中野玲子に会わなければならない。しかし彼女との会話には細心の注意を払う必要がある、と日比谷は思った。美代子の行方不明についてもっと知っているだろう、知っていることを喋ったらどうだ、と問い詰めるような調子を彼女との会話に出してはいけない。しかし、基本的な方針としては、すべてを喋っているわけではない人に、すべてを喋らせるためのアプローチとなる。どうしたらいいか。彼は壁の時計を見た。まだ夜の十時前だった。後藤美代子専用のファイロファクスを引き寄せて開き、彼は中野玲子の電話番号を確認した。その番号に彼は電話をかけた。呼び出し音の三度めの途中で、電話の向こうの受話器が上がった。
「はい」
とだけ、中野玲子は言った。
「日比谷です」
「あら、今晩は。お久しぶりです」
自分がかけたこの電話が玲子に歓迎されていることを、彼は彼女の口調にはっきりと感じた。
「いま高村さんと電話で話をしていたのです。個展の会場でのことを、高村さんから聞きました」
という日比谷の言葉に対して、
「ほんとに驚いたの。あんなに驚いたのは、生まれて初めてです」
と、玲子は言った。
「恵子さんのうしろ姿は、美代子とまったくおなじなのですもの。五年ぶりに美代子はここへ密かに姿を見せ、それをたまたまこの自分がいま目撃しているのだと思ってしまった私は、心臓の鼓動がひとつにつながったみたいになって、まっ青になりました。顔から血の気が引くと言いますけど、ほんとに顔から血がなくなると、どうなるか日比谷さん知ってます?」
「教えてください」
「顔ぜんたいがぴりぴりと痛いのよ。私がその場に立ちつくしていると、いきなり恵子さんが振り返って、中野さん? と言ったの。この人は美代子だと完全に思い込んでいる私は、いまさら中野さんという言いかたはないわ、なぜ玲子と呼んでくれないの、と思いました。でも、そう思うだけで精いっぱいで、呆然とそこに立っていることしか出来ないんですよ。そして私は、倒れそうになりました」
そこでひと息つく玲子を、日比谷は無言で受けとめた。玲子は続きを語った。
「恵子さんが歩み寄って、私を抱きかかえてくれました。体の感触が美代子とはまるで違うので、ああ、美代子ではないんだ、体つきがそっくりの別人なのだと思って、私は冷静に戻ったの」
おなじ場面を高村恵子は京都のホテルのレターペーパーに書き、FAX送信してくれた。いま玲子が語ったことを重ね合わせると、日比谷には確実にひとつの場面が見えた。
「恵子さんはいきさつを説明してくださって、私はすぐにぜんたいを理解しました。そしてそこからの私たちは、まるで十年来の親友どうしなの」
「高村さんもそう言ってました」
「絵のなかに美代子を見たわ」
「思いがけない再会でしたね」
矢沢千秋の妹に会ったこと、そして後藤美代子が高校生のときからずっと、矢沢のためにアトリエでモデルを務めたことなどについて、日比谷は玲子に語った。
「アトリエは僕のこの仕事場からも、中野さんのところからも、歩いて十五分以内のところにあります」
「私は知りませんでした」
「美代子さんはひと言も語らなかったのですか」
「なんにも」
「中野さんは美代子さんの親友だったのに」
「ええ」
「親友でもなお、中野さんには教えずにおいたことがあったのですね」
「ええ」
短い返事を玲子は繰り返した。
「美代子さんが中野さんに教えずにいたことは、ほかにもたくさんあったと思いますか」
「思います」
という言葉が、即答として玲子から返って来た。
「いちばん初めに中野さんに会ったとき、高校三年生のときの演劇部の公演のヴィデオについて、僕は中野さんから聞きました。そのヴィデオを貸していただけるとか、写真を見せていただけるといった話です」
「いつでもお貸しします。写真も見てください」
「美代子さんについての取材範囲を、高校生の頃にまで戻そうと思うのです。なんの取材にしろ、出だしのところで知ったことをかなりあとまでそのままにしておく癖が、僕にはあります。今回もその癖が出ました」
日比谷の説明に玲子は微笑した。
「いつお会い出来ますか」
彼の質問に、
「いつでもいいわ」
と、玲子は答えた。
「夏の前から仕事が連続したので、この季節はしばらく落ち着いていたいと思ってます。ですから、ほんとに、いつでもいいです」
来週の木曜日までには会っておきたい、と日比谷は考えた。木曜日から逆算して適当な日をきめようとしている日比谷に、
「いまはどちらなの? 仕事場ですか」
と、玲子は訊いた。
「仕事場です」
と、日比谷は答えた。
「いま、これからは?」
玲子が重ねて質問した。
「僕はいいですよ。この時間に訪ねて、迷惑ではないですか」
「どうぞ、いらして」
「うかがいます。すぐにここを出て、歩いていきます」
初めて中野玲子に会ったとき、駅から玲子の自宅まで、日比谷は彼女を送っていった。だから彼女の自宅のある場所は知っていた。
「道路から階段を上がっていただくと、そこに低い門扉があります。内側に簡単なかんぬきがかかってますから、腕をなかへまわしてかんぬきをはずしてください。渡り廊下でつながった別棟の平屋建てが、私の住んでいるところなの」
「うかがいます」
電話はそこで終わった。仕事場での今日という一日を終わったことにして、玲子を訪ねたあとは自宅へ帰ることにきめ、日比谷昭彦はほどなく部屋を出た。そしてそれから数分後には、中野玲子の自宅の敷地に向けて、日比谷は道路から階段を上がっていた。玲子に言われたとおり、門扉のかんぬきをはずしてなかへ入った。母屋に向かうコンクリート敷きの小径が、平屋建ての別棟に向けて枝分かれしていた。ドアの前へ歩いた彼は、
「日比谷さん?」
という玲子の声を、ドアの内側に聞いた。
「そうです。今晩は」
ドアが開き、玲子が彼を迎え入れた。自分ひとりでくつろいでいるときの、部屋着の玲子だった。化粧はしていず、髪はうしろにまとめていた。