← Library‹ 道順は彼女に訊く 第一章 五年前のこと

三み日か前まえに引ひっ越こしは完了かんりょうした。住すむための部屋へやではなく、仕事場しごとばとしての部屋へやだ。だから家具かぐその他た、日常にちじょうのこまごましたものはほとんどなかった。いくつもの本棚ほんだなとそのなかに詰つまるべき本ほん。数多かずおおくの資料しりょうとそのファイル。コピー機きやファクシミリ、ワード・プロセサー、プリンターなどの機器きき。そして必要ひつように応おうじて買かい足たして来きた結果けっかの、いくつかのデスク。

主ぬしたるものはすべて収おさまるべき位置いちにすでに収おさまっていた。事務じむ機器ききの配置はいちを正午しょうご過すぎにきめたあと、日比谷昭彦ひびやあきひこは部屋へやを出でて駅えきの近ちかくまで歩あるいた。ベーカリーの二に階かいの気楽きらくなレストランで、サンドイッチとコーヒーの昼食ちゅうしょくを彼かれはひとりで食たべた。そしてふたたび部屋へやに戻もどった。六ろく階かい建だてのさほど大おおきくはない集合しゅうごう住宅じゅうたくの、三さん階かいの西端せいたんにある3LDKの部屋へやだ。

玄関げんかんを入はいると正面しょうめんに廊下ろうかが奥おくに向むけてまっすぐにのびている。この廊下ろうかによって、3LDKの間取まどりは左右さゆうに振ふり分わけてある。廊下ろうかを奥おくまで歩あるききると、突つき当あたりはバルコニーだ。そしてそのバルコニーに面めんしているのは、フロアが板張いたばりになったいわゆるリヴィング・ダイニングのスペースだ。十じゅう畳じょうほどの広ひろさだ。

リヴィング・ダイニングの手前てまえ左側ひだりがわがキチンで、そのさらに玄関げんかん寄よりにトイレット、そしてそこから玄関げんかんまで、壁面へきめんが廊下ろうかに沿そっていた。壁面へきめんには本棚ほんだなを置おけるだけの奥行おくゆきがあり、壁面へきめんの広ひろさとともに、それは日比谷ひびやのような仕事しごとをしている人ひとにとっては魅力みりょく的てきだった。この壁面へきめんに、望のぞんでいたとおり、彼かれはすべての本棚ほんだなを収おさめることが出来できた。廊下ろうかの東側ひがしがわは、バルコニーから順じゅんに、八はち畳じょうの和室わしつ、その押入おしいれ、浴室よくしつと洗面せんめん、クロゼットのある主ぬし寝室しんしつ、そしておなじくクロゼットのついた、ひとまわり小ちいさい洋室ようしつだ。

主しゅ寝室しんしつを執筆しっぴつの部屋へやに、そしてひとまわり小ちいさい部屋へやを執筆しっぴつの準備じゅんびのために使つかうことに、日比谷ひびやはきめていた。そのふたつの部屋へやの外そとにもバルコニーがあった。これまでの仕事場しごとばから移うつってきたばかりの部屋へやのぜんたいを、日比谷ひびやは観察かんさつしなおした。そしてバルコニーに出でて、手てすりの前まえに立たった。五ご月がつの晴はれた日ひの午後ごご、知しらなければそれがいまの日本にっぽんのどことも正ただしく見当けんとうをつけることの出来できない、特徴とくちょうのなにもない、なかば住宅じゅうたく地ちそしてなかば商業しょうぎょう地区ちくのような一帯いったいを、彼かれは見渡みわたした。

部屋へやは気きにいった。場所ばしょも総合そうごう的てきにいってたいへん有利ゆうりだ。だからここで、これからの自分じぶんはさらに何なん年ねんか、仕事しごとをすることになる、と彼かれは思おもった。あと三さん年ねんで彼かれは四十よんじゅう歳さいだ。四十よんじゅう歳さいになるときには、まだこの部屋へやでノンフィクション・ライターとしての仕事しごとをしているはずだ。完全かんぜんに徒手空拳としゅくうけんと言いっていい、フリーランスの仕事しごとおよび生活せいかつだ。この先さきどのようなことになるのか見当けんとうも予測よそくもつかないが、興味きょうみの持もてる対象たいしょうを見みつけては、ひとりで調査ちょうさを重かさねていくノンフィクションの作業さぎょうは、充分じゅうぶんに楽たのしく快適かいてきだし彼かれはそれが好すきだった。他ほかのことはもう出来できないだろうな、というのが三十さんじゅう七なな歳さいの彼かれによる自分じぶん自身じしんの評価ひょうかだ。他ほかのことが出来できないなら、少すくなくともこれだけは出来できるということだ。

バルコニーからリヴィング・ダイニングに入はいり、そのまんなかに立たち、彼かれは周囲しゅういを見渡みわたした。配膳はいぜんのカウンターごしにキチンを見みた。廊下ろうかからキチンのなかへ彼かれは入はいった。流ながし台だいとは反対はんたいの壁かべに、奥行おくゆきと幅はばのぴったりと適合てきごうした作業さぎょうテーブルがあった。ごく簡素かんそな作つくりの、しかし丈夫じょうぶそうなテーブルだ。昨日きのう、なんのあてもなしに入はいった家具かぐ店てんで見みつけた。夕方ゆうがたには配達はいたつしてもらった。そのテーブルの上うえに、エスプレッソ・マシーンとドゥミタスが一いち客きゃく、置おいてあった。

エスプレッソ・マシーンの使用しよう説明せつめい書しょを彼かれは読よんだ。コーヒーの粉こなとミネラル・ウォーターを冷蔵れいぞう庫こから取とり出だし、彼かれは一杯いっぱいのエスプレッソを作つくった。香かおりと見みた目めはたいへんエスプレッソらしく、ほとんど瞬時しゅんじにして、ドゥミタスのなかにエスプレッソが満みちた。出来できばえを彼かれは試ためしてみた。まずは上出来じょうできと言いってよかった。

ドゥミタスを持もってキチンを出でた彼かれは廊下ろうかから玄関げんかんへ歩あるいた。本棚ほんだなのなかの本ほんと資料しりょうだけが、まだ整理せいりされないまま残のこっていた。手てのつけようがない、と思おもうほどの大量たいりょうさでも乱雑らんざつさでもないが、ひとつの壁面へきめんにすべてを収おさめて見渡みわたすとかなりの量りょうだ。本ほんと資料しりょうを見みるともなく見みながら、彼かれは一杯いっぱいのエスプレッソを飲のんだ。そしてキチンへ戻もどり、もう一杯いっぱい作つくった。キチンを出でて配膳はいぜんのカウンターに腰こしをもたせかけ、十じゅう畳じょうのスペースごしにバルコニーのほうに視線しせんを向むけ、彼かれはエスプレッソを飲のんだ。

飲のみ終おわってキチンに入はいり、ドゥミタスを、そしてエスプレッソ・マシーンのフィルターを、彼かれは洗あらった。さて、と彼かれは思おもった。仕事しごとをするか、それとも当面とうめんの資料しりょうだけでも整理せいりしなおすか。彼かれは本棚ほんだなの前まえへ歩あるいた。資料しりょうを眺ながめ渡わたした彼かれは、書類しょるいファイルを入いれておくためのボール紙しの箱はこをひとつ、本棚ほんだなからかかえ出だした。それを廊下ろうかに置おき、しゃがんで箱はこのなかを見みた。

買かい置おきの新品しんぴんのファイルが、いくつも箱はこのなかにあった。書類しょるいをただはさんでおくだけの、もっとも簡単かんたんなファイルだ。項目こうもく別べつにたくさんファイルを作つくり、専用せんようの箱はこの内部ないぶへ横よこに立たててならべていた時期じきが自分じぶんにあったことを、彼かれは思おもい出だした。いまの彼かれはそのようなファイルの作つくりかたをしていなかった。彼かれは本棚ほんだなを見みた。専用せんようの箱はこはいくつもあった。この箱はこに新品しんぴんのファイルがあるからには、棚たなの箱はこのなかはすべて項目こうもく別べつに仕分しわけしたファイルが詰つまっているはずだ。

そう思おもいながら日比谷ひびや昭彦あきひこは、箱はこのなかの新品しんぴんのファイルを見みた。いちばん端はしにあるファイルは、それひとつだけ、見出みだしの部分ぶぶんに文字もじが書かいてあることに彼かれは気きづいた。自分じぶんの字じだった。そのファイルを抜ぬき出だし、彼かれは見出みだしの文字もじを読よんだ。「個人こじん的てきな出来事できごと」と書かいてあった。自分じぶん自身じしんのことだと思おもった彼かれは、不思議ふしぎな気持きもちでそのファイルを開ひらいた。週刊しゅうかん誌しのページを切きり取とったものが二にページ、ファイルのなかに入はいっているだけだった。見開みひらき二にページで完結かんけつしている記事きじを、そのまま切きり取とったものだ。立たち上あがった彼かれは、ファイルとともに持もって準備じゅんび室しつに入はいった。

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