← Library‹ 道順は彼女に訊く 第十章 髪を切った女

八はち月がつの暑あつい日ひ、外そとで昼食ちゅうしょくを終おえた日比谷ひびや明彦あきひこは、まっすぐ仕事しごと部屋へやへ戻もどった。今日きょうは仕事場しごとばで朝あさから執筆しっぴつし、お昼ひるになって駅えきの近ちかくまでいき、さきほど昼食ちゅうしょくをひとりで食たべた。そしていま、こうしてふたたび自分じぶんは仕事場しごとばへ帰かえっていく。そのような行為こういに、いったいどんな意味いみがあるというのか。部屋へやのある建物たてもののロビーに入はいったとき、あまりの暑あつさに彼かれの思考しこうはそのような段階だんかいに到達とうたつしていた。

郵便ゆうびん受うけをのぞいてみた。いまのように郵便ゆうびん受うけをのぞくことを、自分じぶんはこれまでに何なん度ど繰くり返かえしたことか。その繰くり返かえしに、いったいどんな意味いみがあり得えるのか。ロビーは冷房れいぼうが効きいていたが、涼すずしいのは彼かれの体からだのいちばん外そとの薄うすい表層ひょうそうだけだった。そこから内部ないぶは、うだるように暑あついままだ。

郵便ゆうびん物ものはすでに配達はいたつされていた。いつものとおり量りょうは多おおかった。かかえるように持もってエレヴェーター・ホールまで歩あるき、待まっていたエレヴェーターに乗のって部屋へやのある階きざはしまで上あがった。彼かれの部屋へやも冷房れいぼうが効果こうかを上あげていた。しかしロビーやエレヴェーター、あるいは他ほかの部屋へやのように、内部ないぶの空気くうきがただ冷ひえているのではなかった。彼かれの部屋へやの空気くうきは外そとから間断かんだんなく取とり込こまれ、フィルターで漉こされたのち熱ねつ交換こうかん装置そうちをとおり、間取まどりのなかのさまざまな部分ぶぶんの給気きゅうき口くちから流ながれ出でていた。そして給気きゅうき口くちとは別べつに吸気きゅうき口くちがあり、そこからは間取まどりのなかの空気くうきがくみ出だされては、常つねに建物たてものの外そとへ吐はき出だされていた。快適かいてきさは普通ふつうの冷房れいぼうとは質しつが違ちがっていた。

顔かおと手てを洗あらった彼かれは、服ふくを脱ぬいでタンクトップとショートパンツに着替きがえた。黒くろいタンクトップにハイキング用ようのカーキー色いろのショートパンツだ。彼かれは冷蔵れいぞう庫こから水みずを出だして飲のんだ。暑あつい体からだの内部ないぶに冷つめたい水みずが入はいっていく快感かいかんを楽たのしみながら、彼かれは準備じゅんび室しつで郵便ゆうびん物ぶつを見みた。

日比谷ひびや昭彦あきひこ様さま、と毛筆もうひつで巧たくみに宛名あてなを書かいた和風わふうの封書ふうしょが一いち通つうあり、それが彼かれの手てを止とめさせた。筆ふでペンではなく、細ほそい毛筆もうひつだ。筆ふでの使つかいかたは、たいへん熟練じゅくれんした達者たっしゃなものだった。このような私信ししんはめったに来こない。雰囲気ふんいきのやや重おもいその封書ふうしょを、彼かれは手てに取とって観察かんさつした。

これまでの日比谷ひびや昭彦あきひこの、ノンフィクション・ライターとしての経験けいけんによれば、いま彼かれが手てに持もっているような封書ふうしょは、彼かれが書かいたものに対たいする苦情くじょうや文句もんく、あるいは抗議こうぎなどの手紙てがみであることが多おおかった。これもそうかな、と彼かれは思おもった。封書ふうしょを彼かれは裏うらに返かえした。差出さしだし人にんの名なは矢沢やざわ富美子とみことあった。住所じゅうしょは彼かれにとってなじみのない場所ばしょだった。おそらく苦情くじょうだろう、と自分じぶんに確認かくにんするように思おもった次つぎの瞬間しゅんかん、彼かれには閃ひらめいた。

矢沢やざわ千秋ちあきと関係かんけいのある、矢沢やざわ富美子とみこという人ひとなのではないか。この仕事場しごとばの居間いまの壁かべに立たてかけてある、後藤ごとう美代子みよこの油絵あぶらえを描えがいた矢沢やざわ千秋ちあきだ。その矢沢やざわと関係かんけいのある人ひとなのではないか。日比谷ひびやはその封書ふうしょを鋏はさみで切きって開ひらいた。折おりたたまれた便箋びんせんを取とり出だした。便箋びんせんは四よん枚まいあった。毛筆もうひつによる流麗りゅうれいな文字もじで、四よん枚まいとも過不足かふそくなく埋うまっていた。最初さいしょの一いち枚まいを彼かれは読よんだ。

『矢沢やざわ千秋ちあきがかつて美術びじゅつの講師こうしを務つとめておりました私立しりつ高等こうとう学校がっこうより、矢沢やざわの現げん住所じゅうしょその他たについて、お知しりになりたいかたがいらっしゃるという内容ないようの手紙てがみを、数すう日じつ前まえ、私わたくしが開封かいふうし拝見はいけんいたしました。私わたくしは矢沢やざわ千秋ちあきの妹いもうとでございます。矢沢やざわ千秋ちあきは五ご年ねん前まえに病没びょうぼつし、この世よを去さっております。矢沢やざわの画業がぎょうを見渡みわたす個展こてんに、矢沢やざわを代理だいりするかたちでかねてより私わたくしは参画さんかくしており、そのため多忙たぼうな日々ひびが連続れんぞくし、何なん日にちも続つづけて留守るすにすることもしばしばでございました。留守るす中ちゅうに郵便ゆうびん物ぶつがたまってしまい、手てつかずのままの状態じょうたいが重かさなり、返信へんしんを差さし上あげるのも、さらには高校こうこうからの問とい合あわせの手紙てがみを拝見はいけんしますのも、たいそう遅おそくなってしまいました。事情じじょうをおくみとりの上うえ、どうかご容赦ようしゃくださいませ』

改行かいぎょうなしでそこまでが一いち枚まいの便箋びんせんに綴つづってあった。伝つたえたいことの筋道すじみちが文章ぶんしょうのなかをきちんと通かよっている様子ようすを、日比谷ひびやは受うけとめた。次つぎの段階だんかいは、二に枚まいめの便箋びんせんに展開てんかいしてあった。

『私立しりつ高校こうこうからの問とい合あわせ状じょうには、あなた様さまのお名前なまえとおところが記しるしてございました。私立しりつ高校こうこう宛あてに返信へんしんを出だしますと、あなた様さまへの回送かいそうその他たで、さらに三さん、四よん日かは余計よけいな日ひが重かさなるかと思おもい、こうして直接ちょくせつに返信へんしんを差さし上あげる次第しだいです。私立しりつ高校こうこうの卒業そつぎょう生せいが矢沢やざわ千秋ちあきの現げん住所じゅうしょと現況げんきょうをお問とい合あわせとのことですが、どのような用件ようけんがおありになってのことなのでしょうか。あなた様さまはその問とい合あわせに対たいする返答へんとうの、お受うけ取とり人ひととのこと、いきさつはのみこめませんが、ひとまずこのように回答かいとうさせていただきます』

さらに三さん枚まいめの便箋びんせんに書かいてあることを、日比谷ひびやは読よんだ。

『お問とい合あわせの目的もくてきは、私わたくしの願望がんぼうも含ふくめまして、矢沢やざわの画業がぎょうと関連かんれんすることかもしれぬと推測すいそくいたします。もしそうでありましたら、どうか個展こてんへお運はこびいただきたく存ぞんじます。開催かいさい地ち、開催かいさい美術びじゅつ館かん、所在しょざい地ち、交通こうつうの便びん、日時にちじなどを、別紙べっしに記しるしておきます。けっして長ながい生涯しょうがいではございませんでした矢沢やざわですが、その画業がぎょうのごく初期しょきから寿命じゅみょう的てきに最さい晩年ばんねんまで、過不足かふそくなく見渡みわたすことの出来できる個展こてんになろうかと、自負じふいたしております。個展こてんに向むけてこれからも多忙たぼうで、留守るすがちとなりますゆえ、思おもいがけない失礼しつれいをいたすかもしれませんが、その折おりはお許ゆるしください』

ここで初はじめて、唯一ゆいいつの改行かいぎょうがあった。改行かいぎょうして矢沢やざわ富美子とみこは次つぎのように書かいていた。

『あなた様さまのお名前なまえは心こころにとめておきますので、さらにお問とい合あわせのお手紙てがみなどいただくことがあれば、拝見はいけん次第しだい迅速じんそくにご返信へんしん申もうし上あげます。私わたくし宛あてのお手紙てがみその他た、封筒ふうとう裏うらの所ところ番地ばんちにお願ねがいいたします。以上いじょうひとまずお問とい合あわせにはお答こたえできたことと思おもいます』

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