日比谷優子からヨシオ宛てに自宅へ手紙が届いた。ヨシオは何週間も自宅へ帰っていなかった。アパートメントの彼の部屋の郵便受けに、母親がその手紙を入れておいた。郵便受けから取り出し、差出人の名を見たとき、日比谷優子とは誰なのか、しばらくのあいだヨシオにはわからなかった。
そして彼は思い出した。三年前に卒業した私立高校で三年生だったとき、同じクラスにいたふたりの美人のうちのひとりだ。わざわざ人に席を代わってもらって、ヨシオは彼女の左隣りにすわった。授業の途中、ふと思いついては、彼女の美人ぶりを眺めるためだ。
卒業して彼女は就職した。それから二年が経過していた。彼女から手紙が届くのは、久しぶりのことだった。アパートメントの居間のソファにすわって、ヨシオは彼女からの短い手紙を読んだ。
『元気にしてますでしょうか。私は毎日、丸の内の会社に中央線で通勤しています。すでに五件、上司からお見合いの話がありました。この二年間で五件です。すべて断りましたが、これからはそうもいかなくなるような気がします。結婚はまだしたくありません。私の心の視野のなかに、結婚はまだ入って来ていないのです。大学ではどんな勉強をしているのかなと思います。きっと勉強はしてないでしょう。間違っていたら御免なさい。
会いたいと思ってこの手紙を書いています。時間を取ってください。仕事のある日はなにかとせわしないので、日曜日がいいのです。日曜日の午後、下北沢で。都合のいい日と時間を、教えてください。それに私は合わせますから。どこかで待ち合わせるとしたら、その場所もきめて、いっしょに教えてください。私はその時間にそこへいきます。
相談したいことがあるのです。相談の結果によっては、いまの会社を私は辞めることになると思います。そうなる方向へ私はいきたい、ということです。真剣に考えています。どんなことなのか話をしますから、あなたの意見を聞かせてください。もう冬ですね』
アパートメントの居間の、階段のある側の壁の横幅ほぼいっぱいに、木枠のついたコルク・ボードが取りつけてあった。ヨシオがここに住むようになってから取りつけたものだ。紙あるいはそれに類するもののすべてを、彼は押しピンでそのボードに留めておくことにしていた。引出しにしまったり書類箱、あるいはファイルに入れたりする代わりに、彼はここに押しピンで留めていた。どこかにまぎれ込んでなくなることはないし、ボードの前に立って見渡せば、一目瞭然ではないか、というのがヨシオの理屈だった。日比谷優子からの手紙も、彼はそのボードにピンで留めた。
彼はすぐに返事を書き、その日のうちに投函した。次の日曜日の午後の時間を指定し、最初に思いついた喫茶店の名を書き、駅からの略地図を添えた。そしてその日の午後、約束の時間に、彼はその喫茶店へアパートメントの部屋から歩いていった。冬が始まる季節の、曇った日だった。
日比谷優子はすでに来ていた。美人ぶりには磨きがかかっていた。つまり、高校三年生だった頃にくらべると、卒業してからの二年分以上に、彼女はほぼ完全に大人になっていた。カシミアのセーターにウールのスカートをはき、中二階の席に脚を組んですわっていた。きれいにたたんだトレンチ・コートが、かたわらに置いてあった。
彼女とならんですわったヨシオは、テーブルに両肘をついて頬づえをつき、優子の顔を眺めた。しばらくそのままにさせておいた優子は、やがて笑った。
「高校のとき、授業中にあなたはいつもそうしてたでしょう。私のなにを見てたの? 席を代わって私の隣りに移って来たから、私のことが好きなのかな、と私は思ったりもしたのよ。でも、そうでもなかったのね」
「そうでもなくはない」
広がったスカートをはいたウエイトレスが、ふたりの注文を取りに来た。ふたりともコーヒーを注文した。コーヒーはすぐに届いた。いつものとおり、コーヒーは濃く煮詰まって苦く酸っぱく、同時に酸化もしていた。砂糖とクリームがぜひとも必要だった。優子は両方を使い、ヨシオはブラックのまま飲んだ。
高校三年の夏休みが終わり、新しい学期が始まってほどなく、ヨシオは学校からの帰り道に、駅で日比谷優子といっしょになった。帰る方向は、おなじ電車でおなじ方向だった。空いた電車に乗り、席にすわって、ふたりは話をした。なにかのきっかけで、話は母親のことになった。
優子が二歳のときに母親を亡くしていることを、そのときヨシオは初めて知った。母親を自分はほとんどなにも記憶していないが、母親の記憶は自分にもあるのだという思いを、自分で自分に強制していることについて、まず優子は語った。強制はしているけれど、では母親のなにを記憶しているのかというと、優子に母の記憶はなにひとつなかった。顔も知らない。思い浮かべるための努力をすると、写真機のファインダー越しに見て焦点が合う寸前のように、ぼんやりと曖昧にしか、母親の顔は浮かばないのだと優子は言った。
鞄から手帳を取り出した優子は、はさんであった一枚の黒白の写真をヨシオに見せた。これが私の母親、と優子は言った。おそらく初夏の晴れた日だろう、家の門を入って玄関まで続いている飛び石のようなところに、白いワンピースを端正に着こなした、若くたいへんにきれいな女性の全身が、そのプリントのなかにとらえられていた。自分に向けられているカメラのレンズをまっすぐに見て、その女性は華やかに微笑していた。
そのときヨシオは、たまたま八倍のルーペを持っていた。それを取り出し、ルーペ越しに彼は写真のなかの優子の母を観察した。黒白のプリントという二次元に凝縮してとらえてある空間のなかへ、ルーペを介して片方の目だけで入っていくことを、ヨシオは優子に教えた。そしてそのルーペは彼女に進呈した。
「髪と耳とのあいだにある微妙な空間へ、ふと入っていける。頬から首へ、そして肩へ。その肩をふと越えると、彼女の背後にある空間へ、まわり込めるような気がする」
ヨシオの説明を聞いて、優子はひとしきりルーペで母親の写真を観察した。