仕事場の準備室でテーブルに向かって椅子にすわり、日比谷昭彦は反省していた。福山俊樹からもらって来た取材ノートとコピーと、後藤美代子専用のファイロファクスが、彼の目の前に広げてあった。取材ノートのコピーは、福山がラ・シャンブル・ノワールを取材した部分が開いてあった。「ラ」を「ル」と間違えた上で、ル・シャンブル・ノワールと店名をフランス語で書いた福山は、「当日は店主不在」と、いちばん最初に記入していた。この記入を自分は何度も見たはずだ、と日比谷は思った。
何度も見て頭のなかに刻みつけたつもりだ。ファイロファクスには中野玲子に訊くべきことを列挙したページがある。後藤美代子と中野玲子が最後にふたりでその店へいった日、つまり後藤美代子が行方不明になった日には、ラ・シャンブル・ノワールの店主は不在だったことをめぐって、玲子に質問すべきことをいくつか、日比谷は専用のページに書いておいた。
ラ・シャンブル・ノワールの店主に最初の取材をしたとき、問題の日に彼女が店にいなかったことについて訊くのを、日比谷は完全に忘れた。魅力的な女性に会うと、本来の目的や用件を、第二義的な位置へ置いてしまう癖が日比谷にはある。本人はそのことをよく自覚している。今回もおそらくその癖が出た、と彼はいま反省していた。
店主から自分が聞いたのは、彼女が記憶している後藤美代子一般についてであり、中野玲子と夕食をともにした、行方不明になった当日の美代子についてではなかった。その日の店主は店にいなかったのだから、その日の美代子については聞きたくてもなにも聞けないのだが、取材の主題のひとつとして忘れてはいけないことだった。
後藤美代子を材料にして最終的に一冊の本を書く計画は、まだ日比谷にはなかった。本にするあてがないと、取材にとって大事なことを自分は忘れるのか。これまでの日比谷昭彦は、取材活動をすべて最後には本に結実させて来た。取材の蓄積が一冊の本となることが、自分にとってはすでに習性のようになっているのではないか。今回のようにその習性からはずれたところで取材をしていると、重要なことをうかつにも落としてしまう。
珍しく自分を戒める気持ちを高めながら、日比谷は福山俊樹の取材ノートを点検していった。「当日は店主不在」と書いた次の行に「料理人(外国人女性)が接客代行」と、福山は書いてた。中野玲子によると、ラ・シャンブル・ノワールには料理人がふたりいるという。どちらも外国人女性で、それぞれが週の後半と前半を受け持っている。本来なら休みの人も店へ出て来て、その日だけは店主代理で接客をおこなったということか。
自分に関する反省の延長として、日比谷は中野玲子に関する整理もおこなった。五年前、行方不明になったあの日、勤務先の新聞社の仕事を終えた後藤美代子は、中野玲子と落ち合ってラ・シャンブル・ノワールへいき、ふたりで夕食を食べたのち、ともに帰宅した。おなじ電車にふたりは乗り、美代子が先にその電車を降りた。誰をも疑ってかかる方針を選択するなら、まず誰よりも先に中野玲子の言っていることを疑わなくてはならない。勤務先を出てから行方不明が確定するまで、後藤美代子について証言出来るのは中野玲子ひとりだけなのだから。
中野玲子の証言はすべて嘘かもしれない。あくまでも仮定の話だが、落ち合ってラ・シャンブル・ノワールへいき、ふたりで夕食をしていっしょにおなじ電車で帰った、という証言の全部が嘘である可能性もある。もしそうなら、ふたりであの店へいき、夕食をともにしておなじ電車で帰った、と言わなければならないなんらかの理由が存在することになる。どこか一部分が嘘であるという可能性、さらには、言わずに隠している部分がある可能性なども、当然のこととして浮かび上がって来る。
美代子と最後の夕食をともにしたときのことについて、中野玲子は語ってくれた。その日は店主が不在だったことは、彼女の話のなかに出て来なかった。店主が不在だった事実は、彼女にとってさほど意味を持たないことなのか。店主がいないのは、よくあったことなのか。このことは店主に確認しなければならない。ファイロファクスのなかには店主のためのページもあり、さきほどそのことを日比谷はそのページに書き込んだ。
当日の後藤美代子は、勤務先を出て中野玲子と落ち合い、あの店へいって夕食をともにし、ふたりで同じ帰路につき、美代子が先に電車を降りたという。その間の所要時間は三時間から四時間のあいだだろう。その時間に関しては玲子しか知る人はいず、玲子の証言しかない。その証言は本当なのか。あるいは、玲子が言わずにいることは、果たしてあるのかないのか。
現在の日比谷は、中野玲子の言っていることに嘘はない、と判断していた。しかし仮定の話を立ち上げると、そこにはかなり広い謎の空間がある。そしてその謎は気になる。後藤美代子という謎がいちばん外側のもっとも大きな枠だとすると、その枠の内部には中野玲子という謎がある。
中野玲子という謎とは、彼女だけが知っていて言わずにいること、というようなものだ。そしてその謎は、言わずにおかなければならない理由というもののみによって、発生して来る。中野玲子の言っていることに嘘はひとつもない、といういまの自分の判断どおり、謎は美代子の行方不明だけであり、それ以外には謎はどこにもないのかもしれない。謎はいたるところにあるかもしれない、という可能性がいっぽうにあり、もういっぽうには、美代子当人以外に謎はなにひとつない、という可能性が立っている。そのふたつの可能性は、やじろべえの両端だ。注意深くバランスを計らなくてはいけない、と日比谷は自分に言った。