← Library‹ 東京青年 可能性という謎 5

唐津からつの実家じっかで、中原なかはら順子じゅんこの両親りょうしんは健在けんざいだった。ただし母親ははおやは、話はなしを聞きき出だす相手あいてとしては、心こころもとなかった。体からだは健康けんこうそうなのだが、ヨシオを順子じゅんこの夫おっとだと思おもったり、息子むすこだと思おもったりした。順子じゅんこの娘むすめの優子ゆうこの、高校こうこうでの同級どうきゅう生せいだと説明せつめいしなおすと、ああ、そうですかと返事へんじをしながら、今度こんどはヨシオを優子ゆうこの夫おっとや息子むすこと取とり違ちがえた。

中原なかはら順子じゅんこの父親ちちおやは、豊ゆたかな農家のうかの長男ちょうなんだった。田畑たはたは昔むかしから大勢おおぜいの人ひとに貸かし、家賃やちんの取とれる家いえも多おおく所有しょゆうしていた。それらの収入しゅうにゅうを合あわせると、一家いっかは充分じゅうぶんに生活せいかつしていくことが出来できた。だから中原なかはら順子じゅんこの父親ちちおやは、これまでの人生じんせいのなかで一いち度ども、定職ていしょくについたことがなかった。町まちの名誉めいよ職しょくばかりをいくつも歴任れきにんし、自宅じたくに人ひとを集あつめて集会しゅうかいを開ひらいたり宴会えんかいをしたりするのが、彼かれの仕事しごとだった。農家のうかから嫁とついだ妻つまは、その世話せわ役やくとして日々ひびを過すごして来きた。

中原なかはら順子じゅんこには姉あねと弟おとうとがひとりずついた。警察けいさつ官かんである弟おとうとは、実家じっかからさほど遠とおくないところに、妻つまと子供こどもたちとともに住すんでいた。姉夫めぶ妻つまとその子供こどもたちは、実家じっかの近所きんじょに家いえを持もっていた。姉あねの澄子すみこ、そして父親ちちおやの雄一郎ゆういちろうがヨシオに応対おうたいした。姉あねも父親ちちおやも、中学ちゅうがく生せいのときの優子ゆうこが訪たずねて来きたことを、よく記憶きおくしていた。今度こんどこうして自分じぶんが来きたのは、女優じょゆうになる日比谷ひびや優子ゆうこについて、母親ははおやの代だいからのライフ・ストーリーを書かくためだ、とヨシオは説明せつめいした。雑誌ざっしに載のせたり本ほんにまとめたりするはずです、とヨシオは言いっておいた。

「優子ゆうこさんはお母ははさんの写真しゃしんを探さがしてたのよ」

澄子すみこがヨシオに言いった。

「優子ゆうこさんが中学ちゅうがく生せいのときですね」

「そう。ほんとにしっかりした娘むすめさんで、びっくりしましたよ」

「こちらに残のこっている写真しゃしんは、そのとき優子ゆうこさんがすべて見みましたか」

「私わたくしのとこからも、そして弟おとうとのところからもアルバムを持もって来きて、お母ははさんが写うつっている写真しゃしんはみんな複写ふくしゃしましたよ。アルバムごと町まちの写真しゃしん屋やさんへ持もっていって。私わたくしがいっしょにいったから、よく覚おぼえてます」

「写真しゃしんのほかに、なにか残のこってませんか」

「順子じゅんこが生うまれたのは一いち九きゅう一いち一いち年ねんで、十じゅう五ごのときにはもう博多はかたへいってましたから。生うまれてからの歳月さいげつも、今年ことしでもう五十ごじゅう一いち年ねんでしょう。それに、博多はかたへいってからは、亡なくなるまで唐津からつには一いち度ども帰かえってないし。ずっとここにいたのなら、いろんなものが残のこっているでしょうけれど、いなかった人ひとのものは、なにもないのよ」

「古ふるい手紙てがみとか」

「優子ゆうこさんが来きたとき、私わたくしも弟おとうとも、そういうものはみんなここへ持もって来きて、みんなで見みたのよ。それっきり、いまでも全部ぜんぶここにあると思おもいますよ。押入おしいれのなかに」

屋敷やしきの母屋おもやの奥おくの、なににも使つかっていない部屋へやの押入おしいれへ、澄子すみこはヨシオを案内あんないした。古ふるいさまざまな物ものが、そのなかに雑然ざつぜんと入はいっていた。縁側えんがわへ持もっていって埃ほこりをはたいたりしながら、中原なかはら順子じゅんこのものだと澄子すみこが言いうものを、ヨシオは部屋へやのまんなかで畳たたみにならべてみた。

習字しゅうじの手本てほん帳ちょう。そのなかに折おってはさんである、幼おさない子供こどもの書かいた習字しゅうじ。なかはらじゅんこ、と平仮名ひらがなで名なが書かいてあった。古ふるい教科きょうか書しょ。おなじく古ふるいノート。すっかり色褪あせている紅白こうはくのはちまき。阿蘇あそ山やまの絵葉書えはがきのセット。神社じんじゃのお守まもり札ふだ。おみくじ。学校がっこうの表彰ひょうしょう状じょう。博多はかたにいたときに両親りょうしんに宛あてた葉書はがき。

「葉書はがきが一いち枚まいしかないのねえ。博多はかたからはもっと来きたはずだけれど、なくなるのね。取とってあればそのままずっと取とってあるのだから、なくなったのは当時とうじすぐになくなったのよ。まちがって捨すてたとか、どこかにまぎれ込こんで、そのまま塵ちりとして捨すてたとか」

澄子すみこはそんな説明せつめいを試こころみた。おそらくそのとおりなのだろう、とヨシオは思おもった。

神戸こうべからの葉書はがきは三さん枚まいあった。三さん枚まいとも絵葉書えはがきだった。

「短大たんだいのころでしょう。ほら、差出さしだし人にんの所ところ番地ばんちが三さん枚まいともおなじ。おなじ所ところに住すんでたからですよ。短大たんだいの寮りょう。全寮ぜんりょう制せいだったから。いまでもそうだと思おもいますよ」

三さん枚まいの絵葉書えはがきには、なぜか時候じこうの挨拶あいさつだけが、万まん年ねん筆ひつを使つかって短みじかい文章ぶんしょうでしたためてあった。一いち枚まいだけは澄子すみこに宛あてたものだった。

「だからこれは、私わたくしが自分じぶんの家いえから持もって来きたのですよ。アルバムにはさんで持もって来きたの。手てさげ袋ふくろのなかにアルバムしか入いれなかったのを、いまも覚おぼえてますよ。私わたくしのところには、自分じぶんのアルバムに貼はった写真しゃしんと、こんな葉書はがきしかなかったということね」

東京とうきょうからの葉書はがきが四よん枚まいあった。四よん枚まいとも転居てんきょを伝つたえていた。

「日付ひづけのいちばん新あたらしいのが、亡なくなった当時とうじに住すんでいたアパートからのものでしょう。これね」

澄子すみこは四よん枚まいのなかから一いち枚まいを選えらび出だした。

「葬式そうしきにはいけなかったわ。なにしろあの時代じだいでしょう。いきたくても、汽車きしゃがろくに走はしってなくてね。遺骨いこつはこちらへ戻もどしてもらって、墓はかは代々だいだいの墓地ぼちにありますよ。優子ゆうこさんはお参まいりをしてくれました」

七なな枚まいの葉書はがきを預あずかりたい、とヨシオは言いった。澄子すみこは承諾しょうだくした。優子ゆうこは欲ほしがらなかったのだろうか、とヨシオは思おもった。押入おしいれから出だしたものを押入おしいれにしまうと、すべてはそこで終おわりだった。ことによったら唐津からつに二に、三さん泊はくすることになるかな、ともヨシオは思おもっていた。その必要ひつようはまったくなかった。

中原なかはら順子じゅんこが通かよった学校がっこうへ、澄子すみこはヨシオを連つれていった。校舎こうしゃも校庭こうていも、そして周囲しゅういの景色けしきも、昔むかしとほとんど変かわっていない、と澄子すみこは説明せつめいした。お寺てら、よく遊あそんだ川かわ、通学つうがく路ろなどを、澄子すみこはヨシオに見みせた。それもすぐに終おわり、バスの停留ていりゅう所しょまで歩あるいてヨシオはバスを待まった。ともに待まちながら、

「神戸こうべや大阪おおさかそして名古屋なごやにも順子じゅんこはいたのですけれど、住すんでいたのがどこだったのかは、もうわからないわねえ」

などと澄子すみこは言いった。澄子すみことはそこで別わかれた。バスに乗のってヨシオは国鉄こくてつの駅えきへいき、博多はかたへいく汽車きしゃの切符きっぷを買かった。

博多はかたでは、順子じゅんこが通かよった学校がっこうを、ヨシオは見みておいた。戦後せんごになって名称めいしょうが変かわったということだった。汽車きしゃの時間じかんの都合つごうもあり、彼かれは校舎こうしゃを眺ながめるだけにした。神戸こうべまでの汽車きしゃの旅たびは存分ぞんぶんに長ながかったが、彼かれは退屈たいくつはしなかった。席せきにすわって窓枠まどわくに腕うでを置おき、その上うえに顎あごを載のせて外そとの景色けしきを見みていると、飽あきることはなかった。停車ていしゃ駅えきがほどよいアクセントとして機能きのうした。

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