喫茶店を出て日比谷は腕時計を見た。銀座まで歩いた。中央通りを四丁目の交差点に向かい、夕方の交差点を人々とともに越え、さらに京橋に向けて歩いた。七時ちょうどに、ラ・シャンブル・ノワールのある建物に入った。
店に入ると女主人が笑顔で迎えてくれた。大きな身ぶりで彼女は店の奥を示した。奥のテーブルに中野玲子がひとりでいた。ただ単に美人で魅力的であるというだけではなく、美しさや魅力が力として外に向けて放たれている様子を、日比谷は受けとめた。その力に牽引されて、いま自分は彼女に向けて歩いている、などと彼は思ってみた。差し向かいにすわった日比谷は、彼女から自分に向けて発散される魅力という力の有効半径のなかに、自分が完全に取り込まれるのを感じた。そしてそれは快適な状態だった。
尋問になってはいけない、と彼は自分に言い聞かせた。問い詰めたり尋問したりせずに、なおかつ充分に玲子から聞き出さなくてはいけないことがある。息を深く吸い込み、いったんそこで止め、彼は笑顔で彼女を見た。そして息を吐き出し、
「写真をありがとう。それから、絵の写真も」
と、日比谷は言った。
「絵はもらって来たのですって?」
「仕事場に置いてあります。いつも見てますよ」
「なにか発見はあったかしら」
彼女の質問に日比谷は首をかしげた。
「いい絵だということは、ますますよくわかって来ました。人物画の傑作、と言ってもいいです。本の表紙に使いたいほどの気持ちになってます」
「美代子についての本の?」
「もし本を書くとしたら。なにかまったく別の本の表紙でもいい」
「いまどんな本を書いてらっしゃるの?」
「日本の国家予算について。国家予算とはなにか。それはいまどんな状態にあるのか。ということをわかりやすく具体的に解きあかすと、国家とはなにか、そしてそのなかに生きているこの自分とはなにか、ということにまで話は緊密につながっていきます」
玲子は笑った。
「その本の表紙には、ならないわね」
「あの絵を見たくなったら、いつでも」
「うかがうわ」
「高校からはまだ連絡がありません。あの絵を描いた美術の講師についての、文書による連絡」
「どうしたのかしら」
「その講師は当時で何歳くらいの人でしたか」
「四十代後半でしょうね」
「描いた場所、あるいは美代子さんがモデルを務めた場所は、どこだったか聞いてますか」
「知らないわ。美術の絵屋ではないかしら。本職の画家がうらやむほどの、いいアトリエがあるのよ」
「そこにはもちろんトップライトはあるでしょうね」
「あります」
「早くその画家に会いたい」
「高校の事務に催促してみましょうか」
店の店主がワインを持ってふたりの席へ来た。そのワインを店主は日比谷と玲子に見せた。そして料理を説明した。魅力的に聞こえるいくつかの料理のなかから、ふたりはそれぞれに選んだ。後藤美代子の自宅を訪ね、両親と会って話をし、夕食をともにしたことについて、日比谷は玲子に語った。アシスタントに選んだ高村恵子についても彼は説明した。
「近いうちに高村さんに会ってください」
「楽しみだわ」
「高村さんは料理のプロでもあって、美代子さんのお母さんとは相性がいいようです」
「お母さんのお料理は私も何度か食べてます」
「後藤さんが中野さんに会いたいと言っていました。もっとなにか知ってるはずだと問い詰めて泣かせたことを、謝りたいそうです」
「謝っていただいたのよ。たいへん丁寧なお手紙も、すぐあとに頂いたし」
「よかったら、近いうちに、後藤さんの自宅に集まりませんか。高村さんにもそこで紹介出来るし」
「夕食を食べないと、百合子お母さんは帰してくれないわよ」
「食べましょう。いい料理ですよ」
と言った日比谷は、ふと思いついて次のようにつけ加えた。
「美代子さんのお母さんは、この店を知っているだろうか。料理の好きな人にとっては、この店はたいへんに魅力的なはずですよ」
日比谷の言葉を受けとめて彼女は考えた。その様子を見ながら、これは中野玲子が即答しない珍しい場合のひとつだ、と日比谷は思った。考えるとは、いまの場合は、論理の筋道をたどることだ。自分の知っている後藤美代子が、この店について母親に語るかどうか、美代子の論理に沿って判断をしてみることだ。
「ご存じないのではないかしら」
という言いかたで、彼女は答えた。
「美代子がいなくなった日に、私は彼女といっしょにここへ来てますから、その関連で私からこの店の名が何度も話に出ました。でも、美代子がお母さんにこの店について熱心に語り、たとえばお母さんを連れて来たということはなかったと思うの。そんな話、一度も聞いたことがないですし。もしあれば、私との話のなかにかならず出て来るはずですから」
「勤めていた新聞社から、中野さんが美代子さんと待ち合わせをしたあの喫茶店まで、歩いて七分か八分です。さっき僕も歩いてみました。そしてあの店でコーヒーを飲んだのです。当日の美代子さんは九時に出勤して五時に社を出ています。中野さんとの待ち合わせが六時三十分でしたから、単純に引き算すると、美代子さんが社を出てから中野さんと落ち合うまでに、一時間三十分もあります」
そこまで説明した日比谷は、尋問になることだけは避けなくてはいけないと思いつつ、
「この一時間三十分について、中野さんはなにか知ってますか」
と、訊いた。
中野玲子はきわめて魅力的に首を振った。
「なにも知りません」
というのが、彼女の答えだった。
「美代子さんが五時に会社を出たことは、知ってましたか」
「美代子のお父さんから聞いたわ。美代子は五時に社を出てる。あなたと待ち合わせたのは六時三十分だ。一時間三十分、娘がどこでなにをしてたか、あなたこそ知ってるはずだ、と私は言われました。なにも知りませんとお答えしてたら、あなたはなにか隠してると言われてしまって」
「そして中野さんは泣いたのでしたね」
「泣きました」
「なにか隠してる、とまで言われなければならない理由は、思い当たりますか」
「いなくなって三日めのことですから、混乱なさってたのね。ずいぶん苛立っていました。気持ちはよくわかるわ」