中野玲子に会って二日後、玲子からB5サイズの封筒が日比谷宛に速達で届いた。仕事場で執筆していた彼は、それを受け取った。折れないように入れたボール紙が、封筒ぜんたいを固く支えていた。後藤美代子の写真だ、と日比谷が思ったとおり、なかには写真が五枚入っていた。小さなカードに万年筆で書いたメモが添えてあった。『美代子の写真をお届けします。すべて私が撮影したものです。日比谷さんのファイルに加えてください』と、中野玲子は書いていた。
いちばん上にあったのは、後藤美代子の全身をとらえた白黒のプリントだった。マットの印画紙に柔らかい調子でプリントしてあった。スポーツ・ウエアとしての下着、あるいはそれだけでスポーツ・ウエアとして成立するボトムとトップを身につけた美代子は、細いヒールのサンダルを履いていた。
履き込みの深い灰色のボトムに、タンクトップの裾を胸のふくらみのすぐ下で切り取ったような、おなじ灰色のトップだ。彼女の左右は壁だった。さほど幅のない廊下のような空間に、美代子は骨盤を正立させて腰をきめ、脚を開いて仁王立ちしていた。レンズをまっすぐに凝視し、表情を消していた。無理にポーズや表情を作った結果のぎこちなさのようなものを、日比谷はその写真からいっさい感じなかった。
美代子の右手にはピストル・クロスボウ、そして左手にはその矢が三本、握られていた。片方の壁からバウンスしたストロボの光を、美代子の全身が受けとめていた。壁は焼き込んで影に近い状態まで落としてあった。断面が縦長の長方形であるトンネルのなかに立っているような効果が、視覚的に達成してあった。
たいへん良く出来た若い女性の体だった。いい体、と玲子は言っていた。まさにそのとおりだ、と日比谷は思った。見事なプロポーションのなかに息のつまるような容積感が、ぜんたいの印象にとっての源を形成していた。彼女の体のあらゆるトポロジー、つまり白黒のプリントの無限階調が表現する曲面のすべてに、雄弁でしかも静かな影が、緊迫感をたたえて宿っていた。この影はただごとではない、と日比谷は思った。性的な魅力は当然のこととして、それをはるかに越えた美しさとして、日比谷は受けとめた。
二枚目の写真は白黒のプリントのバスト・ショットだった。後藤美代子の顔だちが良くわかった。美代子はもの静かでいつもきっちりと端正だった、と中野玲子は言っていた。そのとおりだ。文句なしの美貌は冷たくて同時に優しく、固く跳ね返す力と同時に、どこまでも深く受けとめる許容力を、日比谷に感じさせた。顔だちと表情から日比谷が最終的に抽出したのは、美代子の顔立ちのさまざまな細部にひそむ、異なったふたつの命題というものの危険さだった。
下手にさわると怪我をする、というような通俗的な次元の危険さではなかった。最初から攻撃的に構えているという、幼稚な危険さなどでもない。わかりにくい危険さ。あるいは、わかりにくいことから生まれて来る危険さ。この美しい顔の内部になにがあるのか、まったくの未知数で見当もつかないことを当然の前提とするはずの、ある種の危険さ。後藤美代子の写真を見ながら、日比谷昭彦は一例として頭のなかでそのように言葉を操ってみた。
三枚目の写真も白黒だった。一枚目とおなじ下着的なスポーツ・ウエアを身につけ、クロゼットのドアらしいものに軽く背を預けて立っている、後藤美代子の全身像だ。まっすぐにのばした左脚で体を支え、力を抜いた右脚は足首を左の足首の前で交差させていた。腰に両手を当て、後頭部も背後のドアにつけ、胸の位置から自分をとらえるレンズに、美代子は微笑していた。太腿の魅力に目を取られることを避け、この写真での後藤美代子の印象をたとえるなら、格闘技の選手だった。
四枚目のカラー・プリントは、見たような街角が背景になっていた。銀座だ、と日比谷はすぐにわかった。銀座通りを京橋に向けて左側の歩道を歩いていき、首都高にさしかかる少し手前だ。歩いていく美代子のうしろ姿のぜんたいが、その画面のなかにあった。中野玲子はしゃがんで撮影したはずだ、と日比谷は思った。撮影者の視点は歩いていく美代子の腰のあたりだ。どんなに端正に引き締めてもおもてに出てしまう、うしろ姿の風情というものがそこにあった。
五枚目のカラー・プリントは、レストランのテーブルについている美代子の、そのテーブルと手もとを、テーブルの向かい側から斜めにとらえたアップだった。おそらくラ・シャンブル・ノワールだろう。テーブルには食器が出ている。たたまれたナプキンがそのままある。食前酒が出た段階だ。その細いグラスに、美代子は右手を添えていた。食前酒は半分ほど飲んであった。レストランの夕食のテーブルにおける、差し向かいの人が見るはずの美代子の両手の魅力。中野玲子にこの写真を撮らせたのは、その魅力だったに違いないと日比谷は思った。
何度も繰り返して、日比谷はその五枚の写真を観察した。そして彼が得た最終的な感慨は、被写体の美しさやその魅力よりも、それをとらえる中野玲子の写真的な感覚ないしは才能に対してだった。被写体との正しくて緊密な呼応の関係のなかに、撮影者の中野玲子は自分を置いていた。その玲子に美代子は気持ちを許し、自分をあたえていた。自分を全開にし、その内部を提供していた。
五枚の写真を日比谷はコピーした。三枚の白黒のプリントは普通のコピー機で、二倍に拡大してみた。オリジナルの印画紙プリントとはまったく異なった風合いの、別な作品のような仕上がりとなった。二枚のカラー・プリントはカラー・コピー機で拡大複写した。この二枚も印画紙のプリントよりもはるかに質感の高いものとなった。