そのデパートの屋上の空には、巨大なビニールのゾウが、飛んでいました。アドバルーンなのです。ほんもののゾウの二倍もある大きなゾウが、屋上から綱でつながれて、高い空にふわふわと、ただよっていました。
元刑事や店員たちは、「わあっ。」といって、その綱のまきとり器のところへ、かけよりました。松村をつかまえるのは、わけはありません。まきとり器をまわして、アドバルーンを、引きおろせばよいのです。
空中にぶらさがった松村は、いつのまにかビロードのケースをすてて、真珠塔だけを黒い大きなふろしきにつつみ、それをじぶんの首にくくりつけて、両手で綱をたぐりながら、上へ上へとのぼっていきます。
「そら、みんなで、これをまくのだ!」
元刑事のひとりが、大きな声で号令をかけ、じぶんもまきとり器のハンドルにとりついて、エッサ、エッサと、まき始めました。店員たちも、それにならって、ハンドルをにぎり、おおぜいが力をあわせて機械をまくのです。
巨ゾウのアドバルーンは、ユラユラゆれながら、だんだんおりてきました。
綱にすがった松村は、それを知ると、いっそう速度を早めて、上へ上へと、のぼっていきます。そして、もうゾウの太い足のところまで、のぼりつきました。
しかし、いくらのぼっても、ゾウのところでおしまいです。そのゾウは、綱でぐんぐん屋上へ引きよせられているのですから、にげようとて、にげられるものではありません。
綱の長さは、もう半分ぐらいになりました。店員たちは、いっしょうけんめいです。エッサ、エッサと、かけ声をしながら機械をまわしています。
綱は三分の一になり、四分の一になり、ガスではりきったビニールのゾウが、おそろしい大きさに、見えてきました。松村は、そのゾウの腹のところに、すがりついています。真珠塔をつつんだふろしきは、やっぱり首にくくりつけたままです。
「さあ、もう、ひといきだ。がんばれっ! すぐに真珠塔は、とりもどせるぞ!」
元刑事のかけ声に、店員たちは、いっそう、力をこめて機械をまわしました。
そのときです。あっと思うまに、ハンドルにとりすがっていた店員たちが、みんな、しりもちをつきました。ハンドルがきゅうに軽くなって、からまわりをしたからです。
びっくりして空を見あげると、ビニールの巨ゾウは、はりきったガスの力で、もう五十メートルも飛びあがっていました。そして、風のまにまに、フワフワと東の方へ飛びさっていくではありませんか。
綱が切れたのです。いや、ゾウの腹にとりすがっている松村が、ナイフを出して、綱を切ったのです。
見ると、ゾウの腹の下に、ハンモックのようなものがとりつけられ、松村はその上に寝そべって、下界を見おろしながら、右手をひらいて、じぶんのはなさきにあて、さもばかにしたように、ヘラヘラと動かしています。「ここまでおいで。」といわぬばかりです。
切れた綱を見ますと、四十センチおきぐらいに、むすび玉がこしらえてありました。松村はそれに足の指をかけてのぼったのです。このむすび玉も、ゾウの腹のハンモックも、夜のうちに、だれかが、つくっておいたものにちがいありません。
その日は、西北の風が、そうとう強くふいていたので、ビニール風船の巨ゾウは、高い高い空を東南にながされて、みるみる小さくなっていきます。やがて、松村の姿が、肉眼では見えなくなり、それから、巨ゾウのすがたさえも、まめつぶのように小さくなってしまいました。
支配人は、そのときまで、ぼんやり空をながめていたわけではありません。綱がはんぶんほどに引きよせられたとき、ふと、そこへ気がついて、あわてふためいて、屋上のエレベーターの前にかけつけ、しきりにボタンをおすのでした。貴賓室に待たせてある真珠王に、このふいのできごとをしらせるためです。
エレベーターで二階におり、貴賓室にとびこみますと、ここにもまた、あっというようなことが、おこっていました。
貴賓室はからっぽだったのです。女給仕にたずねても、いつ出ていかれたのか、少しも知らないということでした。
「さては、あの真珠王は、にせものだったのかもしれないぞ。」
支配人は、まっさおになって電話器にとびつき、真珠王の東京の店をよびだしました。そして、真珠王が上京しておられるかどうかをききますと、先方の店員は、びっくりしたような声で、
「いいえ、社長はおくにのほうですよ。しばらく東京へはこられません。ちかく、こられるようなおはなしもありません。」
と、はっきり答えました。
これでもう、さっきの真珠王が、にせものだったことは、まちがいありません。松村という職長も、むろんにせものです。
支配人は真珠王に、一―二度しか会ったことがありませんので、にせものと、見やぶれなかったのです。まさか八十歳のにせものの老人が、やってこようとは夢にもおもわなかったので、ついだまされたのです。それにしても、このかえだまは、じつによくにていました。じっさい年も八十ちかい老人にちがいありません。口のききかたなども、りっぱで、まさか、これがにせものとは、どうしても思われなかったのです。
ずっと、あとになって、わかったのですが、このにせの真珠王は、賊のなかまではなくて、七十いくつのくずやのじいさんが、五万円のおれいでやとわれ、賊に教えられるとおりのことを、やったばかりでした。ほんとうの賊は職人にばけた松村のほうでした。それなればこそ、風船の綱をきって、どことも知れず、ふきながされるような冒険もやってのけたのです。
しかし、巨ゾウの風船は、どこまで、ふきながされていくのでしょう。西北の風ですから、まもなく品川から、お台場をすぎて、東京湾にながされていくでしょう。そして、気球の中のガスは、だんだんもれていって、ついには太平洋の海の中へ落ちてしまうでしょう。そばを船が通ればよいけれども、広い広い海の上です。とても、そんなうまいぐあいにはいきません。松村と名のる怪盗は、海におぼれて死ぬほかはないのです。かれは、なにを思って、こんなむちゃな冒険をやったのでしょうか。