三日前に引っ越しは完了した。住むための部屋ではなく、仕事場としての部屋だ。だから家具その他、日常のこまごましたものはほとんどなかった。いくつもの本棚とそのなかに詰まるべき本。数多くの資料とそのファイル。コピー機やファクシミリ、ワード・プロセサー、プリンターなどの機器。そして必要に応じて買い足して来た結果の、いくつかのデスク。
主たるものはすべて収まるべき位置にすでに収まっていた。事務機器の配置を正午過ぎにきめたあと、日比谷昭彦は部屋を出て駅の近くまで歩いた。ベーカリーの二階の気楽なレストランで、サンドイッチとコーヒーの昼食を彼はひとりで食べた。そしてふたたび部屋に戻った。六階建てのさほど大きくはない集合住宅の、三階の西端にある3LDKの部屋だ。
玄関を入ると正面に廊下が奥に向けてまっすぐにのびている。この廊下によって、3LDKの間取りは左右に振り分けてある。廊下を奥まで歩ききると、突き当たりはバルコニーだ。そしてそのバルコニーに面しているのは、フロアが板張りになったいわゆるリヴィング・ダイニングのスペースだ。十畳ほどの広さだ。
リヴィング・ダイニングの手前左側がキチンで、そのさらに玄関寄りにトイレット、そしてそこから玄関まで、壁面が廊下に沿っていた。壁面には本棚を置けるだけの奥行きがあり、壁面の広さとともに、それは日比谷のような仕事をしている人にとっては魅力的だった。この壁面に、望んでいたとおり、彼はすべての本棚を収めることが出来た。廊下の東側は、バルコニーから順に、八畳の和室、その押入れ、浴室と洗面、クロゼットのある主寝室、そしておなじくクロゼットのついた、ひとまわり小さい洋室だ。
主寝室を執筆の部屋に、そしてひとまわり小さい部屋を執筆の準備のために使うことに、日比谷はきめていた。そのふたつの部屋の外にもバルコニーがあった。これまでの仕事場から移ってきたばかりの部屋のぜんたいを、日比谷は観察しなおした。そしてバルコニーに出て、手すりの前に立った。五月の晴れた日の午後、知らなければそれがいまの日本のどことも正しく見当をつけることの出来ない、特徴のなにもない、なかば住宅地そしてなかば商業地区のような一帯を、彼は見渡した。
部屋は気にいった。場所も総合的にいってたいへん有利だ。だからここで、これからの自分はさらに何年か、仕事をすることになる、と彼は思った。あと三年で彼は四十歳だ。四十歳になるときには、まだこの部屋でノンフィクション・ライターとしての仕事をしているはずだ。完全に徒手空拳と言っていい、フリーランスの仕事および生活だ。この先どのようなことになるのか見当も予測もつかないが、興味の持てる対象を見つけては、ひとりで調査を重ねていくノンフィクションの作業は、充分に楽しく快適だし彼はそれが好きだった。他のことはもう出来ないだろうな、というのが三十七歳の彼による自分自身の評価だ。他のことが出来ないなら、少なくともこれだけは出来るということだ。
バルコニーからリヴィング・ダイニングに入り、そのまんなかに立ち、彼は周囲を見渡した。配膳のカウンターごしにキチンを見た。廊下からキチンのなかへ彼は入った。流し台とは反対の壁に、奥行と幅のぴったりと適合した作業テーブルがあった。ごく簡素な作りの、しかし丈夫そうなテーブルだ。昨日、なんのあてもなしに入った家具店で見つけた。夕方には配達してもらった。そのテーブルの上に、エスプレッソ・マシーンとドゥミタスが一客、置いてあった。
エスプレッソ・マシーンの使用説明書を彼は読んだ。コーヒーの粉とミネラル・ウォーターを冷蔵庫から取り出し、彼は一杯のエスプレッソを作った。香りと見た目はたいへんエスプレッソらしく、ほとんど瞬時にして、ドゥミタスのなかにエスプレッソが満ちた。出来ばえを彼は試してみた。まずは上出来と言ってよかった。
ドゥミタスを持ってキチンを出た彼は廊下から玄関へ歩いた。本棚のなかの本と資料だけが、まだ整理されないまま残っていた。手のつけようがない、と思うほどの大量さでも乱雑さでもないが、ひとつの壁面にすべてを収めて見渡すとかなりの量だ。本と資料を見るともなく見ながら、彼は一杯のエスプレッソを飲んだ。そしてキチンへ戻り、もう一杯作った。キチンを出て配膳のカウンターに腰をもたせかけ、十畳のスペースごしにバルコニーのほうに視線を向け、彼はエスプレッソを飲んだ。
飲み終わってキチンに入り、ドゥミタスを、そしてエスプレッソ・マシーンのフィルターを、彼は洗った。さて、と彼は思った。仕事をするか、それとも当面の資料だけでも整理しなおすか。彼は本棚の前へ歩いた。資料を眺め渡した彼は、書類ファイルを入れておくためのボール紙の箱をひとつ、本棚からかかえ出した。それを廊下に置き、しゃがんで箱のなかを見た。
買い置きの新品のファイルが、いくつも箱のなかにあった。書類をただはさんでおくだけの、もっとも簡単なファイルだ。項目別にたくさんファイルを作り、専用の箱の内部へ横に立ててならべていた時期が自分にあったことを、彼は思い出した。いまの彼はそのようなファイルの作りかたをしていなかった。彼は本棚を見た。専用の箱はいくつもあった。この箱に新品のファイルがあるからには、棚の箱のなかはすべて項目別に仕分けしたファイルが詰まっているはずだ。
そう思いながら日比谷昭彦は、箱のなかの新品のファイルを見た。いちばん端にあるファイルは、それひとつだけ、見出しの部分に文字が書いてあることに彼は気づいた。自分の字だった。そのファイルを抜き出し、彼は見出しの文字を読んだ。「個人的な出来事」と書いてあった。自分自身のことだと思った彼は、不思議な気持ちでそのファイルを開いた。週刊誌のページを切り取ったものが二ページ、ファイルのなかに入っているだけだった。見開き二ページで完結している記事を、そのまま切り取ったものだ。立ち上がった彼は、ファイルとともに持って準備室に入った。