← Library‹ 夏と少年の短篇 あの雲を追跡する 1

八はち月がつ二ふた日かの午後ごご二に時じ過すぎ、十じゅう八はち歳さいの坂本さかもと裕一ゆういちは、自転じてん車しゃで町まちのなかをゆっくり走はしっていた。

町まちと言いっても、たいしたことはなかった。町まちの南側みなみがわに広ひろがる畑はたけのなかを、国道こくどうがまっすぐにのびていた。その国道こくどうは事実じじつ上じょうのバイパスであり、町まちのなかを蛇行だこうして抜ぬけていく県道けんどうには、いまだに歩道ほどうすらなかった。西端せいたんから東ひがしの端はしまで、その道路どうろは五百ごひゃくメートルほどの長ながさだ。そしてその道みちの両側りょうがわに、この町まちの商店しょうてんのほとんどが、いかにも田舎町いなかまちらしくならんでいた。

太陽たいようは頭上ずじょうにあった。よく晴はれた空そらは、あまりに晴はれて陽ひざしが強つよいため、午後ごごのこの時間じかんには、青あおさの上うえにうっすらと白しろい色いろが重かさなって見みえていた。県道けんどうぜんたいが、照てりつける黄色きいろい陽ひざしのなかだった。どちら側がわにならぶ商店しょうてんにも、陽ひが当あたっていた。圧倒あっとう的てきな強つよさで降ふり注そそいでくる陽ひざしを、裕一ゆういちは頭あたまや肩かた、そして両腕りょううでに受うけとめていた。道路どうろからの照てりかえしは、ハイキング用ようのショート・パンツにビーチ・サンダルの下した半身はんしんを暑あつく包つつみこんでいた。

黒くろい袖そでなしのTシャツを、今日きょうの裕一ゆういちは着きていた。ひとりで住すんでいる家いえをでるとき、裕一ゆういちは、そのTシャツの喉のどもとからまっすぐ下したへむけて、十じゅうセンチほどナイフで切きり裂さいた。ヘンリー・ネックのようになった部分ぶぶんを左右さゆうに開ひらくと胸むなもとに風かぜがとおり、気持きもちがよく楽らくだった。

ゆっくり、彼かれは自転じてん車しゃのペダルをこいだ。ごく普通ふつうの自転じてん車しゃだ。この町まちの主婦しゅふたちのあいだに、二に、三さん年ねんまえ、このようななんの変哲へんてつもない自転じてん車しゃが流行りゅうこうした。いま彼女かのじょたちが好このんで乗のっているのは、スクーターだった。

町まちのなかでは、何なん台だいものスクーターが、主婦しゅふを乗のせて走はしりまわっていた。だが今日きょうは、スクーターはどこにも見当みあたらなかった。主婦しゅふたちは、そしてそれ以外いがいの人ひとたちも、今日きょうは家いえのなかで畳たたみの部屋へやに体からだを横よこたえていた。日中にっちゅうの暑あつさが頂点ちょうてんに達たっするいま、町まちの外そとに出でている人ひとはひとりもいなかった。

坂本さかもと裕一ゆういちだけが、自転じてん車しゃで町まちのなかを走はしっていた。ゆっくりとペダルをこいでいるのは、暑あつさに自分じぶんの体からだの動うごきを同調どうちょうさせているからだ。これ以上いじょうでもこれ以下いかでも正解せいかいではないという、自分じぶんの気持きもちにとって最適さいてきの速度そくどで、裕一ゆういちは自転じてん車しゃを走はしらせた。

袖そでなしのTシャツの下したには、びっしょりと汗あせをかいていた。ショート・パンツの下したには、彼かれは競泳きょうえい用ようの黒くろいショーツをはいていた。ショーツは汗あせで濡ぬれていた。外そとに出でている肌はだには、汗あせはなかった。すぐに蒸発じょうはつしてしまうからだ。幼おさない頃ころから、裕一ゆういちはそのような体質たいしつだった。

商店しょうてんがつらなる県道けんどうの西にしの端はしまで、彼かれは走はしってきた。四よつ角かどがあった。そこを裕一ゆういちは左ひだりへ大おおきく曲まがっていった。道幅みちはばは急きゅうに倍ばい以上いじょうに広ひろくなった。直線ちょくせんで三百さんびゃくメートルほど続つづいている道路どうろだった。どちらの端はしも、細ほそい裏道うらみちと直角ちょっかくに交差こうさしていた。この道みちの両側りょうがわにも商店しょうてんがならんでいた。

南みなみへむけて、裕一ゆういちはおなじ速度そくどで、自転じてん車しゃを走はしらせた。この道みちにも人ひとの姿すがたはなかった。裕一ゆういちのほかには、歩あるいている人ひとがひとりいるだけだった。若わかい女性じょせいがひとり、むこうからこちらにむけて、歩あるいていた。つばの広ひろい麦むぎわら帽子ぼうしを、その女性じょせいはかぶっていた。つばのかたちのつけかた、そしてかぶりかたを、裕一ゆういちは遠目とおめに見みてひどく洒落しゃれていると思おもった。

白しろい半袖はんそでのシャツに、こまかな花はな模様もようのある薄うすい生地きじの夏なつのスカートを、その女性じょせいははいていた。脚あしをきれいにのばし、軽けいそうにゆったりと、彼女かのじょは歩あるいていた。すんなりと背丈せたけのある、若わかい細身ほそみの体からだは、目立めだたないけれどもきれいにバランスがとれていた。

彼女かのじょの顔かおは、麦むぎわら帽子ぼうしのつばで影かげになっていた。その濃こい影かげのなかに彼女かのじょの顔立かおだちは消きえていた。

この町まちにこんな女性じょせいがいただろうかと思おもいながら、裕一ゆういちは、ひとりで歩あるく彼女かのじょに視線しせんをとどめたままにした。彼女かのじょはこちらに向むけて歩あるいてきた。そして裕一ゆういちは、むこうへむけて自転じてん車しゃで走はしっていった。ふたりのあいだにある距離きょりは、すこしずつ短みじかくなった。

ふと、彼女かのじょが右手みぎてを上あげた。その手てを、彼女かのじょは大おおきく左右さゆうに振ふった。裕一ゆういちは反射はんしゃ的てきにふりかえった。うしろへまっすぐにのびていく道みちに、人ひとの姿すがたはなかった。

視線しせんをまえに戻もどした裕一ゆういちは、ふたたび彼女かのじょを見みた。彼女かのじょはまだ手てを振ふっていた。自分じぶんに対たいして合図あいずをしているのだと、裕一ゆういちは思おもった。彼女かのじょとのあいだの距離きょりがさらにつまり、裕一ゆういちは彼女かのじょが笑顔えがおであるのを知しった。帽子ぼうしのつばがつくる影かげのなかで、その笑顔えがおはすっきりと涼すずしげだった。きれいな人ひとだ、と裕一ゆういちは思おもった。

「こんにちは」

彼女かのじょが言いった。

声こえに聞きき覚おぼえはない、と裕一ゆういちは思おもった。軽かるくブレーキをかけた裕一ゆういちは、自転じてん車しゃを止とめた。ゆっくり、左足ひだりあしを路面ろめんに降おろした。

自転じてん車しゃの斜ななめまえに、彼女かのじょは立たちどまった。

「坂本さかもとくん」

と、彼女かのじょが言いった。

裕一ゆういちはやっと気きづいた。高等こうとう学校がっこうでおなじクラスの、西野にしの亜紀子あきこだった。七なな月がつになってから、どこからか転校てんこうしてきた女性じょせいだ。

「よう」

裕一ゆういちは答こたえた。そして、

「町まちにいるの?」

と、つけ加くわえた。

「いるわよ」

「そうか」

「あなたも、ここにいるわ」

歩あるいてくるのを離はなれたところから見みているときには、彼女かのじょは自分じぶんよりも四よんつ五いつつ年上としうえの女性じょせいだと、裕一ゆういちは思おもった。おなじ年齢ねんれいである同級どうきゅう生せいの亜紀子あきこの、白しろいシャツの胸むなもとを裕一ゆういちは見みた。

「仲間なかまは、みんな出払ではらってるよ」

彼かれは言いった。

「どこかへいってるのね」

「東京とうきょうへ遊あそびにいったり、泊とまりがけで海うみへいったり、外国がいこくへいってるやつも、何なん人にんかいるし」

サドルにまたがったままの腰こし、そして背中せなかを、裕一ゆういちはまっすぐにのばした。強つよい陽ひざしのまぶしさを、彼かれは全身ぜんしんで受うけとめた。

「僕ぼくはプールへいくんだよ」

と、彼かれは言いった。

「学校がっこうの?」

「そうだよ」

「泳およぐの?」

「すこしだけ。今日きょうは、誰だれもいないんだ。子供こどもたちに公開こうかいするのは、来週らいしゅうからだよ。今日きょうは、見回みまわって管理かんりするだけ。ついでに、すこし泳およぐ」

腰こしに両手りょうてを当あてた西野にしの亜紀子あきこは、上体じょうたいをきれいにひねって、ふりかえった。いま自分じぶんが歩あるいてきたほうを、彼女かのじょは見渡みわたした。見みるからに暑あつそうな夏なつの日ひの午後ごごが、彼女かのじょの視界しかいいっぱいにあった。

自分じぶんにむきなおった亜紀子あきこに、

「よかったら、来こいよ」

と裕一ゆういちは言いった。

「泳およぎたいわ」

「来こいよ」

「いってもいいの?」

「いいよ」

「管理かんりするのではなかったかしら」

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