喫茶店を出る前、入り口の近くにある電話ブースに入り、中野玲子はラ・シャンブル・ノワールに電話をかけて席を予約した。ラ・シャンブル・ノワールとは、暗室という意味だ。地下鉄に乗るならひと駅だった。ふたりは歩くことにした。歩きながらふたりは話をした。
「福山俊樹はラ・シャンブル・ノワールも取材しています」
「そうでしょうね」
「収穫はこれといってなにもなかったようです」
「きっとそうだったと思います」
「中野さんが最初にその店にいかれたのは、いつでしたか」
「二十四歳になる少し前です。それから美代子がいなくなるまでの一年ちょっとのあいだ、ふたりでよくいきました」
「美代子さんが誰かほかの人とも、その店へいっていた可能性はありますか」
「お店でお訊きになればいいわ」
彼女の明快な返答に対して、日比谷は、
「そうですね」
と答えることしか出来なかった。
「とてもいい店なのです。あの店を美代子が気にいったということは、そのまま美代子の好みや性格の反映だと思います。小ぢんまりしていて、静かで落ち着くことが出来て、料理は素晴らしく気が利いています。外国の女性が料理人なのです。ふたりいまして、ひとりは強い風がなにより嫌いという人で、世界じゅうを旅してまわって日本を発見したのです。日本ほど風のおだやかに吹く国はないと言って、日本に住みついています。料理の腕と才能だけで、世界を歩いて来た女性です。お店の女主人と知り合いになって、毎週木曜と金曜が、そのかたの料理です。月曜から水曜までは、別なかたになります」
最初の交差点までふたりは歩いた。向こうへ渡る人のための信号は赤だった。ふたりは肩をならべて立ちどまった。玲子は彼に顔を向けた。そして微笑した。深いところでなにかを決定的にあきらめた人のような、寂寥感に指先で触れることが出来るほどの、寂しい微笑だった。
二本だけ裏通りに入った小さな建物の二階に、その店はあった。階段を上がってドアを入ると、店ぜんたいの長方形のスペースの、ちょうど中間に立つことが出来た。配膳のカウンターが仕切りのようにまんなかにあり、その奥は厨房だ。残った正方形のスペースにテーブルと椅子が配してあった。
「あっら、珍しい」
女主人が玲子そして日比谷を迎えた。四十代なかばの、判断が明快で迅速そうな、行動力を感じさせる美人だった。身辺に美人がふえていくのを、確かな兆候として日比谷は受けとめた。
「ほんとに、珍しい」
振り返って玲子にそう言いながら、彼女はふたりを席へ案内した。窓辺の席に壁を背にして玲子がすわった。向き合ってすわった日比谷がことのほか気にいったのは、照明の柔らかさとほのかな明るさ、そして適正なテーブルの大きさだった。周囲のテーブルとの距離もよかった。
「久しぶりなのですか」
日比谷が訊いた。
「珍しいというのは、そういう意味ではないんですよ」
玲子が笑顔で答えた。さきほどの喫茶店でこの店のことを話題にしたときから、店へ歩いて来るまでの彼女が浮かべていた、絶望の底であきらめたような悲しい表情は消えていた。
女主人がふたりのテーブルへ来た。赤いワインのハーフ・ボトルを玲子に見せ、日比谷にも笑顔を向け、温かい視線を玲子に戻した。
「男性といっしょに来るなんて、ほんとに珍しい」
澄んだ華やかな笑顔で、玲子は彼女をふり仰いでいた。
「男性と来てくれたのは、これが初めてでしょう」
女主人の言葉に、玲子の笑顔はさらに広がった。主人は日比谷に目を向けた。
「僕は光栄な人ですか」
「幸福なかた」
という言葉に玲子が笑った。持っていたハーフ・ボトルを店主は玲子に見せた。
「リストには高い値段で出てるの。売りたくないから。でも、プレゼントしますから、ぜひ飲んで」
ボトルをさらに玲子に見せ、彼女は日比谷にもラベルを向けた。一九八九年、シャトー・ラスコムプ、と彼には読めた。女主人は今日の料理の説明をした。彼らふたりはそれぞれに選んだ。店主がカウンターへ戻ってから、
「僕もこの店の常連になります」
と、日比谷は言った。受けとめて少し間を置いた玲子は、
「私を誘ってください」
と言った。
「後藤さんの話をしていいですか」
「どうぞ」
「福山俊樹の意見なのですが、後藤さんの存在の痕跡があまりにも希薄だ、と彼は言うのです。後藤美代子という人は果たして本当に実在したのか、と真面目に問いたくなるほどに、いったん消えてしまうとそのあとは、はかないというか淡いというか、ほとんどなにも残っていず、そのことに衝撃すら覚える、と彼は言うのです」
玲子が愉快そうに笑って反応したのは、日比谷にとって意外だった。
「知らないから、そういうことが言えるのね」
と、彼女は言った。そして次のとおり補足した。
「福山さんは美代子に会ったこともなければ見たこともないのです。後藤美代子という女性は、たいへんに素晴らしい実体のある、確固とした堂々たる存在です。もの静かで端正ですから目立たない、ということはありましたけれど」
「取材してもなにもわからないから、彼はことさらそんなふうに感じたのかもしれませんね」
「美代子に会ったことのない人が、自分の得意な理屈の領域に引っぱっていって、そこで文芸的な感慨にひたっているだけのような気がします」
玲子のそのような言いかたに、日比谷は肯定の気持ちでうなずいた。しかし福山の意見も捨てがたい。これから取材していけば、おそらく自分も福山とおなじような感じかたをすることになるだろう。充分に信頼するに足りるとすでに自分が判断している中野玲子という女性は、いまは福山の意見をほぼ完全に否定する側に立っている。その玲子の見かたも、少なくともいまのところは、福山の意見と同じ程度には尊重しなくてはいけない。彼の目の前に早くも分岐点が出現していた。ただしいまはまだそれを眺めているだけでいい。
「福山が週刊誌に書いた二ページの記事は、もう覚えていないでしょうね」
という日比谷の質問に対して、
「嫌いな記事だったということは記憶してます」
と、玲子は答えた。
「なぜ嫌いですか」
「OLが美人だとこういう事件に遇う、というような書きかたでしたでしょう」