← Library‹ 道順は彼女に訊く 第四章 暗室で夕食

喫茶きっさ店てんを出でる前まえ、入いり口ぐちの近ちかくにある電話でんわブースに入はいり、中野なかの玲子れいこはラ・シャンブル・ノワールに電話でんわをかけて席せきを予約よやくした。ラ・シャンブル・ノワールとは、暗室あんしつという意味いみだ。地下ちか鉄てつに乗のるならひと駅えきだった。ふたりは歩あるくことにした。歩あるきながらふたりは話はなしをした。

「福山ふくやま俊樹としきはラ・シャンブル・ノワールも取材しゅざいしています」

「そうでしょうね」

「収穫しゅうかくはこれといってなにもなかったようです」

「きっとそうだったと思おもいます」

「中野なかのさんが最初さいしょにその店みせにいかれたのは、いつでしたか」

「二十にじゅう四よん歳さいになる少すこし前まえです。それから美代子みよこがいなくなるまでの一いち年ねんちょっとのあいだ、ふたりでよくいきました」

「美代子みよこさんが誰だれかほかの人ひととも、その店みせへいっていた可能かのう性せいはありますか」

「お店みせでお訊ききになればいいわ」

彼女かのじょの明快めいかいな返答へんとうに対たいして、日比谷ひびやは、

「そうですね」

と答こたえることしか出来できなかった。

「とてもいい店みせなのです。あの店みせを美代子みよこが気きにいったということは、そのまま美代子みよこの好このみや性格せいかくの反映はんえいだと思おもいます。小こぢんまりしていて、静しずかで落おち着つくことが出来できて、料理りょうりは素晴すばらしく気きが利きいています。外国がいこくの女性じょせいが料理りょうり人にんなのです。ふたりいまして、ひとりは強つよい風かぜがなにより嫌きらいという人ひとで、世界せかいじゅうを旅たびしてまわって日本にっぽんを発見はっけんしたのです。日本にっぽんほど風かぜのおだやかに吹ふく国くにはないと言いって、日本にっぽんに住すみついています。料理りょうりの腕うでと才能さいのうだけで、世界せかいを歩あるいて来きた女性じょせいです。お店みせの女おんな主人しゅじんと知しり合あいになって、毎週まいしゅう木曜もくようと金曜きんようが、そのかたの料理りょうりです。月曜げつようから水曜すいようまでは、別べつなかたになります」

最初さいしょの交差こうさ点てんまでふたりは歩あるいた。向むこうへ渡わたる人ひとのための信号しんごうは赤あかだった。ふたりは肩かたをならべて立たちどまった。玲子れいこは彼かれに顔かおを向むけた。そして微笑びしょうした。深ふかいところでなにかを決定けってい的てきにあきらめた人ひとのような、寂寥せきりょう感かんに指先ゆびさきで触ふれることが出来できるほどの、寂さびしい微笑びしょうだった。

二に本ほんだけ裏通うらどおりに入はいった小ちいさな建物たてものの二に階かいに、その店みせはあった。階段かいだんを上あがってドアを入はいると、店みせぜんたいの長ちょう方形ほうけいのスペースの、ちょうど中間ちゅうかんに立たつことが出来できた。配膳はいぜんのカウンターが仕切しきりのようにまんなかにあり、その奥おくは厨房ちゅうぼうだ。残のこった正せい方形ほうけいのスペースにテーブルと椅子いすが配はいしてあった。

「あっら、珍めずらしい」

女じょ主人しゅじんが玲子れいこそして日比谷ひびやを迎むかえた。四十よんじゅう代だいなかばの、判断はんだんが明快めいかいで迅速じんそくそうな、行動こうどう力りょくを感かんじさせる美人びじんだった。身辺しんぺんに美人びじんがふえていくのを、確たしかな兆候ちょうこうとして日比谷ひびやは受うけとめた。

「ほんとに、珍めずらしい」

振ふり返かえって玲子れいこにそう言いいながら、彼女かのじょはふたりを席せきへ案内あんないした。窓辺まどべの席せきに壁かべを背せにして玲子れいこがすわった。向むき合あってすわった日比谷ひびやがことのほか気きにいったのは、照明しょうめいの柔やわらかさとほのかな明あかるさ、そして適正てきせいなテーブルの大おおきさだった。周囲しゅういのテーブルとの距離きょりもよかった。

「久ひさしぶりなのですか」

日比谷ひびやが訊きいた。

「珍めずらしいというのは、そういう意味いみではないんですよ」

玲子れいこが笑顔えがおで答こたえた。さきほどの喫茶きっさ店てんでこの店みせのことを話題わだいにしたときから、店みせへ歩あるいて来くるまでの彼女かのじょが浮うかべていた、絶望ぜつぼうの底そこであきらめたような悲かなしい表情ひょうじょうは消きえていた。

女じょ主人しゅじんがふたりのテーブルへ来きた。赤あかいワインのハーフ・ボトルを玲子れいこに見みせ、日比谷ひびやにも笑顔えがおを向むけ、温あたたかい視線しせんを玲子れいこに戻もどした。

「男性だんせいといっしょに来くるなんて、ほんとに珍めずらしい」

澄すんだ華はなやかな笑顔えがおで、玲子れいこは彼女かのじょをふり仰あおいでいた。

「男性だんせいと来きてくれたのは、これが初はじめてでしょう」

女じょ主人しゅじんの言葉ことばに、玲子れいこの笑顔えがおはさらに広ひろがった。主人しゅじんは日比谷ひびやに目めを向むけた。

「僕ぼくは光栄こうえいな人ひとですか」

「幸福こうふくなかた」

という言葉ことばに玲子れいこが笑わらった。持もっていたハーフ・ボトルを店主てんしゅは玲子れいこに見みせた。

「リストには高たかい値段ねだんで出でてるの。売うりたくないから。でも、プレゼントしますから、ぜひ飲のんで」

ボトルをさらに玲子れいこに見みせ、彼女かのじょは日比谷ひびやにもラベルを向むけた。一いち九きゅう八はち九きゅう年ねん、シャトー・ラスコムプ、と彼かれには読よめた。女じょ主人しゅじんは今日きょうの料理りょうりの説明せつめいをした。彼かれらふたりはそれぞれに選えらんだ。店主てんしゅがカウンターへ戻もどってから、

「僕ぼくもこの店みせの常連じょうれんになります」

と、日比谷ひびやは言いった。受うけとめて少すこし間あいだを置おいた玲子れいこは、

「私わたくしを誘さそってください」

と言いった。

「後藤ごとうさんの話はなしをしていいですか」

「どうぞ」

「福山ふくやま俊樹としきの意見いけんなのですが、後藤ごとうさんの存在そんざいの痕跡こんせきがあまりにも希薄きはくだ、と彼かれは言いうのです。後藤ごとう美代子みよこという人ひとは果はたして本当ほんとうに実在じつざいしたのか、と真面目まじめに問といたくなるほどに、いったん消きえてしまうとそのあとは、はかないというか淡あわいというか、ほとんどなにも残のこっていず、そのことに衝撃しょうげきすら覚おぼえる、と彼かれは言いうのです」

玲子れいこが愉快ゆかいそうに笑わらって反応はんのうしたのは、日比谷ひびやにとって意外いがいだった。

「知しらないから、そういうことが言いえるのね」

と、彼女かのじょは言いった。そして次つぎのとおり補足ほそくした。

「福山ふくやまさんは美代子みよこに会あったこともなければ見みたこともないのです。後藤ごとう美代子みよこという女性じょせいは、たいへんに素晴すばらしい実体じったいのある、確固かっことした堂々どうどうたる存在そんざいです。もの静しずかで端正たんせいですから目立めだたない、ということはありましたけれど」

「取材しゅざいしてもなにもわからないから、彼かれはことさらそんなふうに感かんじたのかもしれませんね」

「美代子みよこに会あったことのない人ひとが、自分じぶんの得意とくいな理屈りくつの領域りょういきに引ひっぱっていって、そこで文芸ぶんげい的てきな感慨かんがいにひたっているだけのような気きがします」

玲子れいこのそのような言いいかたに、日比谷ひびやは肯定こうていの気持きもちでうなずいた。しかし福山ふくやまの意見いけんも捨すてがたい。これから取材しゅざいしていけば、おそらく自分じぶんも福山ふくやまとおなじような感かんじかたをすることになるだろう。充分じゅうぶんに信頼しんらいするに足たりるとすでに自分じぶんが判断はんだんしている中野なかの玲子れいこという女性じょせいは、いまは福山ふくやまの意見いけんをほぼ完全かんぜんに否定ひていする側がわに立たっている。その玲子れいこの見みかたも、少すくなくともいまのところは、福山ふくやまの意見いけんと同おなじ程度ていどには尊重そんちょうしなくてはいけない。彼かれの目めの前まえに早はやくも分岐ぶんき点てんが出現しゅつげんしていた。ただしいまはまだそれを眺ながめているだけでいい。

「福山ふくやまが週刊しゅうかん誌しに書かいた二にページの記事きじは、もう覚おぼえていないでしょうね」

という日比谷ひびやの質問しつもんに対たいして、

「嫌きらいな記事きじだったということは記憶きおくしてます」

と、玲子れいこは答こたえた。

「なぜ嫌きらいですか」

「OLが美人びじんだとこういう事件じけんに遇あう、というような書かきかたでしたでしょう」

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