← Library‹ 道順は彼女に訊く 第九章 それまでの一時間三十分

喫茶きっさ店てんを出でて日比谷ひびやは腕うで時計とけいを見みた。銀座ぎんざまで歩あるいた。中央ちゅうおう通とおりを四よん丁目ちょうめの交差こうさ点てんに向むかい、夕方ゆうがたの交差こうさ点てんを人々ひとびととともに越こえ、さらに京橋きょうばしに向むけて歩あるいた。七なな時じちょうどに、ラ・シャンブル・ノワールのある建物たてものに入はいった。

店みせに入はいると女じょ主人しゅじんが笑顔えがおで迎むかえてくれた。大おおきな身みぶりで彼女かのじょは店みせの奥おくを示しめした。奥おくのテーブルに中野なかの玲子れいこがひとりでいた。ただ単たんに美人びじんで魅力みりょく的てきであるというだけではなく、美うつくしさや魅力みりょくが力ちからとして外そとに向むけて放はなたれている様子ようすを、日比谷ひびやは受うけとめた。その力ちからに牽引けんいんされて、いま自分じぶんは彼女かのじょに向むけて歩あるいている、などと彼かれは思おもってみた。差さし向むかいにすわった日比谷ひびやは、彼女かのじょから自分じぶんに向むけて発散はっさんされる魅力みりょくという力ちからの有効ゆうこう半径はんけいのなかに、自分じぶんが完全かんぜんに取とり込こまれるのを感かんじた。そしてそれは快適かいてきな状態じょうたいだった。

尋問じんもんになってはいけない、と彼かれは自分じぶんに言いい聞きかせた。問とい詰つめたり尋問じんもんしたりせずに、なおかつ充分じゅうぶんに玲子れいこから聞きき出ださなくてはいけないことがある。息いきを深ふかく吸すい込こみ、いったんそこで止とめ、彼かれは笑顔えがおで彼女かのじょを見みた。そして息いきを吐はき出だし、

「写真しゃしんをありがとう。それから、絵えの写真しゃしんも」

と、日比谷ひびやは言いった。

「絵えはもらって来きたのですって?」

「仕事場しごとばに置おいてあります。いつも見みてますよ」

「なにか発見はっけんはあったかしら」

彼女かのじょの質問しつもんに日比谷ひびやは首くびをかしげた。

「いい絵えだということは、ますますよくわかって来きました。人物じんぶつ画がの傑作けっさく、と言いってもいいです。本ほんの表紙ひょうしに使つかいたいほどの気持きもちになってます」

「美代子みよこについての本ほんの?」

「もし本ほんを書かくとしたら。なにかまったく別べつの本ほんの表紙ひょうしでもいい」

「いまどんな本ほんを書かいてらっしゃるの?」

「日本にっぽんの国家こっか予算よさんについて。国家こっか予算よさんとはなにか。それはいまどんな状態じょうたいにあるのか。ということをわかりやすく具体ぐたい的てきに解ときあかすと、国家こっかとはなにか、そしてそのなかに生いきているこの自分じぶんとはなにか、ということにまで話はなしは緊密きんみつにつながっていきます」

玲子れいこは笑わらった。

「その本ほんの表紙ひょうしには、ならないわね」

「あの絵えを見みたくなったら、いつでも」

「うかがうわ」

「高校こうこうからはまだ連絡れんらくがありません。あの絵えを描えがいた美術びじゅつの講師こうしについての、文書ぶんしょによる連絡れんらく」

「どうしたのかしら」

「その講師こうしは当時とうじで何なん歳さいくらいの人ひとでしたか」

「四十よんじゅう代だい後半こうはんでしょうね」

「描えがいた場所ばしょ、あるいは美代子みよこさんがモデルを務つとめた場所ばしょは、どこだったか聞きいてますか」

「知しらないわ。美術びじゅつの絵え屋やではないかしら。本職ほんしょくの画家がかがうらやむほどの、いいアトリエがあるのよ」

「そこにはもちろんトップライトはあるでしょうね」

「あります」

「早はやくその画家がかに会あいたい」

「高校こうこうの事務じむに催促さいそくしてみましょうか」

店みせの店主てんしゅがワインを持もってふたりの席せきへ来きた。そのワインを店主てんしゅは日比谷ひびやと玲子れいこに見みせた。そして料理りょうりを説明せつめいした。魅力みりょく的てきに聞きこえるいくつかの料理りょうりのなかから、ふたりはそれぞれに選えらんだ。後藤ごとう美代子みよこの自宅じたくを訪たずね、両親りょうしんと会あって話はなしをし、夕食ゆうしょくをともにしたことについて、日比谷ひびやは玲子れいこに語かたった。アシスタントに選えらんだ高村こうむら恵子けいこについても彼かれは説明せつめいした。

「近ちかいうちに高村こうむらさんに会あってください」

「楽たのしみだわ」

「高村こうむらさんは料理りょうりのプロでもあって、美代子みよこさんのお母ははさんとは相性あいしょうがいいようです」

「お母ははさんのお料理りょうりは私わたくしも何なん度どか食たべてます」

「後藤ごとうさんが中野なかのさんに会あいたいと言いっていました。もっとなにか知しってるはずだと問とい詰つめて泣なかせたことを、謝あやまりたいそうです」

「謝あやまっていただいたのよ。たいへん丁寧ていねいなお手紙てがみも、すぐあとに頂いただいたし」

「よかったら、近ちかいうちに、後藤ごとうさんの自宅じたくに集あつまりませんか。高村こうむらさんにもそこで紹介しょうかい出来できるし」

「夕食ゆうしょくを食たべないと、百合子ゆりこお母ははさんは帰かえしてくれないわよ」

「食たべましょう。いい料理りょうりですよ」

と言いった日比谷ひびやは、ふと思おもいついて次つぎのようにつけ加くわえた。

「美代子みよこさんのお母ははさんは、この店みせを知しっているだろうか。料理りょうりの好すきな人ひとにとっては、この店みせはたいへんに魅力みりょく的てきなはずですよ」

日比谷ひびやの言葉ことばを受うけとめて彼女かのじょは考かんがえた。その様子ようすを見みながら、これは中野なかの玲子れいこが即答そくとうしない珍めずらしい場合ばあいのひとつだ、と日比谷ひびやは思おもった。考かんがえるとは、いまの場合ばあいは、論理ろんりの筋道すじみちをたどることだ。自分じぶんの知しっている後藤ごとう美代子みよこが、この店みせについて母親ははおやに語かたるかどうか、美代子みよこの論理ろんりに沿そって判断はんだんをしてみることだ。

「ご存ぞんじないのではないかしら」

という言いいかたで、彼女かのじょは答こたえた。

「美代子みよこがいなくなった日ひに、私わたくしは彼女かのじょといっしょにここへ来きてますから、その関連かんれんで私わたくしからこの店みせの名なが何なん度ども話はなしに出でました。でも、美代子みよこがお母ははさんにこの店みせについて熱心ねっしんに語かたり、たとえばお母ははさんを連つれて来きたということはなかったと思おもうの。そんな話はなし、一いち度ども聞きいたことがないですし。もしあれば、私わたくしとの話はなしのなかにかならず出でて来くるはずですから」

「勤つとめていた新聞しんぶん社しゃから、中野なかのさんが美代子みよこさんと待まち合あわせをしたあの喫茶きっさ店てんまで、歩あるいて七なな分ふんか八はち分ふんです。さっき僕ぼくも歩あるいてみました。そしてあの店みせでコーヒーを飲のんだのです。当日とうじつの美代子みよこさんは九きゅう時じに出勤しゅっきんして五ご時じに社しゃを出でています。中野なかのさんとの待まち合あわせが六ろく時じ三十さんじゅう分ふんでしたから、単純たんじゅんに引ひき算ざんすると、美代子みよこさんが社しゃを出でてから中野なかのさんと落おち合あうまでに、一いち時間じかん三十さんじゅう分ふんもあります」

そこまで説明せつめいした日比谷ひびやは、尋問じんもんになることだけは避さけなくてはいけないと思おもいつつ、

「この一いち時間じかん三十さんじゅう分ふんについて、中野なかのさんはなにか知しってますか」

と、訊きいた。

中野なかの玲子れいこはきわめて魅力みりょく的てきに首くびを振ふった。

「なにも知しりません」

というのが、彼女かのじょの答こたえだった。

「美代子みよこさんが五ご時じに会社かいしゃを出でたことは、知しってましたか」

「美代子みよこのお父ちちさんから聞きいたわ。美代子みよこは五ご時じに社しゃを出でてる。あなたと待まち合あわせたのは六ろく時じ三十さんじゅう分ふんだ。一いち時間じかん三十さんじゅう分ふん、娘むすめがどこでなにをしてたか、あなたこそ知しってるはずだ、と私わたくしは言いわれました。なにも知しりませんとお答こたえしてたら、あなたはなにか隠かくしてると言いわれてしまって」

「そして中野なかのさんは泣ないたのでしたね」

「泣なきました」

「なにか隠かくしてる、とまで言いわれなければならない理由りゆうは、思おもい当あたりますか」

「いなくなって三み日かめのことですから、混乱こんらんなさってたのね。ずいぶん苛立いらだっていました。気持きもちはよくわかるわ」

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