← Library‹ 物のかたちのバラッド もう痛くない彼女 2

都電とでんを停留ていりゅう所しょで降おり、自動じどう車しゃの流ながれが途切とぎれたのを確たしかめてから、道路どうろの反対はんたい側がわへ渡わたる。そこから少すこしだけ左ひだりへ歩あるいたところに、都電とでんの引込ひっこめ線せんがある。道路どうろのまんなかの本線ほんせんから離はなれた引込ひっこめ線せんは、道路どうろの半分はんぶんを斜ななめに横切よこぎり、歩道ほどうも断たち切きったのち、専用せんようの軌道きどうへと入はいっていく。この軌道きどうの片側かたがわに、なぜか歩道ほどうが作つくってある。石いしを敷しきつめた文字もじどおり石畳いしだたみの歩道ほどうだ。幅はばは狭せまいと言いっていい。人ひとは無理むりなくすれ違ちがえるが、ふたりとも傘かさをさしている雨あめの日ひには、おたがいに傘かさの高たかさを変かえなくてはいけない。傘かさをさした人ひとがふたりならんで歩あるくのも窮屈きゅうくつだ。どちらかが傘かさをたたみ、相合あいあい傘かさとなる。  

軌道きどうの反対はんたい側がわは壁かべを接せっして建たちならぶ飲のみ屋やの裏手うらてだが、この引込ひっこめ線せんと歩道ほどうには風情ふぜいがある。ひと頃ころは映画えいがの撮影さつえいが頻繁ひんぱんにおこなわれていた。

この歩道ほどうを歩あるいていくと、軌道きどうを横切よこぎる道みちに出でる。その道みちのとおりに軌道きどうを渡わたると目めの前まえにアーチがある。仲なか通とおり飲食いんしょく店てん街がい、という文字もじを掲かかげたアーチだ。このアーチをくぐらず、アーチの手前てまえを軌道きどうに沿そっていくと、ここにもならんでいる飲のみ屋ややバーの列れつのなかに、ミロンガというバーがある。間口まぐちはドアだけのように見みえる、小ちいさな店みせだ。

平日へいじつの夕方ゆうがた、六ろく時じ前まえに、深町ふかまち康祐やすすけはこの店みせの前まえに立たった。腕うで時計とけいを見みた。もういっぽうの手てには鞄かばんを下さげていた。彼かれはいつもこの鞄かばんを持もっている。絵えを描えがく人ひとがポートフォリオを入いれて歩あるくような、薄うすい鞄かばんだ。店みせのドアは閉とじられていた。歩あゆみ寄よった彼かれはドアをノックした。中野なかの江利子えりこの声こえでなかから返事へんじがあった。彼かれはドアを開ひらいた。

美人びじんそのものと言いっていい中野なかの江利子えりこが、カウンターの外そとに立たっていた。彼かれより五ご歳さい年上としうえのちょうど三十さんじゅう歳さいだ。

「あら」

というひと言こと、そしてそれにともなう表情ひょうじょうや、ほんのちょっとした体からだの動うごきなど、美人びじんのものでしかあり得えない様子ようすに、いつ見みても深町ふかまちは感銘かんめいに近ちかいものを覚おぼえる。

「早はやすぎますか」

「そんなことないのよ」

彼女かのじょはカウンターのなかに入はいった。白しろいシャツに灰色はいいろのスカート、細ほそいヒールのある赤あかいサンダルという全身ぜんしんは、カウンターのすぐ向むこうで上じょう半身はんしんだけとなった。小ちいさな赤あかいペンダントが、左右さゆうの鎖骨さこつが出会であうすぐ下したで、シャツの白しろさと拮抗きっこうし、どちらにとっても安定あんていを作つくり出だしていた。江利子えりこの性格せいかくがここにそのまま出でている、と深町ふかまちは思おもった。なにごとかが対立たいりつのなかで均衡きんこうして併存へいそんし、それが彼女かのじょにとってのエネルギーとなっている。

「おすわりなさいよ」

カウンターの外そとにならぶストゥールを彼女かのじょは示しめした。彼かれはストゥールにすわった。鞄かばんを隣となりの席せきに横よこたえた。

「今日きょうは夏なつのような日ひだったわね。カルピスでもあげましょうか。あるのよ。買かってきたの。ふと飲のみたくなって。季節きせつなのね」

江利子えりこはカルピスの用意よういを始はじめた。彼女かのじょの体からだの作つくりとその動うごきを、いまはカウンターの外そとの彼かれだけが見みていた。

「加納かのうさんは来くるでしょうか」

「さあ」

と、江利子えりこは答こたえた。

「来くるとすれば、一いち週間しゅうかんぶりくらいね。来くるわね、きっと。でも、七なな時じ過すぎよ。はしごの晩酌ばんしゃくがうちから始はじまるの。加納かのうさんになにか用ようなの?」

「紹介しょうかいしていただいた仕事しごとのことで」

「絵えの仕事しごと?」

「そうです」

「どんな絵えなの?」

「玩具がんぐの会社かいしゃがアメリカ向むけに作つくるクリスマスのカタログです」

「いいわねえ、絵えが描えがけて。私わたくしは小しょう学校がっこう一いち年ねん生せいのときに目玉めだま焼やきを描えがいたら、それは水みずたまりかい、と先生せんせいに言いわれたのよ」

ふたりは笑わらった。

ふたつならべたコースターの上うえに、江利子えりこはカルピスのグラスを置おいた。

「ストローで飲のみたい?」

「いいえ、このまま」

ふたりはそれぞれにカルピスを飲のんだ。

「ミロンガという店みせは神保町じんぼうちょうにもありますね」

「知しってるわ。いったこともあるのよ、何なん度どか。タンゴのような音楽おんがくのリズムのことだ、と誰だれかに教おしえられたけど、そうではなくて、下町したまちの心こころ意気いき、というような意味いみなのですって。タンゴにあるわね。ミロンガの嘆なげき。ではなくて、ミロンガの泣なくとき。嘆なげくのはバンドネオンだわ。ミロンガは泣なくのよ。私わたくしのことかしら」

隣となりの席せきから鞄かばんを取とり、深町ふかまちはそれを膝ひざの上うえに置おいた。そしてジパーを開ひらき、大おおきな封筒ふうとうを取とり出だした。なかには分厚ぶあつくなにか入はいっていた。

「ヨシオから預あずかりました。江利子えりこさんの翻訳ほんやくの原稿げんこうです。添削てんさくをすべて終おえた、とヨシオは言いってました」

「あら、うれしい。電話でんわをして催促さいそくしようと思おもってたのよ」

彼女かのじょは封筒ふうとうを受うけ取とった。そしてなかから原稿げんこうを引ひき出だした。四百よんひゃく字じ詰づめの原稿げんこう用よう紙しで二百にひゃく枚まいほどあった。鉛筆えんぴつできれいに書かいた原稿げんこうに細長ほそながい付箋ふせんが何なん枚まいも貼はってあった。

「これでちょうど半分はんぶんくらいなの。私わたくしの二に冊さつ目めの翻訳ほんやく。アメリカのミステリー。昨年さくねんに出だした一いち冊さつ目めの評判ひょうばんが良よくて、うかうかと引ひき受うけたこの二に冊さつ目めに、苦労くろうしてるのよ」

「ヨシオから伝言でんごんがあるのですが」

「なにかしら」

「そのまま伝つたえていいですか」

「どうぞ」

「わからないところや間違まちがえるところがこれだけあるなら、翻訳ほんやくの仕事しごとはやめたほうがいい、と伝つたえてくれと言いわれました」

「言ゆうわねえ、あのこも。ちきしょうめ。でも、そのとおりよ。翻訳ほんやくは二に冊さつで終おわり。あとは自分じぶんで小説しょうせつを書かくわ」

そう言いってカルピスを飲のみ、彼女かのじょは自分じぶんの書かいた原稿げんこうを見みた。

「きちんと直なおしてあるわね。あらあ、ここはこんな意味いみだったの」

ひととおり見みた彼女かのじょは、二百にひゃく枚まいの原稿げんこう用よう紙しをふたつに折おり、封筒ふうとうに戻もどした。

「ありがとう。ヨシオにも来くるように言いってよ」

「ひとりでは来こないでしょう」

「なぜ?」

「人ひと見知みしりするんです」

「私わたくしをいまも人ひと見知みしりしてるの?」

「客きゃくに人ひと見知みしりしたりするのです」

「連つれて来きて」

江利子えりこはカルピスのグラスの表面ひょうめんを指先ゆびさきで撫なでた。

「ヨシオとは高校こうこうで同級どうきゅうだったと言いってたわね」

「そうです。いまでも友ともだちです」

「あなたとヨシオは似にてるのよ。だから気きが合あって、友ともだちでいられるのよ」

「そうですか」

「そうよ。人ひとのことをクールによく見みてて、見抜みぬくことが出来できて、遠慮えんりょなくすぱっとなにか言ゆうと、憎にくらしいほど正ただしくて」

「僕ぼくはそれほどでもないんです」

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