八月二日の午後二時過ぎ、十八歳の坂本裕一は、自転車で町のなかをゆっくり走っていた。
町と言っても、たいしたことはなかった。町の南側に広がる畑のなかを、国道がまっすぐにのびていた。その国道は事実上のバイパスであり、町のなかを蛇行して抜けていく県道には、いまだに歩道すらなかった。西端から東の端まで、その道路は五百メートルほどの長さだ。そしてその道の両側に、この町の商店のほとんどが、いかにも田舎町らしくならんでいた。
太陽は頭上にあった。よく晴れた空は、あまりに晴れて陽ざしが強いため、午後のこの時間には、青さの上にうっすらと白い色が重なって見えていた。県道ぜんたいが、照りつける黄色い陽ざしのなかだった。どちら側にならぶ商店にも、陽が当たっていた。圧倒的な強さで降り注いでくる陽ざしを、裕一は頭や肩、そして両腕に受けとめていた。道路からの照りかえしは、ハイキング用のショート・パンツにビーチ・サンダルの下半身を暑く包みこんでいた。
黒い袖なしのTシャツを、今日の裕一は着ていた。ひとりで住んでいる家をでるとき、裕一は、そのTシャツの喉もとからまっすぐ下へむけて、十センチほどナイフで切り裂いた。ヘンリー・ネックのようになった部分を左右に開くと胸もとに風がとおり、気持ちがよく楽だった。
ゆっくり、彼は自転車のペダルをこいだ。ごく普通の自転車だ。この町の主婦たちのあいだに、二、三年まえ、このようななんの変哲もない自転車が流行した。いま彼女たちが好んで乗っているのは、スクーターだった。
町のなかでは、何台ものスクーターが、主婦を乗せて走りまわっていた。だが今日は、スクーターはどこにも見当たらなかった。主婦たちは、そしてそれ以外の人たちも、今日は家のなかで畳の部屋に体を横たえていた。日中の暑さが頂点に達するいま、町の外に出ている人はひとりもいなかった。
坂本裕一だけが、自転車で町のなかを走っていた。ゆっくりとペダルをこいでいるのは、暑さに自分の体の動きを同調させているからだ。これ以上でもこれ以下でも正解ではないという、自分の気持ちにとって最適の速度で、裕一は自転車を走らせた。
袖なしのTシャツの下には、びっしょりと汗をかいていた。ショート・パンツの下には、彼は競泳用の黒いショーツをはいていた。ショーツは汗で濡れていた。外に出ている肌には、汗はなかった。すぐに蒸発してしまうからだ。幼い頃から、裕一はそのような体質だった。
商店がつらなる県道の西の端まで、彼は走ってきた。四つ角があった。そこを裕一は左へ大きく曲がっていった。道幅は急に倍以上に広くなった。直線で三百メートルほど続いている道路だった。どちらの端も、細い裏道と直角に交差していた。この道の両側にも商店がならんでいた。
南へむけて、裕一はおなじ速度で、自転車を走らせた。この道にも人の姿はなかった。裕一のほかには、歩いている人がひとりいるだけだった。若い女性がひとり、むこうからこちらにむけて、歩いていた。つばの広い麦わら帽子を、その女性はかぶっていた。つばのかたちのつけかた、そしてかぶりかたを、裕一は遠目に見てひどく洒落ていると思った。
白い半袖のシャツに、こまかな花模様のある薄い生地の夏のスカートを、その女性ははいていた。脚をきれいにのばし、軽そうにゆったりと、彼女は歩いていた。すんなりと背丈のある、若い細身の体は、目立たないけれどもきれいにバランスがとれていた。
彼女の顔は、麦わら帽子のつばで影になっていた。その濃い影のなかに彼女の顔立ちは消えていた。
この町にこんな女性がいただろうかと思いながら、裕一は、ひとりで歩く彼女に視線をとどめたままにした。彼女はこちらに向けて歩いてきた。そして裕一は、むこうへむけて自転車で走っていった。ふたりのあいだにある距離は、すこしずつ短くなった。
ふと、彼女が右手を上げた。その手を、彼女は大きく左右に振った。裕一は反射的にふりかえった。うしろへまっすぐにのびていく道に、人の姿はなかった。
視線をまえに戻した裕一は、ふたたび彼女を見た。彼女はまだ手を振っていた。自分に対して合図をしているのだと、裕一は思った。彼女とのあいだの距離がさらにつまり、裕一は彼女が笑顔であるのを知った。帽子のつばがつくる影のなかで、その笑顔はすっきりと涼しげだった。きれいな人だ、と裕一は思った。
「こんにちは」
彼女が言った。
声に聞き覚えはない、と裕一は思った。軽くブレーキをかけた裕一は、自転車を止めた。ゆっくり、左足を路面に降ろした。
自転車の斜めまえに、彼女は立ちどまった。
「坂本くん」
と、彼女が言った。
裕一はやっと気づいた。高等学校でおなじクラスの、西野亜紀子だった。七月になってから、どこからか転校してきた女性だ。
「よう」
裕一は答えた。そして、
「町にいるの?」
と、つけ加えた。
「いるわよ」
「そうか」
「あなたも、ここにいるわ」
歩いてくるのを離れたところから見ているときには、彼女は自分よりも四つ五つ年上の女性だと、裕一は思った。おなじ年齢である同級生の亜紀子の、白いシャツの胸もとを裕一は見た。
「仲間は、みんな出払ってるよ」
彼は言った。
「どこかへいってるのね」
「東京へ遊びにいったり、泊まりがけで海へいったり、外国へいってるやつも、何人かいるし」
サドルにまたがったままの腰、そして背中を、裕一はまっすぐにのばした。強い陽ざしのまぶしさを、彼は全身で受けとめた。
「僕はプールへいくんだよ」
と、彼は言った。
「学校の?」
「そうだよ」
「泳ぐの?」
「すこしだけ。今日は、誰もいないんだ。子供たちに公開するのは、来週からだよ。今日は、見回って管理するだけ。ついでに、すこし泳ぐ」
腰に両手を当てた西野亜紀子は、上体をきれいにひねって、ふりかえった。いま自分が歩いてきたほうを、彼女は見渡した。見るからに暑そうな夏の日の午後が、彼女の視界いっぱいにあった。
自分にむきなおった亜紀子に、
「よかったら、来いよ」
と裕一は言った。
「泳ぎたいわ」
「来いよ」
「いってもいいの?」
「いいよ」
「管理するのではなかったかしら」