← Library‹ 道順は彼女に訊く 第十四章 彼女が見たはずの恐怖

中野なかの玲子れいこに会あわなければならない。しかし彼女かのじょとの会話かいわには細心さいしんの注意ちゅういを払はらう必要ひつようがある、と日比谷ひびやは思おもった。美代子みよこの行方ゆくえ不明ふめいについてもっと知しっているだろう、知しっていることを喋しゃべったらどうだ、と問とい詰つめるような調子ちょうしを彼女かのじょとの会話かいわに出だしてはいけない。しかし、基本きほん的てきな方針ほうしんとしては、すべてを喋しゃべっているわけではない人ひとに、すべてを喋しゃべらせるためのアプローチとなる。どうしたらいいか。彼かれは壁かべの時計とけいを見みた。まだ夜よるの十じゅう時じ前まえだった。後藤ごとう美代子みよこ専用せんようのファイロファクスを引ひき寄よせて開ひらき、彼かれは中野なかの玲子れいこの電話でんわ番号ばんごうを確認かくにんした。その番号ばんごうに彼かれは電話でんわをかけた。呼よび出だし音おとの三さん度どめの途中とちゅうで、電話でんわの向むこうの受話じゅわ器きが上あがった。

「はい」

とだけ、中野なかの玲子れいこは言いった。

「日比谷ひびやです」

「あら、今晩こんばんは。お久ひさしぶりです」

自分じぶんがかけたこの電話でんわが玲子れいこに歓迎かんげいされていることを、彼かれは彼女かのじょの口調くちょうにはっきりと感かんじた。

「いま高村こうむらさんと電話でんわで話はなしをしていたのです。個展こてんの会場かいじょうでのことを、高村こうむらさんから聞ききました」

という日比谷ひびやの言葉ことばに対たいして、

「ほんとに驚おどろいたの。あんなに驚おどろいたのは、生うまれて初はじめてです」

と、玲子れいこは言いった。

「恵子けいこさんのうしろ姿すがたは、美代子みよことまったくおなじなのですもの。五ご年ねんぶりに美代子みよこはここへ密ひそかに姿すがたを見みせ、それをたまたまこの自分じぶんがいま目撃もくげきしているのだと思おもってしまった私わたくしは、心臓しんぞうの鼓動こどうがひとつにつながったみたいになって、まっ青さおになりました。顔かおから血ちの気けが引ひくと言いいますけど、ほんとに顔かおから血ちがなくなると、どうなるか日比谷ひびやさん知しってます?」

「教おしえてください」

「顔かおぜんたいがぴりぴりと痛いたいのよ。私わたくしがその場ばに立たちつくしていると、いきなり恵子けいこさんが振ふり返かえって、中野なかのさん? と言いったの。この人ひとは美代子みよこだと完全かんぜんに思おもい込こんでいる私わたくしは、いまさら中野なかのさんという言いいかたはないわ、なぜ玲子れいこと呼よんでくれないの、と思おもいました。でも、そう思おもうだけで精せいいっぱいで、呆然ぼうぜんとそこに立たっていることしか出来できないんですよ。そして私わたくしは、倒たおれそうになりました」

そこでひと息いきつく玲子れいこを、日比谷ひびやは無言むごんで受うけとめた。玲子れいこは続つづきを語かたった。

「恵子けいこさんが歩あゆみ寄よって、私わたくしを抱だきかかえてくれました。体からだの感触かんしょくが美代子みよことはまるで違ちがうので、ああ、美代子みよこではないんだ、体からだつきがそっくりの別人べつじんなのだと思おもって、私わたくしは冷静れいせいに戻もどったの」

おなじ場面ばめんを高村こうむら恵子けいこは京都きょうとのホテルのレターペーパーに書かき、FAX送信そうしんしてくれた。いま玲子れいこが語かたったことを重かさね合あわせると、日比谷ひびやには確実かくじつにひとつの場面ばめんが見みえた。

「恵子けいこさんはいきさつを説明せつめいしてくださって、私わたくしはすぐにぜんたいを理解りかいしました。そしてそこからの私わたくしたちは、まるで十じゅう年ねん来らいの親友しんゆうどうしなの」

「高村こうむらさんもそう言いってました」

「絵えのなかに美代子みよこを見みたわ」

「思おもいがけない再会さいかいでしたね」

矢沢やざわ千秋ちあきの妹いもうとに会あったこと、そして後藤ごとう美代子みよこが高校こうこう生せいのときからずっと、矢沢やざわのためにアトリエでモデルを務つとめたことなどについて、日比谷ひびやは玲子れいこに語かたった。

「アトリエは僕ぼくのこの仕事場しごとばからも、中野なかのさんのところからも、歩あるいて十じゅう五ご分ふん以内いないのところにあります」

「私わたくしは知しりませんでした」

「美代子みよこさんはひと言ことも語かたらなかったのですか」

「なんにも」

「中野なかのさんは美代子みよこさんの親友しんゆうだったのに」

「ええ」

「親友しんゆうでもなお、中野なかのさんには教おしえずにおいたことがあったのですね」

「ええ」

短みじかい返事へんじを玲子れいこは繰くり返かえした。

「美代子みよこさんが中野なかのさんに教おしえずにいたことは、ほかにもたくさんあったと思おもいますか」

「思おもいます」

という言葉ことばが、即答そくとうとして玲子れいこから返かえって来きた。

「いちばん初はじめに中野なかのさんに会あったとき、高校こうこう三さん年ねん生せいのときの演劇えんげき部ぶの公演こうえんのヴィデオについて、僕ぼくは中野なかのさんから聞ききました。そのヴィデオを貸かしていただけるとか、写真しゃしんを見みせていただけるといった話はなしです」

「いつでもお貸かしします。写真しゃしんも見みてください」

「美代子みよこさんについての取材しゅざい範囲はんいを、高校こうこう生せいの頃ころにまで戻もどそうと思おもうのです。なんの取材しゅざいにしろ、出でだしのところで知しったことをかなりあとまでそのままにしておく癖くせが、僕ぼくにはあります。今回こんかいもその癖くせが出でました」

日比谷ひびやの説明せつめいに玲子れいこは微笑びしょうした。

「いつお会あい出来できますか」

彼かれの質問しつもんに、

「いつでもいいわ」

と、玲子れいこは答こたえた。

「夏なつの前まえから仕事しごとが連続れんぞくしたので、この季節きせつはしばらく落おち着ついていたいと思おもってます。ですから、ほんとに、いつでもいいです」

来週らいしゅうの木曜もくよう日ひまでには会あっておきたい、と日比谷ひびやは考かんがえた。木曜もくよう日ひから逆算ぎゃくさんして適当てきとうな日ひをきめようとしている日比谷ひびやに、

「いまはどちらなの? 仕事場しごとばですか」

と、玲子れいこは訊きいた。

「仕事場しごとばです」

と、日比谷ひびやは答こたえた。

「いま、これからは?」

玲子れいこが重かさねて質問しつもんした。

「僕ぼくはいいですよ。この時間じかんに訪たずねて、迷惑めいわくではないですか」

「どうぞ、いらして」

「うかがいます。すぐにここを出でて、歩あるいていきます」

初はじめて中野なかの玲子れいこに会あったとき、駅えきから玲子れいこの自宅じたくまで、日比谷ひびやは彼女かのじょを送おくっていった。だから彼女かのじょの自宅じたくのある場所ばしょは知しっていた。

「道路どうろから階段かいだんを上あがっていただくと、そこに低ひくい門扉もんとびらがあります。内側うちがわに簡単かんたんなかんぬきがかかってますから、腕うでをなかへまわしてかんぬきをはずしてください。渡わたり廊下ろうかでつながった別棟べっとうの平屋ひらや建だてが、私わたくしの住すんでいるところなの」

「うかがいます」

電話でんわはそこで終おわった。仕事場しごとばでの今日きょうという一日ついたちを終おわったことにして、玲子れいこを訪たずねたあとは自宅じたくへ帰かえることにきめ、日比谷ひびや昭彦あきひこはほどなく部屋へやを出でた。そしてそれから数すう分ふん後ごには、中野なかの玲子れいこの自宅じたくの敷地しきちに向むけて、日比谷ひびやは道路どうろから階段かいだんを上あがっていた。玲子れいこに言いわれたとおり、門扉もんぴのかんぬきをはずしてなかへ入はいった。母屋おもやに向むかうコンクリート敷しきの小径こみちが、平屋ひらや建だての別棟べっとうに向むけて枝分えだわかれしていた。ドアの前まえへ歩あるいた彼かれは、

「日比谷ひびやさん?」

という玲子れいこの声こえを、ドアの内側うちがわに聞きいた。

「そうです。今晩こんばんは」

ドアが開ひらき、玲子れいこが彼かれを迎むかえ入いれた。自分じぶんひとりでくつろいでいるときの、部屋へや着ぎの玲子れいこだった。化粧けしょうはしていず、髪かみはうしろにまとめていた。

Click a word · hold for the whole sentence 0%