← Library‹ それから 六

その日ひ誠吾せいごは中々なかなか金かねを貸かして遣やろうと云いわなかった。代助だいすけも三千さんぜん代だいが気きの毒どくだとか、可哀想かわいそうだとか云いう泣言なきごとは、なるべく避さける様ようにした。自分じぶんが三千さんぜん代だいに対たいしてこそ、そう云いう心持こころもちもあるが、何なんにも知しらない兄あにを、其所そこまで連つれて行いくのには一通ひととおりでは駄目だめだと思おもうし、と云いって、無暗むやみにセンチメンタルな文句もんくを口くちにすれば、兄あにには馬鹿ばかにされる、ばかりではない、かねて自分じぶんを愚弄ぐろうする様ような気きがするので、やっぱり平生へいぜいの代助だいすけの通とおり、のらくらした所ところを、彼方あっちへ行いったり此方こっちへ来きたりして、飲のんでいた。飲のみながらも、親爺おやじの所謂いわゆる熱誠ねっせいが足たりないとは、此所ここの事ことだなと考かんがえた。けれども、代助だいすけは泣ないて人ひとを動うごかそうとする程ほど、低級ていきゅう趣味しゅみのものではないと自信じしんしている。凡およそ何なんが気障きざだって、思おもわせ振ふりの、涙なみだや、煩悶はんもんや、真面目まじめや、熱誠ねっせいほど気障きざなものはないと自覚じかくしている。兄あににはその辺へんの消息しょうそくがよく解わかっている。だからこの手てで遣やり損そこないでもしようものなら、生涯しょうがい自分じぶんの価値かちを落おとす事ことになる。と気きが付ついていた。

代助だいすけは飲のむに従したがって、段々だんだん金きんを遠とおざかって来きた。ただ互たがいが差さし向むかいであるが為ために、旨うまく飲のめたと云いう自覚じかくを、互たがいに持もち得える様ような話はなしをした。が茶漬ちゃづけを食くう段だんになって、思おもい出だした様ように、金きんは借かりなくっても好よいから、平岡ひらおかを何処どこか使つかって遣つかってくれないかと頼たのんだ。

「いや、そう云いう人間にんげんは御免ごめん蒙こうむる。のみならずこの不ふ景気けいきじゃ仕様しようがない」と云いって誠吾せいごはさくさく飯めしを掻かき込こんでいた。

明日あくるひ眼めが覚さめた時とき、代助だいすけは床ゆかの中なかでまず第だい一いち番ばんにこう考かんがえた。

「兄あにを動うごかすのは、同おなじ仲間なかまの実業じつぎょう家かでなくっちゃ駄目だめだ。単たんに兄弟きょうだいの好よしみだけではどうする事ことも出来できない」

こう考かんがえた様ようなものの、別べつに兄あにを不ふ人情にんじょうと思おもう気きは起おこらなかった。寧むしろその方ほうが当然とうぜんであると悟さとった。この兄あにが自分じぶんの放蕩費ほうとうひを苦情くじょうも云いわずに弁償べんしょうしてくれた事ことがあるんだから可笑おかしい。そんなら自分じぶんが今いまここで平岡ひらおかの為ために判はんを押おして、連れん借かりでもしたら、どうするだろう。やっぱりあの時ときの様ように奇麗きれいに片付かたづけてくれるだろうか。兄あには其その所ところまで考かんがえていて、断ことわったんだろうか。或あるいは自分じぶんがそんな無理むりな事ことはしないものと初はつから安心あんしんして貸かさないのかしらん。

代助だいすけ自身じしんの今いまの傾向けいこうから云いうと、到底とうてい人ひとの為ために判はんなぞを押おしそうにもない。自分じぶんもそう思おもっている。けれども、兄あにが其その所ところを見抜みぬいて金きんを貸かさないとすると、一寸ちょっと意外いがいな連帯れんたいをして、兄あにがどんな態度たいどに変かわるか、試験しけんしてみたくもある。――其その所ところまで来きて、代助だいすけは自分じぶんながら、あんまり性質たちが能よくないなと心こころのうちで苦笑くしょうした。

けれども、唯ただ一ひとつ慥たしかな事ことがある。平岡ひらおかは早晩そうばん借用しゃくよう証書しょうしょを携たずさえて、自分じぶんの判はんを取とりにくるに違いない。

こう考かんがえながら、代助だいすけは床ゆかを出でた。門野もんのは茶ちゃの間まで、胡坐こざをかいて新聞しんぶんを読よんでいたが、髪かみを濡ぬらして湯殿ゆどのから帰かえって来くる代助だいすけを見みるや否いなや、急きゅうに坐三昧いざんまいを直なおして、新聞しんぶんを畳たたんで坐蒲団ざぶとんの傍そばへ押おし遣やりながら、

「どうも『煤烟ばいえん』は大変たいへんな事ことになりましたな」と大おおきな声こえで云いった。

「君きみ読よんでるんですか」

「ええ、毎朝まいあさ読よんでます」

「面白おもしろいですか」

「面白おもしろい様さまですな。どうも」

「どんな所ところが」

「どんな所ところがって、そう改あらためたまって聞きかれちゃ困こまりますが。何なんじゃありませんか、一体いったいに、こう、現代げんだい的てきの不安ふあんが出でている様ようじゃありませんか」

「そうして、肉にくの臭においがしやしないか」

「しますな。大おおいに」

代助だいすけは黙だまってしまった。

紅茶こうちゃ茶碗ぢゃわんを持もった儘まま、書斎しょさいへ引ひき取とって、椅子いすへ腰こしを懸かけて、茫然ぼんやり庭にわを眺ながめていると、瘤こぶだらけの柘榴ざくろの枯枝かれえだと、灰色はいいろの幹みきの根方ねかたに、暗緑あんりょくと暗紅あんこうを混まぜ合あわした様ような若わかい芽めが、一面いちめんに吹ふき出だしている。代助だいすけの眼めにはそれがぱっと映えいじただけで、すぐ刺激しげきを失うしなってしまった。

代助だいすけの頭あたまには今こん具体ぐたい的てきな何物なにものをも留とめていなかった。あたかも戸外こがいの天気てんきの様ように、それが静しずかに凝じっと働はたらけらいていた。が、その底そこには微塵みじんの如ごとき本体ほんたいの分わからぬものが無数むすうに押おし合あっていた。乾酪チーズの中なかで、いくら虫むしが動うごいても、乾酪かんらくが元もとの位置いちにある間あいだは、気きが付つかないと同おなじ事ことで、代助だいすけもこの微震びしんには殆ほとんど自覚じかくを有ゆうしていなかった。ただ、それが生理せいり的てきに反射はんしゃして来くる度たびに、椅子いすの上うえで、少すこしずつ身体からだの位置いちを変かえなければならなかった。

代助だいすけは近頃ちかごろ流行りゅうこう語ごの様ように人ひとが使つかう、現代げんだい的てきとか不安ふあんとか云いう言葉ことばを、あまり口くちにした事ことがない。それは、自分じぶんが現代げんだい的てきであるのは、云いわずと知しれていると考かんがえたのと、もう一ひとつは、現代げんだい的てきであるがために、必かならずしも、不安ふあんになる必要ひつようがないと、自分じぶんだけで信しんじていたからである。

代助だいすけは露西亜ロシア文学ぶんがくに出でて来くる不安ふあんを、天候てんこうの具合ぐあいと、政治せいじの圧迫あっぱくで解釈かいしゃくしていた。仏蘭西フランス文学ぶんがくに出でてくる不安ふあんを、有夫姦ゆうふかんの多おおいためと見みていた。ダヌンチオによって代表だいひょうされる以太利イタリー文学がくの不安ふあんを、無む制限せいげんの堕落だらくから出でる自己じこ欠損けっそんの感かんと判断はんだんしていた。だから日本にっぽんの文学ぶんがく者しゃが、好このんで不安ふあんと云いう側がわからのみ社会しゃかいを描えがき出だすのを、舶来はくらいの唐物とうぶつの様ように見傚みなした。

理智りち的てきに物ものを疑うたがう方かたの不安ふあんは、学校がっこう時代じだいに、有あったにはあったが、ある所ところまで進行しんこうして、ぴたりと留とまって、それから逆戻ぎゃくもどりをしてしまった。丁度ちょうど天てんへ向むかって石いしを抛なげた様ようなものである。代助だいすけは今いまでは、なまじい石いしなどを抛なげなければ可よかったと思おもっている。禅ぜん坊ぼうさんの所謂しょい大疑現前たいぎげんぜんなどと云いう境界きょうかいは、代助だいすけのまだ踏ふみ込こんだ事ことのない未知みち国こくであった。代助だいすけは、そう真率しんそつ性急せいきゅうに万事ばんじを疑うたがうには、あまりに利口りこうに生うまれ過すぎた男おとこであった。

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