その日の夕がた、笠原さんの家の玄関へ、大きなトランクをさげたひとりの男が、たずねてきました。
だぶだぶした背広をきて、とりうち帽をかぶり、鼻のひくい、目じりのさがった、口の大きなおどけたような顔の三十五、六の男です。
そのとき、笠原さんは、捜査本部から帰って家にいましたので、玄関に出て、用向きをたずねますと、その男は、
「あっしは、旅まわりの腹話術師です。おやかたのグランド=サーカスの余興に、つかっていただきたいと思いまして。腹話術は東京の名人たちにも、ひけはとらないつもりです。ひとつ、ためしに、やらしてみていただけませんでしょうか。」
とたのむのでした。
「そうか。いま、家はとりこみちゅうだが、腹話術師はひとりほしいと思っていたところだ。あがってやってみるがいい。」
笠原さんは、そういって、腹話術師を応接間へとおしました。
そして、家じゅうのものを、そこへ集めて、腹話術を見物することになったのです。
刑事さんたちは、もうこのうちにおりませんので、サーカス団員三人と、女中さんたちとが見物人です。
「おや、ひとり女中がたりないね。ああ、あの新しくきた若いのがいない。どうしたんだね。」
笠原さんがたずねますと、いちばん年うえの女中さんが、答えました。
「あの子は、お昼すぎに、まっ青な顔をして、からだのぐあいがわるいから、ちょっと、うちへ帰らせてもらいますといって、出ていったまま、まだ帰らないのでございます。」
「ああ、そうか。あの子は、なんだかへんな子だね。」
笠原さんは、そういったまま、腹話術師に、芸をはじめるように命じました。腹話術師は、持ってきた大トランクをひらいて、十歳ぐらいの子どもの大きさの人形を、二つとりだしました。一つは日本人の男の子、一つは黒んぼの男の子です。
その両方を、かわるがわるつかって、いろいろとおもしろい腹話術を、やってみせるのでした。そして、ひととおり芸がおわると、
「うん、なかなかうまいもんだ。よろしい。きみをサーカスに入れることにしよう。その給金の話なんかもあるから、わしの居間へいって、ゆっくり、相談しよう。さあ、こちらへきたまえ。」
笠原さんは、そういって、応接間を出ていきます。腹話術師は二つの人形を大トランクにしまって、それをさげて、笠原さんのあとにつづきました。
それから三十分もたったでしょうか。腹話術師は、給金の話もつごうよくきまったとみえて、ニコニコしながら、玄関へ出てきました。そして、笠原さんに見おくられて、れいの大トランクをさげて、門のそとへたちさりました。
門から五十メートルもいったところに、一台のりっぱな自動車が待っていて、腹話術師は、それに乗りこみ、自動車は西のほうにむかって出発しました。
旅まわりの腹話術師が、こんなりっぱな自動車を待たせておくなんて、なんだか、おかしいではありませんか、それほど、お金もちのはずはないのです。
それよりも、もっとへんなのは、腹話術師が車に近づいてきたとき、自動車のうしろの荷物を入れる場合、これも大カバンと同じなまえで、トランクというのですが、そのトランクのふたが、二センチほど持ちあげられて、そこから二つの目が、じっと、そとをのぞいていたことです。自動車のトランクの中に、なにものかが、しのびこんでいるのでしょうか。
腹話術師は、それともしらず、運転手にさしずをして、西へ西へと走らせました。
やがて京浜国道に出て、横浜をとおりすぎるころには、もうすっかり日がくれて、あたりは、まっ暗になっていました。
それから、また、車は西へ西へと走ります。あたりが、だんだんさびしくなり、山みちにさしかかってきました。ぐるぐるまわった、登り坂です。どうやら、大山の入口に、さしかかったようすです。
笠原さんの家を出てから、三時間もたったころ、やっと、自動車がとまりました。うっそうと木のしげった山の中です。いったい、腹話術師は、こんなところへきて、なにをするつもりなのでしょう。
かれは、れいの大トランクをさげて、自動車をおりました。
「おい、きみ、懐中電灯を照らして、さきに歩きたまえ。」
運転手にそう命令して、じぶんは大トランクを、「よっこらしょ。」と、肩にかつぎました。よほど重いトランクのようです。
そして、懐中電灯の光をたよりに、ふたりは、森の中へ、わけいっていくのでした。
まっ暗な山みちに、からっぽになった自動車が、とりのこされていました。が、ふたりのすがたが、森の中へはいっていくと、その自動車のうしろのトランクのふたが、スーッとひらいて、中からひとりの人間が出てきました。
十五、六歳の男の子です。その子どもが、自動車のヘッドライトの前をよこぎるときに、ちらッと見えたのですが、顔はまっ黒で、かみの毛はぼうぼうとのび、ぼろぼろの服を着たこじきのような少年です。
そのこじき少年も、腹話術師たちのあとを追って、森の中へはいっていきました。
トランクをかついだ腹話術師と運転手が、ぐねぐねまがった森の中のほそ道を百メートルもすすむと、そこに小さな、炭やき小屋がたっていました。
小屋の中には、だれか人間がいるらしく、ぼんやりと石油ランプの光が見えています。
腹話術師はその小屋の前にくると、トランクをおろして小屋の板戸を、とん、とんとんとん、とん、とんとんとん、とへんなちょうしをつけてたたきました。このたたきかたが暗号になっているのかもしれません。すると中から、板戸がギーッとひらいて、もじゃもじゃ頭に、ぶしょうひげをまっ黒にはやし、カーキ色のしごと服をきた、四十あまりの炭やきみたいな男が、ヌッと顔を出し、恐ろしい目で、こちらを、じろじろと見るのでした。
「おれだよ。なかまだよ。ところで、やっこさんのようすはどうだね?」
腹話術師が、らんぼうな口をききました。
「ああ、おまえか。やっこさんは、あいかわらずよ。だまりこんで、考えごとをしている。もうひところのように、あれなくなったよ。」
「めしは食わしてるだろうな。」
「うん、そりゃあ、だいじょうぶだ。うえ死になんかさせやしないよ。」