← Library‹ 東京青年 謎を記録する、謎を記憶する

一いち年ねん後ごの九きゅう月がつ二十はつ日かは、昨年さくねんとおなじ日ひと、怖こわいほどによく似にていた。早朝そうちょうから完璧かんぺきに晴はれて暑あつかった。真夏まなつにもどったようだった。しかし空気くうきの質しつは、明あきらかに異ことなっていた。真夏まなつの空気くうきのように重おもくはなかった。肌はだに重かさなったままいつまでもじっとそこにあり、次第しだいに湿度しつどを高たかめていくという空気くうきではなかった。今日きょうの空気くうきは、肌はだに触ふれるとすぐに、どこかへいってしまう空気くうきだ。ふと不安ふあんになるほどに、肌はだからの離はなれかたが軽かるかった。

十じゅう九きゅう歳さいになったヨシオは、午前ごぜん中ちゅうはアパートメントの部屋へやで過すごした。午後ごご、鞄かばんを持もって大学だいがくへいった。ノートブックや万まん年ねん筆ひつ、本ほん、着替きがえのトランクスやシャツ、そして歯はブラシやひげ剃そりなど、これさえあれば一いち日にちや二ふた日かはどこにいても間まに合あうだけのものが、鞄かばんのなかには要領ようりょう良よく納おさまっていた。講義こうぎはひとつだけだった。午後ごご四し時じに彼かれは暇ひまになった。四よん時じ三十さんじゅう分ふんに、彼かれは喫茶きっさ店てんエイヴォンへいった。

彼かれのあとを継ついだ女性じょせいの店員てんいんが、彼かれの席せきへ注文ちゅうもんを聞ききに来きた。彼かれとおなじ大学だいがくの教育きょういく学がく部ぶの三さん年ねん生せいだ。六ろく月がつ三十さんじゅう日にちが引ひき継つぎの日ひで、その日ひはヨシオと彼女かのじょがふたりで店員てんいんを勤つとめた。店員てんいんのアルバイトは一いち年ねんで終おわりにしましょう、と直子なおこが言いった。五ご月がつの雨あめの夜よる、店みせの裏うらにある彼女かのじょの自宅じたくの寝室しんしつで、真ま夜中よなか近ちかく、布団ふとんのなかで彼かれと抱だき合あって、直子なおこはそう言いった。

「満まん一いち年ねんで、ちょうどいいわ。アルバイトは、それで区切くぎりにしましょう。とてもいい店員てんいんさんなのよ。でも、このまま続つづけていると、若わかいあなたを喫茶きっさ店てんの主人しゅじんにしてしまいそう」

「仕事しごとは覚おぼえました」

「そう?」

「喫茶きっさ店てんなら経営けいえい出来できます」

「七なな月がつ一日ついたちから、別べつの人ひとにするわ。これから募集ぼしゅうするのよ。これからはずっと女性じょせいがいいと思おもってるの。あなたとおなじ大学だいがくの、地方ちほうから来きている人ひとのアルバイト」

「わかりました」

「女おんなの体からだは覚おぼえた?」

暗くらい寝室しんしつの布団ふとんのなかで、おたがいに体からだと顔かおを触ふれ合あわせている至近しきん距離きょりから、直子なおこが聞きいた。

「この体からだ。あなたを好すきになった女おんなの体からだ。あなたの女おんな。覚おぼえることは、まだたくさんあるのよ」

だからこそ、昨年さくねんの初はじめての日ひからちょうど一いち年ねん後ごの今日きょうも、ヨシオはエイヴォンに来きた。直子なおこがコーヒーと胡瓜きゅうりのサンドイッチを彼かれのテーブルへ持もって来きた。直子なおこは花はな模様もようの半袖はんそでの夏服なつふくを着きていた。薄うすい生地きじを体からだの前まえで合あわせ、体からだの右側みぎがわで共布ともぎれの紐ひもを結むすぶという、簡素かんそな作つくりの服ふくだ。

この時間じかんに彼かれがエイヴォンに来くることの意味いみは、ふたりのあいだではすでに明白めいはくだ。彼かれは閉店へいてんまぎわまで店みせにいる。支払しはらいをするとき、待まっててね、と直子なおこは彼かれに言ゆう。店みせを出でた彼かれは、おもてをひとまわりして、直子なおこの自宅じたくの玄関げんかんまでいく。合鍵あいかぎでドアを開ひらき、彼かれは家いえのなかに入はいる。直子なおこの寝室しんしつの奥おくに、八はち畳じょうほどの広ひろさの部屋へやがある。その部屋へやを直子なおこは模様もよう替かえし、ベッドを置おいた。ベッドで寝ねてみたくなったから、と娘むすめには言いってあると直子なおこは説明せつめいした。ヨシオが泊とまる時ときの部屋へやだ。かたわらに人ひとがいると、直子なおこは寝ねつけない。喫茶きっさ店てんは一日ついたちの営業えいぎょうを終おわる。ウエイトレスは掃除そうじをして帰かえっていく。店みせを閉しめた直子なおこが自宅じたくへ戻もどって来くるのを、ベッドとデスクのある部屋へやで、あるいは居間いまで、ヨシオは待まつ。

喫茶きっさ店てんエイヴォンのなかで、午後ごごの時間じかんはゆっくりと経過けいかしていった。四よん時じ三十さんじゅう分ふんは五ご時じとなり、五ご時じはやがて五ご時じ三十さんじゅう分ふんへと、接近せっきんしていった。ヨシオは直子なおこを観察かんさつした。成熟せいじゅくした美うつくしい造形ぞうけいという外見がいけんのなかに、自信じしんによって微妙びみょうさをきわめた深ふかみというものがあった。それに関かんして、自分じぶんが知しっている部分ぶぶんと知しらない部分ぶぶんとを比較ひかくしようとすると、彼女かのじょを知しれば知しるほどに大おおきくなるまだ知しらない部分ぶぶんに向むけて、自分じぶんがさらに強つよくつき動うごかされていくのを、ヨシオは自覚じかくしていた。そのようにして経過けいかしたこの一いち年ねんについて、ヨシオは何なん度どめとも知しれない復習ふくしゅうをした。

昨年さくねんの六ろく月がつから今年ことしの六ろく月がつまで、直子なおこを中心ちゅうしん軸じくとして、彼かれの一いち年ねんという時間じかんは存在そんざいした。エイヴォンでの店員てんいんの仕事しごとは、その彼かれにとって、生活せいかつの基本きほん的てきリズムとなった。店みせでの仕事しごとは多忙たぼうだった。気楽きらくにコーヒーを飲のむ学生がくせいの数かずが急激きゅうげきに増ふえている、と直子なおこは言いっていた。エイヴォンという喫茶きっさ店てんの売うり上あげは、ささやかなものではあるけれど、開店かいてんしてからずっと上昇じょうしょうを続つづけているという。

その一いち年ねんが過すぎ去さった。六ろく月がつは終おわり、七なな月がつとなった。そして夏休なつやすみがあった。いまはもう九きゅう月がつだ。そして今日きょう、九きゅう月がつ二十はつ日かは、ヨシオと直子なおこのふたりにとって、一いち年ねんめの記念きねん日ひだ。すでに何なん度ども考かんがえ、ノートブックに書かき込こんだことの、今日きょうという日ひにおける復習ふくしゅうをヨシオはひとりで試こころみた。その試こころみのなかで、直子なおこの姿すがたがいま彼かれの視界しかいにあった。

昨年さくねんの今日きょう、あの日ひというものは、彼かれの感覚かんかくのなかに、ぜんたい的てきな感触かんしょくとして記憶きおくされ、残のこっていた。あの日ひの早朝そうちょうからの気温きおんや湿度しつど、そして夕方ゆうがたからの雷鳴らいめいや豪雨ごうう。雨あめが終おわり、午後ごごが急速きゅうそくに消きえて夕方ゆうがたへと交代こうたいし、夕方ゆうがたが深ふかまりきると、そこには秋あきのいちばん初はじめの、静しずかな夜よるがあった。直子なおこを中心ちゅうしんにして始はじまった、いまはまだなにとも言いえないなにごとかは、あの日ひというものの感触かんしょくのぜんたいとともに、決定けってい的てきなスタート地点ちてんとして、彼かれの内部ないぶに固定こていされていた。

そして今日きょうは、それから一いち年ねん後ごの、同一どういつと言いっていいほどによく似にた、九きゅう月がつ二十はつ日かだ。昨年さくねんの今日きょうから今年ことしの今日きょうまでのあいだに、一いち年ねんが経過けいかしている。ヨシオも直子なおこも、今日きょうはともに一いち年ねん後ごの人ひとだ。しかし、今日きょうという日ひの季節きせつ感かんとしての感触かんしょくは、昨年さくねんの今日きょうとおなじだ。重かさなり合あうふたとおりの九きゅう月がつ二十はつ日かのあいだに、もうじき完全かんぜんに消きえようとしている一いち年ねんという時間じかんがある。経過けいかして去さる時間じかんは、記憶きおくとして自分じぶんや直子なおこの内部ないぶに残のこるほかない、とヨシオは考かんがえた。ではその記憶きおくとは、いったいなになのか。

Click a word · hold for the whole sentence 0%