上野駅まで母親はホミを送った。ホミはディ・パックを背中にかつぎ、小ぶりなボストン・バッグを片手に下げていた。特急の発車番線に入ってグリーン車の前で待っていると、トキとその父親がほどなくあらわれた。ホミの母親とトキの父親は、ともに大人の定型的な挨拶を交わした。軽井沢の別荘に娘を一週間にわたって同居させてもらうことに関して、ホミの母親は何度も礼を述べた。
次の日にホミの母親は成田空港からヨーロッパへ飛び立った。そしてホミは、予定どおり、トキとその姉、そして両親たちとともに、軽井沢で一週間を過ごした。たいへんに楽しかった。ホミは別荘およびその周辺によくなじんだ。別荘のなかでの生活にも、ホミはたちどころに適応した。どんな場所にでもすぐになじめて、そこを以前からの自分の居場所のようにする能力を、ホミは幼い頃から発揮していた。
朝起きてから夜寝るまでのあいだの、日常のこまごましたことをすべて喜んで引き受け、そのどれをも丁寧にこなして自分のルーティーンにしてしまうと、彼女はどこにでもすぐになじむことが出来た。なじんでしまうと、そこは以前からずっと自分の居場所だったのだと、ホミは信じることが出来た。
一週間もあれば、トキたちと過ごした軽井沢の別荘は、完全にホミの場所となった。充分になじんですぐに、そこを去るときの不思議な感触も、ホミは楽しんだ。ひょっとしたら自分はもう二度とここへは来ないかもしれないと思いつつ、なじんで自分の場所となったその別荘をあとにするとき、そこに滞在していた自分と、そこを去っていく自分とが完全に対等に相殺され、したがってどちらも消えてしまうような錯覚を、彼女は楽しむことが出来た。
特急で上野までいき、そこからいったん自宅へ戻る予定だった。その予定のとおりにホミは行動した。駅までトキと彼女の父親に車で送ってもらい、切符を買ってあった午後の特急にホミは乗った。
上野から東京駅へ、そして東京駅から中央線で新宿へ。新宿から私鉄の急行に乗ったホミは、降りるべき駅のひとつ先で降りた。急行は彼女の駅には停車しないのだ。彼女は図書館へいった。
軽井沢へも持っていった勉強をさらに進め、そのあと本を借りて読んだ。閉館の六時まで図書館で過ごし、好みの店を何軒か見て歩いてから、ひとりで食事をした。駅へいき、上りの各駅停車に乗り、いつもの駅で彼女は降りた。
自宅まで歩いた。低い門を開いて敷地に入り、玄関のドアの前に彼女が立ったとき、ちょうど午後七時だった。夕方が始まっていたが、外はまだ充分に明るかった。
キーをふたつ使ってホミは玄関のドアを開いた。静かになかに入り、彼女は丁寧にドアを閉じた。手に下げていたボストン・バッグを玄関に置き、そのかたわらに背中からディ・パックを降ろした。そして彼女は靴を脱いだ。絨毯の敷いてある廊下へ上がった。
廊下の奥にむかって立ち、ホミは家のなかの気配を全身で感じ取った。彼女が軽井沢へいった次の日に、母親はヨーロッパにむけて出発していた。だから今日で六日間、この家は人のいない留守の状態が続いていた。現在の無人の気配、そして六日間にわたってそのなかで人が動いたことのない状態が空気のなかに作り出す、空き家のようなあるいは博物館のような感触を、ホミは全身で確認した。
人がいなくても、そしてすべての窓が閉じてあっても、空気そのものは常に入れ替わっていたようだ。ホミが想像していたような、真夏の暑い空気が家のなかにじっと澱んでいる状態は、まったくと言っていいほどに感じなかった。この家はヴェンティレーションに工夫がしてあり、外との空気の流通がとてもいいのだと、彼女の父親はいつも自慢していた。父親が自慢するとおりなのだと、彼女ははじめて実感をともなって納得した。
六日間にわたって誰もいず、したがってなにも動かずに静止したままであった家のなかにむけて、ホミはゆっくりと歩いていった。自分好みの期待感が高まるにつれて、心臓の鼓動が早くなっていくのを、左の肋骨の内部にホミは自覚した。
かつて遠い昔、自分はこの家に住んでいたことがあるのだ、と思いながら彼女は間取りの奥へむかった。何十年、さらには何百年、あるいは年の単位では数えきれないほどに遙か遠い昔。いまここにいるのは、その遠い昔の現場へ、時間のトンネルをさかのぼってくぐり抜け、一時的に帰還している自分だ。
ここは、遠い昔、自分が置き去りにした抜け殻だ。かつてここに住んでいた自分の家、そしてその家のなかで使っていた物などが、なぜか昔のままに現在も保存されている。いまは完全に異なった時間の世界にいる自分は、かつての時間が虚空へ消え去り、各種の物体だけが残っているこの場所へ、来訪者として確認に来ている。廊下を奥にむけて四歩、五歩と歩いていくあいだに、ホミは自分を完璧にそのような自分に変えてしまった。
キチンから始めて一階にある間取りのなかすべてを、ホミは静かに観察してまわった。なににも手を触れることなく、そして音を立てないように歩いては、視覚だけによる観察を彼女はおこなった。
見るもののひとつひとつが、遙かな時間の彼方から懐かしい感情をつまみ出し、たぐり出した。自分の記憶のなかというよりも、とっくの昔に宇宙の果てにむけて消え去った時間の底から、その懐かしさは蘇って来るもののように、ホミは感じた。そうだ、かつてここにはこんなものがあった。あ、これは見覚えがある。あの頃の自分は、確かにこれを使っていた。これは父親のものだ。そしてこれは、母親の愛用品だ。
そう言えばあの両親たちは、遠い昔の時間の分岐点で別れたきりだが、いまはどこでどうしているのだろう。時間の彼方で胸をじんわりと絞り上げられるような、ほのかなせつない気持ちをホミは楽しんだ。両親という奇妙なものを仲介して感じ取る遠い昔の自分が、その楽しみの出発点だった。