九月の第四週、金曜日の最後の授業が終わった。生徒たちは教室を出た。二階にある教室から一階のロッカー・ルームを経由して、生徒たちは建物の外へ出た。ほとんどの生徒たちは自宅へ帰っていく。ごく少数は図書館へいき、それよりもすこしだけ多い数の生徒たちは、それぞれのクラブ活動の場へむかった。
学校の広い敷地は起伏の連続だった。学校へ来ると、誰もが何度も坂を登り、いくつも坂を下らなければならなかった。ハチミとリカは、ふたりだけで肩をならべ、坂を下っていた。
半袖のシャツの上に、リカはごく薄い生地のジャケットを着ていた。ハチミは長袖のシャツの上に花模様のヴェストだ。彼女はシャツの両袖をまくっていた。
「秋だね」
ハチミが言った。
「汗をかかなくなりましたよ」
リカが答えた。
「日曜日の昼過ぎに起きて、半袖とショート・パンツでいると、一時間ほどでくしゃみが出て、二時間するとだるくなって、三時間たつとお腹が痛くなったり、風邪の始まりみたいに頭がぼうっとしてくる」
「それ、よくわかる。ベッドで布団にくるまってると、そのうち直るよ」
「私も、長袖のシャツとジーンズに着替えると、いつのまにか直ってる」
「だから秋なんだ」
「そうだね」
坂を下りたふたりは、水路沿いの道に出た。広い敷地のなかに三キロにわたって、直線で水路が作ってある。大学のボート部がボートの練習をするためのものだ。
それは運河にも見えるし、川にも見える。両側に道があり、ベンチのある植え込みや花壇をへて、柵が作ってある。その柵の外が水路だ。柵を越えて人が落ちても、直接には水のなかへ落ちないよう、人工的な川原がある。草の生えた川原だ。その川原のむこうが、水路だ。
リカとハチミはベンチにすわった。ジャケットのポケットに手を入れたリカは、小さな四角い紙の箱を取り出した。透明なセロファンでくるんであるその箱には、写実的なオレンジの絵が鮮やかに印刷してあった。
指紋のほとんどない小さな掌にその箱を載せたリカは、それをハチミに見せた。
「懐かしい!」
箱をひと目見て、ハチミが叫んだ。
「それは、オレンジ・ガム!」
オレンジ・ガムの箱をひとつ載せた自分の掌を、リカは顔の高さにかかげた。
「ものすっごく懐かしい」
ハチミが言った。
「涙が出てくるほど、懐かしい」
そう言っているハチミの目は、早くもうっすらと浮かんだ涙でうるんでいた。
三センチ四方、そして厚さは一センチほどのその小さな箱を、ふたりの十四歳の少女は、熱意をこめて観察した。
「今朝、買ったの。学校へ来る途中」
リカが言った。
「あの店?」
ハチミの質問にリカはうなずいた。
駅を出て学校の正門へ向かう途中、商店のならぶなかに、菓子とパンの店があった。ありとあらゆる菓子、そしておなじくありとあらゆる菓子パンを売っている店だ。
「これを私はひとつだけ買ったの」
リカが言った。
「気持ちはすっごくわかる」
叫ぶように、ハチミが言った。
「今日はどの授業もつまらないでしょう。だから、これをひとつだけ買って、ジャケットのポケットに入れておいたの。ときどき手を入れて、この小さな箱を指先に持つの。今日はこのオレンジ・ガムが私を救ってくれた」
「わかる、わかる」
ベンチを立ったハチミは、リカの前で跳びはねた。
「ポケットのなかで箱を指先に持って振ると、箱の中でオレンジ・ガムがころころしてるんだよね」
「可愛い! 懐かしい!」
ハチミが叫んだ。
「私にも持たせて」
そう言ったハチミは、リカにむけて手をのばした。なにかたいへんに貴重な、そしてきわめて繊細な細工物を持つかのように、ハチミはオレンジ・ガムの箱をリカの掌から丁寧に指先でつまみ上げた。
「うれしい。可愛い。あ、ほんとだ、なかでガムがころころしてる。音がしてる」
「小さい頃、よく食べたよ」
「私も。いまでもおんなじだ。ぜんぜん変わっていない」
「いっしょに食べよう」
リカは箱をハチミから受け取り、透明なセロファンをはがした。箱を開き、なかに入っているものをすべて、掌の上に出した。
オレンジ色すぎるオレンジ色の、パチンコの玉ほどの大きさの玉が六個、リカの白い小さな掌の上に転がり出てきた。うれしさに、ハチミは悲鳴を上げた。
「いまでも六つなんだ!」
「三つずつ食べよう」
「ひょっとしたら、二年以上、私はガムを食べていない」
「私も、そう」
リカの掌からオレンジ・ガムをひとつ、ハチミはつまみ取った。鼻先へ持っていき、香りをかいでみた。
「香りも昔とおんなじ!」
ハチミは感激した。
「幼稚園からはじまって小学校いっぱい、私はほんとによくこれを食べた」
リカが言った。
「私も。ガムといえば、これだったから」
「いまでも私は、ゲップやシャックリが出ると、このオレンジ・ガムの香りがする」
「それは、リカ、おおげさだよ」
そう言ってハチミは笑った。ベンチにすわりなおしたハチミは、指先にあるオレンジ色の玉を口に入れた。唇を閉じた彼女は、口のなかに広がる合成されたオレンジの香りと味に、目を閉じて歓声をあげた。
「懐かしい。昔のまんま!」
リカもオレンジ・ガムを口に入れた。ふたりはそれぞれにガムを噛んだ。
「おんなじだ。昔に帰ったみたい」
感慨をこめて、ハチミが言った。
「私も、昔の私とおなじ私なの?」
リカの質問に、ハチミはうなずいた。
「幼稚園の頃にくらべると、私もリカもすこしだけ年を取ってるけれど、このオレンジ・ガムを食べているときの私は、昔の私に戻ってる。リカも、昔のリカだ」
「オレンジ・ガムは、タイム・マシーンね」
「そう。いまの私たちは、完全に昔に帰っている」
「昔の時間がいまも続いているの?」
リカが質問した。
その質問に、ガムを噛みながらハチミは首を左右に振った。
「昔も時間が流れていて、たとえば幼稚園の頃の私たちは、そのとき流れていた時間のなかにいたのよ。いまも時間は流れていて、いまの私たちはいまの時間のなかにいます」
ハチミの回答にリカは首をかしげた。ふと遠くを見て、リカは次のように言った。