台風十号は、最初はグアム島の西に発生した弱い熱帯性低気圧だった。北西にむけて進むにつれ、暴風圏を持つ中型の台風となった。夏の台風らしく不規則な進路をとって北上し、西日本に接近した。奄美諸島をへて九州に上陸し、太平洋高気圧の縁に沿って北東に方向を変え、加速を始めた。そして西日本を北上し、八月八日には秋田沖の海に出た。
激しい雨が東京に残った。八日は朝から降り続け、午後から夕方になるにつれて、雨は降りかたの激しさと量を増していった。今日の深夜から明日の朝への境い目にかけて、東京の雨量は頂点に達するだろうと、TVの気象ニュースは予報していた。その予報のとおり、夜になると雨はいちだんと激しさを増した。風はさほどでもなかった。
九時過ぎの住宅地のなかを、十四歳のミヨコは、大きなこうもり傘をさして、雨のなかをひとりで歩いていた。傘を頭のすぐ上まで下ろして柄を両手で持ち、首をすくめてミヨコはゆっくり歩いた。素足に白いサンダルをはき、ミニ・スカートの両脚は雨に濡れていた。降る雨は歩道から跳ね返る雨といっしょになって、ミヨコの短いスカートの裾のすぐ下あたりまで、常に届いていた。乗用車が一台、前方から走って来た。歩いていくミヨコの脚を、密度の濃い雨をかいくぐったヘッド・ライトが、すれちがいながら照らした。すんなりとのびた、かたちの良い脚だった。
その乗用車を見送るように立ちどまったミヨコは、傘を少しだけ上へ上げた。歩道のある二車線の道の左右を、彼女は見た。そしてむこう側へ渡った。大きく立ちふさがる二面の壁のように、十五階建ての集合住宅がL字型に建っていた。その集合住宅の駐車場へ、ミヨコは入っていった。
集合住宅の広い駐車場の縁を歩いていったミヨコは、やがてふと駐車場のなかに入った。停めてある自動車の列のなかを蛇行して歩き、ミヨコは建物にむかった。自動車のかたわらを歩いていくとき、車体から跳ね返る雨は彼女のミニ・スカートの腰から半袖シャツの袖口まで、存分に濡らした。
駐車場を抜けたミヨコは、建物の正面入口の軒下に入った。傘をさしたままドアまで歩いていき、ドアの前で傘をすぼめた。そしてロビーに入った。管理人室のカウンターに明かりがついていた。カウンターの奥に人の気配があった。ミヨコは一方の壁へ歩み寄った。電話機とおなじ配列の数字のボタンとインタフォーンがある前に立ち、ミヨコはヒトミの部屋の番号を押した。
「はーい」
というヒトミの声が、インタフォーンから聞こえた。
「ミヨだよ」
と、インタフォーンの送話口にむけて、ミヨコは言った。いまのヒトミの返事とよく似た陽気な口調だった。
「はーい」
と、ヒトミはくりかえした。
ミヨコは奥のガラス・ドアへ歩き、部屋にいるヒトミがロックを開放したその重いドアを全身で押して開き、なかに入った。
ミヨコの目の前に、エレヴェーターがあった。ボタンを押した彼女は、三基あるエレヴェーターのうちどれが降りてくるのか、階数表示の明かりを見上げて待った。フロアに先端を下ろしているこうもり傘から、雨水が流れ落ちて彼女の足もとに広がっていった。
エレヴェーターにひとりで乗ったミヨコは、六階で降りた。傘の先端から水を垂らしながら、彼女はヒトミの部屋まで歩いた。通路の両側に、部屋のドアが規則的にならんでいた。
ミヨコはドア・チャイムのボタンを押した。すぐにドアの内側に人の気配があり、
「はーい」
と、ヒトミの明るい声がした。ドアが開いた。ミヨコと良く似た体型と雰囲気の、おなじ十四歳の少女であるヒトミが、ミヨコを招き入れた。
「雨がすごいでしょう」
ヒトミが言った。
「猛烈に降ってる。空気がみんな雨みたい」
傘をドアのわきに立てかけ、ミヨコはサンダルを脱いでフロアに上がった。彼女が脱いだサンダルを、ヒトミはかがみこんで眺めた。
「こんな雨の日に、ミヨコはなにをはいて来るのかなあと、私は思ってたの。これをはいてきたんだあ。面白いサンダルだね、これは」
「いちおう女性用のかたちをしてて、ヒールだってあるんだよ。ゴムみたいなビニールで、ころんと一体形成。はきやすいよ。ヨーロッパから帰ってくるとき、お母さんが持って帰ったんだよ」
ヒトミは立ち上がった。
「体も濡れたでしょう」
「濡れた」
「タオルでふくといいよ。こっち」
玄関から廊下が左右へ、そしてまっすぐに奥へと、三つの方向へのびていた。左にむかう廊下の奥へ、ヒトミはミヨコを連れていった。
洗面室の外に立ちどまったヒトミは、なかをミヨコに示した。
「タオルはどれを使ってもいいよ」
「ルミコは?」
ミヨコがきいた。ヒトミは首を振った。
「まだ来てない」
「ルミコも濡れるね」
「ルミコは不器用だから、頭からシャワーをかけたみたいになって、怒りながら来るよ」
そう言ってヒトミは笑った。
「ルミコは雨が降ると怒るんだから」
「雨が降り始めたときが、いちばん面白いよ。空を相手に本気で怒るから」
両脚を、そして両腕を、ミヨコがタオルでぬぐうのを外で待ち、ふたりは廊下を歩いていった。途中で何個所も分岐する複雑な廊下を、左右に何度か曲がった。
「ヒトミの家のなかは、何度来ても私は迷子になるよ」
キチン、そしてそれに隣接している食事のためのスペースのさらに奥の部屋に、ミヨコとヒトミは入った。本来は居間ではないのだが、食事を終わったあとにくつろぐ場所として、ごくプライヴェートな居間のように整えた部屋だった。低いテーブルをソファが囲んでいた。テーブルの手前で、ふたりの少女はむき合って立った。
ほぼおなじ背丈のふたりは、ぜんたいの雰囲気が良く似ていた。顔立ちや容姿がおたがいにきわめて恵まれていることは、十四歳のいますでに誰の目にも明らかだった。表情や立ち姿に、すっきりと一点の曇りも濁りもなく、ふたりがそれぞれに持つ明確な芯は、美少女としての魅力を鋭角的に縁取りしていた。
「お寺の匂いがする」
ミヨコは言った。
ヒトミはテーブルを示した。テーブルの上には線香立てがあった。線香が一本だけ立ててあり、細い煙を立ち昇らせながら途中まで燃えつきていた。灰になって残っている部分が、湾曲していた。