「泰ちゃん、しっかりおし、おまえ夢でもみたんじゃないの? それ、なんだと思っていますの? おとうさまのたいせつなたいせつな書類じゃありませんか。さ、お返しなさい。それが悪い人の手にわたったら、それこそたいへんなんだから。」
しかし、催眠術の魔力によって、別人のようになった泰二君は、おかあさまを見むきもしなければ、そのことばを聞こうともせず、おしのけるようにして、グングン廊下の向こうへ立ちさろうとします。
「これ、泰ちゃん、泰ちゃんたら!」おかあさまは、パジャマのそでをつかんで、ひきとめようとなさいましたが、泰二君はそれをはげしい勢いではらいのけると、ヒョイとふりかえって、ゾッとするほどおそろしい顔で、おかあさまをにらみつけました。
おかあさまは、それをごらんになると、わが子ながら、その形相のおそろしさに、思わず立ちすくんでおしまいになりました。なんだかいつもの泰二君と、まったくちがった人のように見えたからです。ひょっとしたら、催眠術をかけている蛭田博士の魂が、泰二君に乗りうつって、顔までもあのぶきみな蛭田博士と、そっくりになっていたのかもしれません。
あまりのおそろしさ悲しさに、おかあさまがためらっていらっしゃるあいだに、泰二君は廊下の窓に近づくと、手早く掛け金をはずして、ガラス窓をひらき、アッと思うまに、外の暗やみへとびだしていってしまいました。それは、人間わざとは思われぬほどのす早さでした。一ぴきの大きな大きなコウモリが、サッと目をかすめてとんでいったような、なんともいえぬものおそろしい感じでした。
おかあさまは、そのままたおれてしまうほどの、はげしい胸さわぎをじっとこらえて、ヨロヨロと窓に近づき、まっくらな広い庭を、すかすようにして、のぞいてごらんになりました。
すると、大入道のような大樹がムクムクとしげっているやみの中を、大小二つの人影が、物の怪のように走りさっていくのがながめられました。
小さいほうの黒い影が泰二君であることはわかっていますが、もう一つの大きい人影は、いったい何者でしょう。おかあさまは少しもごぞんじなかったのですけれど、それはあの蛭田博士なのでした。
博士はいつのまにか、相川邸の庭園にしのびこんで、泰二君がしゅびよく目的をはたすかどうかを、窓の外の暗やみから、リンのように光るおそろしい目で、じっと見まもっていたのでした。
泰二君が書類をぬすみだしますと、博士はその眼光をいっそうするどくし、催眠術の念力を強めて、泰二君に窓の外へ逃げだすようにと、無言の命令を伝えたのです。そして、とびだしてくる泰二君の手をとると、おそろしい勢いでやみの中をグングン走りだし、あらかじめあけておいた裏口から、どことも知れず逃げさってしまったのです。
蛭田博士は、泰二君のおとうさまのたいせつな書類を手に入れたら、もう泰二君に用はないはずではありませんか。書類だけ受けとって逃げだせばよいはずではありませんか。
しかし博士は泰二君の手をはなそうともしなかったのです。またしても、泰二君をどこかへ連れさってしまったのです。いったいこれは、どんな意味があったのでしょうか。
それはともかく、このふしぎなありさまをごらんになった、おかあさまのおどろきは申すまでもありません。けたたましいさけび声をたてて、救いをお求めになったものですから、召し使いたちも起きてきますし、それから近所の人が集まってくる、電話の訴えによって、数名の警官がかけつけてくるという大さわぎになりました。
そして、その夜中から朝にかけて、げんじゅうな捜索がおこなわれたのですが、泰二君が、何者によって、どこへ連れさられたのか、想像さえつきませんでした。
庭のやわらかい土の上に、泰二君のはだしの足あととならんで、おとなの靴のあとが、点々として残っていました。それによっても、何者かが泰二君を連れさったことはあきらかですが、泰二君は蛭田博士邸でおそろしいめにあったことを、おかあさまにもうちあけなかったものですから、その靴あとのぬしが何者であるか、だれにもまったく見当さえつきませんでした。
翌日のお昼すぎには、泰二君のおとうさまが、電報の通知を受けとって、とるものもとりあえず、関西の出張先から、特急こだまでお帰りになる、おとうさまの会社では緊急幹部会議をひらいて、重要書類紛失の善後策をこうじる。この犯人捜索には、警視庁管下の全警察をあげてあたるという、ものものしい大事件になってしまいました。その日の夕刊には、泰二君のふしぎな家出を大きく報道し、この事件のかげにはおそるべきスパイの魔手がおどっているのではないかなどと、書きたてましたので、泰二君の学校友だちにも、たちまちこのことが知れわたりました。
受け持ちの先生はもちろん、同じ級のお友だちは、みなひじょうにおどろいて、泰二君の身のうえを心配しましたが、中にも胸をさわがせたのは、大野君、斎藤君、上村君という三人の少年探偵団員でした。
少年探偵団というのは、名探偵明智小五郎の少年助手小林芳雄君を団長にいただき、冒険ずきな十人の少年たちが組織している団体なのですが、その団員は、中学の一年生が三人、小学校の五年生がひとり、あとの六人は小学校の六年生ばかりで、学校もいろいろにわかれているのですが、泰二君の小学校には、泰二君のほかに、今いった三人の団員がいたのです。
その三人の少年は、事故の翌々日、学校がひけますと、申しあわせて、相川君のおうちをお見舞いしました。そして、おかあさまから、その夜の泰二君のふしぎなようすや、庭のおそろしい人影のことや、警察でいっしょうけんめい捜索しているのだけれども、まだ、なんの手がかりもえられないことなどを聞いて、ますます胸をいためながら、相川邸の門を出たのでした。
三人は電車道のほうへと、肩をならべて歩きながら、このふしぎな事件について、ヒソヒソと語りあいました。