよ。ごく普通の、中流とでも言いますか。お父さんがいてお母さんがいて、ときあたかもクリスマス、そして子供たちはプレゼントをもらって大喜び、そのプレゼントがうちで輸出している玩具であると、こういうことです」
「わかります」
「表紙は製品を主体にしてくださいよ。ショー・ウインドーに魅力的にならんでいる様子など、どうですか」
「いいですね」
「開いた二ページにあるのは、プレゼントをもらって喜んでいる子供たちの様子ですね」
「なるほど」
「描けますか」
「なんでも描けます」
という深町の返答に、杉浦はほんの一瞬、不愉快そうな表情となった。しかしそれを苦笑へとつなげ、
「それは心強い。いいものが出来ればそれでいいのです」
と言った。
「私からの説明はこれだけですね。アメリカ向けですから、まさにアメリカとして描いてくださいよ。いまのアメリカです」
「わかりました」
杉浦は立ち上がった。
「では、あとはこちらの三崎くんが担当します。絵を描かれるときの参考用に、当社の輸出用の玩具を、一点ずつすべてお貸しします。貸与ですから仕事が終わったならお返しいただけるように」
「承知しました」
杉浦はガラス戸を出ていった。彼女の名刺に印刷されている名前を深町は見た。三崎順子。彼女に戻した彼の視線を受けとめて、
「こちらにメモしておきました」