都電を停留所で降り、自動車の流れが途切れたのを確かめてから、道路の反対側へ渡る。そこから少しだけ左へ歩いたところに、都電の引込線がある。道路のまんなかの本線から離れた引込線は、道路の半分を斜めに横切り、歩道も断ち切ったのち、専用の軌道へと入っていく。この軌道の片側に、なぜか歩道が作ってある。石を敷きつめた文字どおり石畳の歩道だ。幅は狭いと言っていい。人は無理なくすれ違えるが、ふたりとも傘をさしている雨の日には、おたがいに傘の高さを変えなくてはいけない。傘をさした人がふたりならんで歩くのも窮屈だ。どちらかが傘をたたみ、相合い傘となる。
軌道の反対側は壁を接して建ちならぶ飲み屋の裏手だが、この引込線と歩道には風情がある。ひと頃は映画の撮影が頻繁におこなわれていた。
この歩道を歩いていくと、軌道を横切る道に出る。その道のとおりに軌道を渡ると目の前にアーチがある。仲通り飲食店街、という文字を掲げたアーチだ。このアーチをくぐらず、アーチの手前を軌道に沿っていくと、ここにもならんでいる飲み屋やバーの列のなかに、ミロンガというバーがある。間口はドアだけのように見える、小さな店だ。
平日の夕方、六時前に、深町康祐はこの店の前に立った。腕時計を見た。もういっぽうの手には鞄を下げていた。彼はいつもこの鞄を持っている。絵を描く人がポートフォリオを入れて歩くような、薄い鞄だ。店のドアは閉じられていた。歩み寄った彼はドアをノックした。中野江利子の声でなかから返事があった。彼はドアを開いた。
美人そのものと言っていい中野江利子が、カウンターの外に立っていた。彼より五歳年上のちょうど三十歳だ。
「あら」
というひと言、そしてそれにともなう表情や、ほんのちょっとした体の動きなど、美人のものでしかあり得ない様子に、いつ見ても深町は感銘に近いものを覚える。
「早すぎますか」
「そんなことないのよ」
彼女はカウンターのなかに入った。白いシャツに灰色のスカート、細いヒールのある赤いサンダルという全身は、カウンターのすぐ向こうで上半身だけとなった。小さな赤いペンダントが、左右の鎖骨が出会うすぐ下で、シャツの白さと拮抗し、どちらにとっても安定を作り出していた。江利子の性格がここにそのまま出ている、と深町は思った。なにごとかが対立のなかで均衡して併存し、それが彼女にとってのエネルギーとなっている。
「おすわりなさいよ」
カウンターの外にならぶストゥールを彼女は示した。彼はストゥールにすわった。鞄を隣の席に横たえた。
「今日は夏のような日だったわね。カルピスでもあげましょうか。あるのよ。買ってきたの。ふと飲みたくなって。季節なのね」
江利子はカルピスの用意を始めた。彼女の体の作りとその動きを、いまはカウンターの外の彼だけが見ていた。
「加納さんは来るでしょうか」
「さあ」
と、江利子は答えた。
「来るとすれば、一週間ぶりくらいね。来るわね、きっと。でも、七時過ぎよ。はしごの晩酌がうちから始まるの。加納さんになにか用なの?」
「紹介していただいた仕事のことで」
「絵の仕事?」
「そうです」
「どんな絵なの?」
「玩具の会社がアメリカ向けに作るクリスマスのカタログです」
「いいわねえ、絵が描けて。私は小学校一年生のときに目玉焼きを描いたら、それは水たまりかい、と先生に言われたのよ」
ふたりは笑った。
ふたつならべたコースターの上に、江利子はカルピスのグラスを置いた。
「ストローで飲みたい?」
「いいえ、このまま」
ふたりはそれぞれにカルピスを飲んだ。
「ミロンガという店は神保町にもありますね」
「知ってるわ。いったこともあるのよ、何度か。タンゴのような音楽のリズムのことだ、と誰かに教えられたけど、そうではなくて、下町の心意気、というような意味なのですって。タンゴにあるわね。ミロンガの嘆き。ではなくて、ミロンガの泣くとき。嘆くのはバンドネオンだわ。ミロンガは泣くのよ。私のことかしら」
隣の席から鞄を取り、深町はそれを膝の上に置いた。そしてジパーを開き、大きな封筒を取り出した。なかには分厚くなにか入っていた。
「ヨシオから預かりました。江利子さんの翻訳の原稿です。添削をすべて終えた、とヨシオは言ってました」
「あら、うれしい。電話をして催促しようと思ってたのよ」
彼女は封筒を受け取った。そしてなかから原稿を引き出した。四百字詰めの原稿用紙で二百枚ほどあった。鉛筆できれいに書いた原稿に細長い付箋が何枚も貼ってあった。
「これでちょうど半分くらいなの。私の二冊目の翻訳。アメリカのミステリー。昨年に出した一冊目の評判が良くて、うかうかと引き受けたこの二冊目に、苦労してるのよ」
「ヨシオから伝言があるのですが」
「なにかしら」
「そのまま伝えていいですか」
「どうぞ」
「わからないところや間違えるところがこれだけあるなら、翻訳の仕事はやめたほうがいい、と伝えてくれと言われました」
「言うわねえ、あのこも。ちきしょうめ。でも、そのとおりよ。翻訳は二冊で終わり。あとは自分で小説を書くわ」
そう言ってカルピスを飲み、彼女は自分の書いた原稿を見た。
「きちんと直してあるわね。あらあ、ここはこんな意味だったの」
ひととおり見た彼女は、二百枚の原稿用紙をふたつに折り、封筒に戻した。
「ありがとう。ヨシオにも来るように言ってよ」
「ひとりでは来ないでしょう」
「なぜ?」
「人見知りするんです」
「私をいまも人見知りしてるの?」
「客に人見知りしたりするのです」
「連れて来て」
江利子はカルピスのグラスの表面を指先で撫でた。
「ヨシオとは高校で同級だったと言ってたわね」
「そうです。いまでも友だちです」
「あなたとヨシオは似てるのよ。だから気が合って、友だちでいられるのよ」
「そうですか」
「そうよ。人のことをクールによく見てて、見抜くことが出来て、遠慮なくすぱっとなにか言うと、憎らしいほど正しくて」
「僕はそれほどでもないんです」