その晩七時ごろ、泰二少年は、なにごともなかったように、おうちに帰ってきました。
おかあさまが、「泰ちゃん、どうしてこんなにおそくなったの。」と、おたずねになっても、ただ「友だちと勉強していたんです。」と答えるばかりで、なぜか、ほんとうのことを言おうとしないのでした。
おかあさまが、「泰ちゃん、ごはんまだなのでしょう。ちゃんと用意してありますから、早くおあがりなさい。」とおっしゃっても、泰二君はまるで、おかあさまや女中たちの顔を見るのがこわいとでもいうふうに、だまって勉強部屋へはいったまま、何をしているのか、コトリとも物音をたてませんでした。
いつもならば、八時ごろになりますと、おかあさまのお部屋へ来て「何かお菓子。」と、おねだりするのがくせのようになっているのですが、今夜はどうしたのか、いっこうに部屋を出てくるようすもありません。
おかあさまは、もう心配でたまらなくなったものですから、お菓子とお茶を持って、わざわざ泰二君の部屋へ、ようすを見にいかれました。すると、どうでしょう。いつもは十時ごろまでも起きている泰二君が、いつのまにかひとりでふとんをしいて、寝ているではありませんか。
「あら、もうおやすみなの? へんですわねえ、気分でも悪いんじゃない?」おかあさまが声をかけられても、泰二君は、だまりこんでいて返事もしません。そうかといって、ねむっているのではないのです。青い顔をして、マジマジと目をひらいて、何かしきりと考えごとをしているようすです。
「まあ、なぜ返事をしませんの? 何を考えこんでいるんです。何か心配なことでもあるの? それともおなかでもいたむの?」くりかえしたずねても、泰二君はだまっています。そして、じっと天井を見つめた両眼が、涙ぐんでいるように、ギラギラ光っているのです。
「泰ちゃん、ほんとうにどうしたんですの? おかあさん、心配するじゃありませんか。ね、なんとかおっしゃい。」おかあさまは、まくらもとにすわって、やさしく泰二君の肩をゆり動かしながら、真剣にたずねられます。
すると泰二君も、もうがまんができなくなったのか、涙をいっぱいためた目を、おかあさまのほうに向けて、やっと口をききました。
「おかあさん、ぼく、苦しいんです。」
「エッ、苦しいって、どこが? どこがいたむの?」おかあさまは、やさしい顔を少し左のほうにかしげて、さも心配らしく、泰二君の顔をのぞきこむようにされました。
「いいえ、痛むんじゃありません。ぼく、心配でたまらないのです。」
「ですからさ、いったい何がそんなに心配なの?」
「それが口ではいえないのです。はっきりわからないのです。でも、ぼく、今になんだかおそろしいことをしそうでしかたがないのです。ぼくの心の中へ別の人の心がはいってきて、おそろしいことを命令しているような気がしてしかたがないのです。」
それを聞いて、おかあさまはギョッとしたように、顔色を青くされました。泰二君が何をいっているのか少しもわからなかったからです。もしや頭がどうかしたのではないかと、びっくりされたのです。
「ねえ、おかあさん、ぼく、お願いがあるんだけれど……。」泰二君は、熱にうかされているような目で、さもせつなそうに言いました。
「まあ、おかしいことをいうのね。お願いだなんて。どんなこと? 早くいってごらんなさいな。おかあさん、泰ちゃんのことなら、なんでも聞いてあげてよ。」
「へんなことだけれど、おかあさん、びっくりしちゃいけませんよ。あのー、ぼくをね、身動きできないように、細引きでしばってほしいんです。」
おかあさまは、「まあ。」といわれたきり、二の句も出ぬようすで、悲しげに泰二君を見つめました。子どもがおかあさまにしばってくれとお願いするなんて、正気のさたとも思われません。泰二君は、かわいそうに、ほんとうに気がへんになったのではありますまいか。
「ねえ、おかあさん、お願いです。」
「何をいっているんです。泰ちゃん、それじょうだんなんでしょう。そんなことをいって、おかあさんをびっくりさせて、あとで笑おうと思っているんでしょう。」
「いいえ、じょうだんなんかじゃありません。ぼく、真剣なんです。ほんとうにしばってくださらないと安心ができないのです。」
「まあ、本気でそんなことをいっているの? じゃあ、わけを話してごらんなさい。おかあさんがおまえをしばったりなんかできると思って?」
「わけは、ぼくにもよくわからないのです。でも、どうしてもそうしなければ、安心できないのです。ねえおかあさん、しばってください。お願いです。でないと、ぼく、気がくるいそうなんです。」
泰二君の青ざめた顔を見ますと、何かしら心の中で、はげしく苦しみもだえていることが、はっきりわかります。気がくるいそうだというのも、まんざらうそとは思われません。
おかあさまはこまってしまいました。あいにく、おとうさまは、会社のご用で関西のほうへ旅行中ですし、ほかには召し使いばかりで、そんなときの相談相手にはなりません。
「ねえ、早くしばってください。でないと、ぼく、死にそうです。」
泰二君は、さも苦しそうに身もだえをして、ポロポロ涙をこぼしています。それを見ると、おかあさまも、むしょうに悲しくなって、じゅばんのそでで目のふちをふきました。
「いいよ、いいよ。じゃあ、おかあさんがしばってあげますからね、そんなにもがくんじゃありません。しずかにして待っていらっしゃいね。」
おかあさまは、とにかく、泰二君を安心させるために、まねごとにでも細引きでしばるほかはないと考えたのでした。そして、納戸へいって、こうりをしばる細引きのたばを持って、泰二君のそばへ帰りましたが、いくら本人のたのみとはいえ、親がわが子をしばるなんて、形だけにもせよ、いやな気がするものですから、どうしたものかしら、とためらっていますと、泰二君は、そんなことはおかまいなく、早く早くとせがむのです。