週刊誌の編集部にいる友人、矢野が先日ファクシミリで送ってくれた略地図を、日比谷昭彦は記憶しておいた。次の週の月曜日の午後、外で昼食を終えた日比谷は小田急線で下北沢までいった。駅の北口を出て、彼は記憶している略地図のとおりに歩いた。現在の下北沢ではもっとも静かな場所に、訪ねる喫茶店はあった。日比谷にとっては初めて知る店だった。
道に面して庭があった。和洋折衷の、さりげなく凝った庭だ。その庭と、そのなかをゆるやかにカーヴしてのびている敷石が、店にとってのアプローチになっていた。この庭はいまのものではない、と日比谷は思った。三十年、ひょっとしたら四十年くらいは昔に造ったものだ。店は平屋建ての民家のような木造だった。一九六〇年代なかばの建物だろう、と日比谷は見当をつけた。当時としてはおそらくきわめて洒落た建物だ。いまでは充分に古びているそのぜんたいが、いい雰囲気をかもし出していた。洒落かたの質が庭のそれと共通していた。いまこれとおなじように造ろうとしても絶対に造れるものではない、などと思いながら彼は店のドアへ歩いた。
入ったところは民家なら玄関に相当するスペースだった。ほどよい広がりのなかに、板張りの階段がほんの数段だけあった。それを上がると板張りの広いフロアだ。そのフロアを適正にふさいで、長方形の大きなテーブルがあった。そのテーブルをいくつもの椅子が囲んでいた。テーブルの向こうは横に一列のカウンター、そしてテーブルの左側の奥は、階段を数段降りて広がるテーブル席のスペースになっていた。
店のなかには数人の客がいた。カウンターには端にひとりいるだけだった。日比谷はカウンターへ歩き、ほぼまんなかの席にすわった。黒いエプロンをつけた若いウエイターが、すぐに水の入った小さなグラスを持ってきた。日比谷はエスプレッソを注文した。カウンターのなかにいた四十代の年齢の男性が、日比谷の前へ来た。軽く一礼をし、
「福山俊樹です」
と言った。
ふたりは初対面の挨拶をした。昼食を食べに仕事場を出る前、日比谷はこの店に電話をかけ、いま目の前にいる福山と話をした。この時間に店を訪ねるということ、そして訪問の目的を、日比谷は簡単に伝えておいた。日比谷が五年ぶりに読んだ、あの週刊誌の二ページの記事を取材して書いた人が、この福山俊樹だ。
体重だけを問題にするなら、福山俊樹は誰の目にも肥満体だった。体重は大きく超過している。しかし、むさ苦しさをいっさい感じさせない、見た目に心地の良い肥満というものがあるなら、福山の体型がそうだった。自分の目の前にあらわれる誰をも、おだやかに楽しみつつそのすべてを許容するような、たとえるならクッションの沈みの深さを福山は持っていた。その豊かな体型に肌の色がたいそう白く、縁のない眼鏡をかけ、長くのばしたまっすぐな髪をうなじで束ねていた。束ねるために使っているのは、ドナルド・ダックの頭のついた黒いゴム紐だった。
背後の棚から福山はドゥミタスを一客、選んだ。エスプレッソ・マシーンは調理台のいちばん端にあった。そこへドゥミタスを持っていき、豆を挽くための大きな機械で一杯分の豆を挽いた。エスプレッソ・マシーンをセットしてから、福山は日比谷の前へ戻った。
「五年も前のことを、なぜまた」
という訊きかたで、福山は日比谷との話を始めた。
「切り抜いて取っておいたものを、五年ぶりに見てあらためて興味を持ったからです」
日比谷は答えた。
「あの記事は日比谷さんに切り抜いていただけたのですか」
「ひかれるものがありました」
「どのあたりにですか」
「出来事そのものに」
と、日比谷は答えた。
「失踪ものがお好きですか」
という福山の訊きかたに、日比谷は笑顔で応じた。
エスプレッソ・マシーンのドゥミタスにエスプレッソが満ちた。好みの色をした細やかな泡立ちを、日比谷は自分の位置から見た。福山はそれを取りにいき、受け皿に載せてカウンターまで持って来た。日比谷の手もとに、おだやかな手つきで静かに丁寧に、福山はそれを置いた。
「あの出来事はまだ解決していないのです」
と、日比谷は言った。心から途方に暮れた人の表情を、顔だけではなくその豊かな全身に、福山は浮かべた。
「はあ」
とだけ福山は答えた。そしてしばらく間を置いて、
「お調べになったのですか」
と訊いた。
「ファイルに入れておいた切り抜きを、つい先日、五年ぶりに僕は見たのです。あらためて興味を覚えたので、あの記事を書いたのが福山さんだということを、編集部の友人に教えてもらいました。出来事はあのまま未解決だということと、彼女が失踪した当時の住所や本名などを調べました」
「五年ぶりに切り抜きをご覧になったきっかけは、なんだったのですか」
「偶然です。仕事場の引っ越しをして、整理をしている途中でたまたま見たファイルのなかにあったのです」
日比谷はジャケットの内ポケットからカード入れを取り出した。自分の名刺を一枚抜き取り、カウンター越しに福山に渡した。受け取った福山は、名刺に印刷してあることをすべて読み、顔を上げて日比谷を見た。そしてうれしそうに微笑し、
「近くですね」
と言った。日比谷はうなずいた。そして、
「子どもの頃からずっと小田急線です」
とつけ加えた。
「僕もなのです。実家が豪徳寺ですから。あの記事に登場する失踪女性が住んでいたのも、そしていなくなった現場も、日比谷さんの仕事場からすぐ近くです」
「いま福山さんは、記事を書く仕事はしていないのですか」
日比谷のその質問に首を振り、
「してません」
と、福山は答えた。そして両手で店内ぜんたいを示し、
「いまもまだここにかかりっきりです」
と言った。
「家業をお継ぎになったんですって?」