明智を見送って座敷に帰った小泉氏は、もう気が気でありません。うまく信雄を取りもどしてくれるかしら、もしや掛け軸がにせものとわかって、あの子がおそろしいめにあうようなことはないかしらと、立ったりすわったり、時計の針ばかりながめくらすのでした。
信雄君のおかあさまの小泉夫人とて同じことです。小泉氏のそばにすわって、おたがいの青い顔、おびえた目を見かわしながら、ものをいう元気もなく、時のたつのを待つばかりです。十分、二十分、三十分、ああ、なんという待ちどおしい、長い長い時間だったでしょう。おかあさまなどは、あまり胸がドキドキするものですから、このまま重い病気にかかって、死んでしまうのではないかとお思いになったほどです。
しかし、とまっているのではないかと思うほど、のろい時計も、いつのまにか針が進んで、やがて夜中の一時まぢかくなったときでした。待ちに待った、玄関のこうし戸のベルの音がして、女中の立ちさわぐけはいがしたかと思うと、だれかが廊下をバタバタと走ってくる音が聞こえました。
「まあ、信雄さんじゃありませんか。」おかあさまは、いきなり縁がわの障子をひらいて、ころぶようにそのほうへ走りよりました。
「おかあさん!」うわずった少年のさけび声がして、おかあさまともつれあうようにしながら、座敷へとびこんできたのは、やっぱり信雄君でした。
「おお、信雄か。」小泉氏も思わず立ちあがりました。
「よく帰ってきたねえ。どんなに心配したかしれやしないよ。で、明智さんは……。」
「エッ、明智さんですって。」信雄君は、けげんな顔で聞きかえしました。
「おや、それじゃ、おまえは明智さんには会わなかったのかい。明智さんはね、おとうさんとそっくりの姿に変装して、二十面相のところへ、おまえを取りもどしにいらしったのだよ。おまえ、それを気づかなかったのかい。」
信雄君は夕方からの疲労のために、グッタリと部屋のまんなかにすわったまま、おとうさまを見あげて、いっそうふしぎそうな顔をしました。
「ぼく、そんな人に会いません。おかしいな。」
「それじゃ、おまえはどうして、逃げだしてくることができたのだい。むろんおまえは、今まで二十面相のところにとりこになっていたんだろう。」
「ええ、そうなんです。おとうさん。ぼくの書いた手紙ごらんになりましたか。あれ、二十面相に脅迫されて、むりに書かされたんです。でも、書いてあることは、うそじゃないのです。ぼくは思いだしても、ゾッとするような、おそろしいめにあわされたんです。」
そして、信雄君は、夕方からのできごとを、どもりどもり、かいつまんで物語りました。
おとうさまもおかあさまも、信雄君の話が進むにつれて、まるで、そのおそろしい動く天井が、いま、目の前で、わが子の頭上に落ちてでもくるかのように、ハラハラしながら、手に汗をにぎって聞きいるのでした。
「そしてね、ぼくにあの手紙を書かせると、二十面相はどっかへ行ってしまって、いくら待ってもその、みょうな部屋から出してくれないのです。天井はもう落ちてこなくなったけれど、ぼくは、このまま飢死にするんじゃないかと、どんなにおそろしかったかしれやしない。長い長いあいだ、ほんとうに、ぼくは一月もたったように思ったけれど、まだ同じ日の夜だったのですね。今から三十分ほどまえにね、とつぜんその鉄の部屋のドアのそとに、カチカチっていう音がしたんです。
二十面相がドアのかぎをまわして、ひらくようにしたんですよ。そしてね、さあ、もういいから帰れって言うんです。で、ぼくはいきなりドアをひらくと、外へとびだしたんだけれど、もうそのへんにはだれもいないのです。二十面相は、どっかへ姿をかくしてしまったんです。
ぼくはこわくってしょうがないので、そのままいっしょうけんめいに玄関のほうへかけだしちゃった。するとね、ぼくのうしろから、追っかけるように、あいつのしわがれ声がひびいてきたんです。わすれられやしない。おうちへ帰ったら、おとうさんにこう言うんだって、あのね、おとうさんにね、すぐ明智探偵のところへ電話をかけなさいって。」
「フーン。明智さんのところへ電話をかけろって? それはいったいどういうわけだろうね。あいつがでたらめを言ったんじゃあるまいね。」
「そうじゃありません。同じことを二度も三度も、ぼくが玄関を出るまで、うしろからどなっていたんですもの。これはたいせつなことだから、わすれるんじゃないって。」
「そうか。それじゃあ、ともかく電話をかけてみよう。明智さんのことも心配だからね。たぶんまだ帰っていないだろうが、今ごろまで何も報告してこないのはおかしいよ。」
小泉氏はおかあさまと信雄君を座敷へ残したまま、急いで書斎に行って、卓上電話で明智の事務所を呼びだしました。すると意外にも、明智探偵は事務所にいるという返事で、まもなく電話口に明智の声が聞こえてきたではありませんか。
「信雄は今帰りました。どうもお骨折りありがとう。わたしは、あなたがこちらへお立ちよりくださることとばかり思っていましたが……。」
「え、なんですって? おっしゃることがよくわかりませんが、なにかのおまちがいじゃありませんか。」
明智はみょうな返事をしました。
「いいえ、あなたのおかげで子どもがぶじに帰ったと申しあげているのですよ。」
「それがわからないのです。わたしはある用件で外出して今帰ったところですが、あなたの子どもさんのことなど、少しもぞんじませんよ。ああ、そうそう、夕方あなたから、何か重大な相談があるからって、お電話がありましたね。しかし、すぐそのあとから、あなたご自身で、もう来るにはおよばないって、また電話だったものですから、わたしはほかの用件で外出したのですよ。」
「エッ、わたしが二度お電話しましたって。」
「そうですよ。おわすれになったのですか。」
「それはへんです。わたしは一度お電話したばかりです。いや、そんなことよりも、あなたは、ちゃんとああして、わたしのお宅へおいでくださったじゃありませんか。そして、このわたしに変装なすって、例の掛け軸を……。」