次の週の金曜日、島村冬彦がかよっている私立高校は、全校が休みだった。先週に撮影した伊東夏子の写真のプリントを、彼は金曜日にすべてやりなおした。満足出来るものを仕上げた彼は、次の日、土曜日、夏子の自宅へプリントを持っていった。このときも彼は写真機を肩にかけていた。
夏子は在宅だった。庭へ冬彦を招き入れた。居間の外に、広い庭に面して、煉瓦敷きになったスペースがあった。何本かの柱で支えられて、そのスペースのぜんたいにガラスの屋根が平たくあった。大きな窓のように、屋根のぜんたいはいくつもの四角に仕切られていた。両親はいま外出している、と夏子は言った。
煉瓦敷きのスペースに置くためのテーブルと椅子があった。その椅子にふたりは向き合ってすわった。今日も晴れていた。五月の明るい陽が、ガラス越しにふたりに降り注いだ。冬彦が持って来たプリントを、その光のなかで夏子は見た。
「素晴らしい写真だわ」
と言い、何枚ものプリントを彼女は繰り返し観察した。
「私のことが良く撮れているから、そう言うのではないのよ。これは素晴らしい写真よ」
さらに時間をかけて、夏子はプリントを見た。
「いい写真だわ。うまいのね。私としては、まるで映画スターのような気持ちで、この写真ぜんぶにサインをしたくなるわ」
そう言って夏子は笑い、
「今日も写真機を持ってるのね」
と言った。
「撮らせてください」
「撮って」
冬彦は彼女を写真に撮り始めた。たいへんいいモデルだ、と彼は思った。顔や体の造形が美しいだけではなく、写真機に対する反応のしかたが、鋭く正しかった。そして写真に撮ると、伊東夏子という女性は、完全に別の存在となった。現実の夏子をきれいに離れて、写真のなかの夏子として、虚像は独立した。プリントしながら暗室のなかで感じたことを、撮影しながら冬彦は確認した。
テーブルと椅子を陽ざしのなかに持ち出し、直射する光のなかで彼は夏子を写真に撮った。六月になると光はさらに明るい。日本では六月に太陽はもっとも高くなるからだ。六月の光について冬彦は思い、その思いは梅雨の雨につながった。梅雨の雨と夏子。いいのではないか。撮りたい、と彼は思った。場面がいくつか、彼の想像のなかに見えた。
撮影の途中で夏子は家のなかへ入った。丈の高いグラスに氷を加えたカルピスを入れて、彼女は持って来てくれた。彼は椅子にすわってそれを飲んだ。向かい側にいる夏子の視線と声を、陽ざしをフィルターのようにして彼は受けとめた。
「写真を撮るのが、ほんとに好きなのね」
「写真に撮るとどうなるのかを見るのが、好きなのです」
「そのためには、たくさん撮らなくてはいけないわね」
夏子は言った。脚を組みかえると、彼女の白い膝や向こうずねが、陽光を反射させた。
「私を写真に撮ると、どうなるの?」
という夏子の質問に、冬彦は、
「別な物語になります」
と、答えた。
「別の、いくつもの物語です」
冬彦の言いかたは、夏子につうじた。
「現実の私はひとりで、物語もひとつしかないのに」
冬彦がカルピスを飲んでいるあいだに、夏子は家のなかに入り着替えをして来た。服がややあらたまったものになり、髪や化粧も整えなおしてあった。夏子には外出の予定があるのだろうか、と冬彦は思った。
「お出かけですか」
と、彼は聞いてみた。
「いいえ」
夏子が美しく首を振るのとほとんど同時に、玄関のチャイムの鳴る音が、家のなかから聞こえてきた。
「残念だわ」
夏子が言った。
「ピアノの時間。現実の私は、小さな女の子たちの、ピアノの先生なのよ。そして、大学の三年生」
夏子は庭から玄関の前へまわっていった。五歳くらいの女の子とそのお母さんが、玄関に立っていた。夏子と彼女たちは、親しく挨拶を交わした。そして夏子は冬彦に向きなおり、
「写真が出来たらまた見せてね」
と言った。冬彦が持って来たプリントの入っている封筒を掲げ、
「これは、どうもありがとう」
と、夏子はつけ加えた。
夏子と別れたあと、気のすむまで冬彦は歩き、写真を撮った。そして自宅へ帰った。夕食までの時間をフィルムの現像にあて、夕食のあとはプリントをおこなった。露光した印画紙を現像液にひたすと、液の底から印画紙の表面に、夏子という美しい謎がいくつも立ちあらわれた。
小さい女の子たちにピアノを教えている、と夏子は言った。夏子が弾くピアノの音を、一軒おいて隣りに住みながら、これまで一度も聞いたことがない事実について冬彦は思った。
「離れが防音なのよ」
二度めの写真を夏子に進呈したとき、彼女は彼に説明した。
「私のピアノの練習のために、両親が建ててくださったの。音は聞こえないでしょう」
大学へ通いながら、小さな女の子たちに夏子はピアノを教えていた。土曜日には自宅へふたりの女の子が来る。日曜日には相手の家まで教えにいく。大学は三年だから講義は少なく、しかもすべては午後からだ。夏子自身がピアノを習ったのは三歳からで、最初に鍵盤に指を触れて音を出したとき、あ、これは好きだ、と思ったという。
「大人になったら先生になるのがいいかな、と私は思ったの。音楽の先生」
冬彦は三度、そして四度と、夏子を撮影した。夏子も熱心につきあった。写真を撮る撮られるの関係は、ほどなくふたりのあいだで習慣のように定着した。写真のための服や靴を、夏子はさまざまに用意した。髪のスタイルや化粧も数多く試した。服をほんの少し変えることによって、写真のなかの夏子の物語が劇的に変化することに、冬彦は強く惹かれるものを感じた。