← Library‹ 道順は彼女に訊く 第七章 二階の部屋

仕事場しごとばの準備じゅんび室しつでテーブルに向むかって椅子いすにすわり、日比谷ひびや昭彦あきひこは反省はんせいしていた。福山ふくやま俊樹としきからもらって来きた取材しゅざいノートとコピーと、後藤ごとう美代子みよこ専用せんようのファイロファクスが、彼かれの目めの前まえに広ひろげてあった。取材しゅざいノートのコピーは、福山ふくやまがラ・シャンブル・ノワールを取材しゅざいした部分ぶぶんが開ひらいてあった。「ラ」を「ル」と間違まちがえた上うえで、ル・シャンブル・ノワールと店名てんめいをフランス語ごで書かいた福山ふくやまは、「当日とうじつは店主てんしゅ不在ふざい」と、いちばん最初さいしょに記入きにゅうしていた。この記入きにゅうを自分じぶんは何なん度ども見みたはずだ、と日比谷ひびやは思おもった。

何なん度ども見みて頭あたまのなかに刻きざみつけたつもりだ。ファイロファクスには中野なかの玲子れいこに訊きくべきことを列挙れっきょしたページがある。後藤ごとう美代子みよこと中野なかの玲子れいこが最後さいごにふたりでその店みせへいった日ひ、つまり後藤ごとう美代子みよこが行方ゆくえ不明ふめいになった日ひには、ラ・シャンブル・ノワールの店主てんしゅは不在ふざいだったことをめぐって、玲子れいこに質問しつもんすべきことをいくつか、日比谷ひびやは専用せんようのページに書かいておいた。

ラ・シャンブル・ノワールの店主てんしゅに最初さいしょの取材しゅざいをしたとき、問題もんだいの日ひに彼女かのじょが店みせにいなかったことについて訊きくのを、日比谷ひびやは完全かんぜんに忘わすれた。魅力みりょく的てきな女性じょせいに会あうと、本来ほんらいの目的もくてきや用件ようけんを、第だい二に義ぎ的てきな位置いちへ置おいてしまう癖くせが日比谷ひびやにはある。本人ほんにんはそのことをよく自覚じかくしている。今回こんかいもおそらくその癖くせが出でた、と彼かれはいま反省はんせいしていた。

店主てんしゅから自分じぶんが聞きいたのは、彼女かのじょが記憶きおくしている後藤ごとう美代子みよこ一般いっぱんについてであり、中野なかの玲子れいこと夕食ゆうしょくをともにした、行方ゆくえ不明ふめいになった当日とうじつの美代子みよこについてではなかった。その日ひの店主てんしゅは店みせにいなかったのだから、その日ひの美代子みよこについては聞ききたくてもなにも聞きけないのだが、取材しゅざいの主題しゅだいのひとつとして忘わすれてはいけないことだった。

後藤ごとう美代子みよこを材料ざいりょうにして最終さいしゅう的てきに一いち冊さつの本ほんを書かく計画けいかくは、まだ日比谷ひびやにはなかった。本ほんにするあてがないと、取材しゅざいにとって大事だいじなことを自分じぶんは忘わすれるのか。これまでの日比谷ひびや昭彦あきひこは、取材しゅざい活動かつどうをすべて最後さいごには本ほんに結実けつじつさせて来きた。取材しゅざいの蓄積ちくせきが一いち冊さつの本ほんとなることが、自分じぶんにとってはすでに習性しゅうせいのようになっているのではないか。今回こんかいのようにその習性しゅうせいからはずれたところで取材しゅざいをしていると、重要じゅうようなことをうかつにも落おとしてしまう。

珍めずらしく自分じぶんを戒いましめる気持きもちを高たかめながら、日比谷ひびやは福山ふくやま俊樹としきの取材しゅざいノートを点検てんけんしていった。「当日とうじつは店主てんしゅ不在ふざい」と書かいた次つぎの行ぎょうに「料理りょうり人にん(外国がいこく人にん女性じょせい)が接客せっきゃく代行だいこう」と、福山ふくやまは書かいてた。中野なかの玲子れいこによると、ラ・シャンブル・ノワールには料理りょうり人にんがふたりいるという。どちらも外国がいこく人にん女性じょせいで、それぞれが週しゅうの後半こうはんと前半ぜんはんを受うけ持もっている。本来ほんらいなら休やすみの人ひとも店みせへ出でて来きて、その日ひだけは店主てんしゅ代理だいりで接客せっきゃくをおこなったということか。

自分じぶんに関かんする反省はんせいの延長えんちょうとして、日比谷ひびやは中野なかの玲子れいこに関かんする整理せいりもおこなった。五ご年ねん前まえ、行方ゆくえ不明ふめいになったあの日ひ、勤務きんむ先さきの新聞しんぶん社しゃの仕事しごとを終おえた後藤ごとう美代子みよこは、中野なかの玲子れいこと落おち合あってラ・シャンブル・ノワールへいき、ふたりで夕食ゆうしょくを食たべたのち、ともに帰宅きたくした。おなじ電車でんしゃにふたりは乗のり、美代子みよこが先さきにその電車でんしゃを降おりた。誰だれをも疑うたがってかかる方針ほうしんを選択せんたくするなら、まず誰だれよりも先さきに中野なかの玲子れいこの言いっていることを疑うたがわなくてはならない。勤務きんむ先さきを出でてから行方ゆくえ不明ふめいが確定かくていするまで、後藤ごとう美代子みよこについて証言しょうげん出来できるのは中野なかの玲子れいこひとりだけなのだから。

中野なかの玲子れいこの証言しょうげんはすべて嘘うそかもしれない。あくまでも仮定かていの話はなしだが、落おち合あってラ・シャンブル・ノワールへいき、ふたりで夕食ゆうしょくをしていっしょにおなじ電車でんしゃで帰かえった、という証言しょうげんの全部ぜんぶが嘘うそである可能かのう性せいもある。もしそうなら、ふたりであの店みせへいき、夕食ゆうしょくをともにしておなじ電車でんしゃで帰かえった、と言いわなければならないなんらかの理由りゆうが存在そんざいすることになる。どこか一いち部分ぶぶんが嘘うそであるという可能かのう性せい、さらには、言いわずに隠かくしている部分ぶぶんがある可能かのう性せいなども、当然とうぜんのこととして浮うかび上あがって来くる。

美代子みよこと最後さいごの夕食ゆうしょくをともにしたときのことについて、中野なかの玲子れいこは語かたってくれた。その日ひは店主てんしゅが不在ふざいだったことは、彼女かのじょの話はなしのなかに出でて来こなかった。店主てんしゅが不在ふざいだった事実じじつは、彼女かのじょにとってさほど意味いみを持もたないことなのか。店主てんしゅがいないのは、よくあったことなのか。このことは店主てんしゅに確認かくにんしなければならない。ファイロファクスのなかには店主てんしゅのためのページもあり、さきほどそのことを日比谷ひびやはそのページに書かき込こんだ。

当日とうじつの後藤ごとう美代子みよこは、勤務きんむ先さきを出でて中野なかの玲子れいこと落おち合あい、あの店みせへいって夕食ゆうしょくをともにし、ふたりで同おなじ帰路きろにつき、美代子みよこが先さきに電車でんしゃを降おりたという。その間あいだの所要しょよう時間じかんは三さん時間じかんから四よん時間じかんのあいだだろう。その時間じかんに関かんしては玲子れいこしか知しる人ひとはいず、玲子れいこの証言しょうげんしかない。その証言しょうげんは本当ほんとうなのか。あるいは、玲子れいこが言いわずにいることは、果はたしてあるのかないのか。

現在げんざいの日比谷ひびやは、中野なかの玲子れいこの言いっていることに嘘うそはない、と判断はんだんしていた。しかし仮定かていの話はなしを立たち上あげると、そこにはかなり広ひろい謎なぞの空間くうかんがある。そしてその謎なぞは気きになる。後藤ごとう美代子みよこという謎なぞがいちばん外側そとがわのもっとも大おおきな枠わくだとすると、その枠わくの内部ないぶには中野なかの玲子れいこという謎なぞがある。

中野なかの玲子れいこという謎なぞとは、彼女かのじょだけが知しっていて言いわずにいること、というようなものだ。そしてその謎なぞは、言いわずにおかなければならない理由りゆうというもののみによって、発生はっせいして来くる。中野なかの玲子れいこの言いっていることに嘘うそはひとつもない、といういまの自分じぶんの判断はんだんどおり、謎なぞは美代子みよこの行方ゆくえ不明ふめいだけであり、それ以外いがいには謎なぞはどこにもないのかもしれない。謎なぞはいたるところにあるかもしれない、という可能かのう性せいがいっぽうにあり、もういっぽうには、美代子みよこ当人とうにん以外いがいに謎なぞはなにひとつない、という可能かのう性せいが立たっている。そのふたつの可能かのう性せいは、やじろべえの両端りょうたんだ。注意ちゅうい深ふかくバランスを計はからなくてはいけない、と日比谷ひびやは自分じぶんに言いった。

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