広い台所の東側に、おなじほどの広さの食事のためのスペースが、隣接していた。そのスペースには長い楕円形のテーブルがあり、いくつもの椅子がテーブルを囲んでいた。片方の壁には食器棚があり、その反対側の壁にはなにもなく、日めくりのカレンダーだけがひとつ、壁につけたフックに紐で掛けてあった。
台所でのかたづけをすべて終って、十七歳の西野哲也は、台所から食事のためのスペースへ出てきた。日めくりのカレンダーが、彼の視線にとまった。カレンダーは八月一日を示していた。そうか、今日から八月なのか、と彼は思った。テーブルごしに彼はその日めくりを眺めた。一月一日から七月三十一日まで、すでに切り離された部分のほうが、残っている十二月三十一日までよりも、はっきりと分厚かった。
三十分ほどまえに、ここで昼食が終った。七人がテーブルを囲んだ。いまは哲也だけがここにいた。彼の母親の三枝子はすでに外出していた。食器その他、すべてのものを台所に下げたあと、哲也はこのテーブルをきれいに拭いた。そして位置を直した。テーブルの上にはなにもなく、汚れた部分もなしにすっきりとしていた。その様子にごく軽く満足して、哲也は台所へ戻った。
台所のなかも、きれいにかたづいていた。洗うべきものはすべて洗い、所定の場所に納めた。この家は彼の母親の実家だ。母親の三枝子とともに、ひとり息子の哲也は、二週間の予定でここへ来ていた。食後のあとかたづけのすべてが、哲也の役目になっていた。彼の作業は丁寧で早く、きちんとしていた。
哲也はウオーター・クーラーの水をグラスに半分ほど注ぎ、ゆっくりとそれを飲んだ。台所も食事のためのスペースも、そして大きな家ぜんたいが、いまは静かだった。冷房のスイッチをオフにして、哲也は台所を出た。食事のためのスペースを抜け、隣りにある板貼りのフロアの部屋に入ってみた。そこの空気も、いまはまだ心地良く冷えていた。なにのためでもない、漠然とした板の間だった。一方の壁には何枚かの地図がならべて貼ってあった。そのうちの一枚のまえに、哲也は立った。
一メートル四方ほどの大きさの、きわめて詳細にディテールの描きこまれた地図だった。いま哲也がいる町が、上下のほぼ中央、右端の近くにあった。その町の真上を、緯度を示す細い線が、まっすぐに横切っていた。
その線を西へたどっていくと、地図の左端の近くに、もうひとつ町があった。緯度を示す線は、その町の上をも横切っていた。その町には、哲也よりも四歳年上の異母姉、愛子が住んでいた。姉のいる町でも今日は八月一日であり、おなじように暑いにちがいない、と哲也は思った。
哲也の父親である西野哲郎の最初の妻、美代子とのあいだに、愛子は生まれた。離婚した美代子はいまは松原という姓に戻り、引き取った娘の愛子も、松原愛子だった。愛子が四歳になる寸前に、美代子は西野哲郎をほうり出すようにして離婚した。
その離婚が進行していく上に、哲也の母となった後藤三枝子と西野との関係が重なっていた。西野は美代子と離婚し、三枝子はその彼と結婚した。すぐに哲也が生まれた。
まだごく幼い頃から、愛子はしばしば父親に会いにきた。愛子と会うときには、西野はほとんどいつも、自宅で会っていた。だから妻の三枝子とも、そして哲也とも、愛子は結果として親しくなった。そして三枝子は愛子を好いた。愛子も三枝子に好感を持っていた。幼い哲也の遊び相手を、愛子はしばしばつとめた。やがて哲也は物心つき、ふたりは仲のいい姉と弟になった。
愛子をとおして、三枝子は西野の最初の妻、松原美代子とも親しくなった。最初に会ったとき、ふたりの女性はおたがいに対して共感のようなものを抱き合い、それを土台に、時間をかけていい関係を作っていった。どこかに醒めた距離を常に一定に保ちながらも、哲也が中学生になった頃には、ふたりの女性たちは親友どうしと言っていい間柄になっていた。
西野哲郎というおなじ男性を相手に、松原美代子は愛子という娘を持ち、後藤三枝子は哲也という息子を持つにいたった。美代子と三枝子は親友になった。愛子と哲也は事実としてなかば姉弟であり、その事実関係を越えてさらに、仲のいい幼なじみどうしとなっていった。
時間の経過とともに、その四人を結ぶ関係は少しずつ確実に、緊密さの度を増した。四人の誰にとっても、その関係はいい関係だった。ふたりの大人の女性たちは、余計なのは西野だということに、やがて気づいた。美代子はすでに西野から離れて久しく、三枝子もやがて美代子とおなじ過程を選ぶことになった。美代子がそうしたのとおなじように、三枝子も西野をほうり出すようにして、昨年の秋に離婚した。
西野哲郎は、優しくておだやかな、ユーモアのある気さくな男性だった。背の高い二枚目でもあった。女性に強くあとを押されたり押し切られたりして行動を起こしていくタイプであり、押し切られていく過程で相手の女性の力をうまく自分の都合のために利用していくことを、彼は良くない習性として身につけていた。
自分たちがまったくおなじパターンをたどって西野哲郎と結婚し、そして離婚したことを、美代子と三枝子は確認し合った。なんの正当性もない過重な負担を、いつのまにか西野から自分だけが引き受けさせられていることに、あるとき突然に気づいてびっくりするというようなところまでおなじ轍を踏んだ事実を、彼女たちはおたがいに語り合って知った。たとえば三枝子は、哲也が生まれても仕事を続け、西野とおなじほどの稼ぎを上げていた。そしてその稼ぎは、美代子への慰謝料および愛子の養育費に、西野によって巧みにまわされたりしていた。
三枝子から離婚されてまだ一年たっていないが、西野哲郎はすでに別の女性との生活に移っていた。とある門前町でみやげ物店、和食の店、そして甘いものの店を営む家の、離婚歴のある次女が今度の相手だった。和食の店の支配人になった西野について、美代子と三枝子は語り合って笑った。