唐津の実家で、中原順子の両親は健在だった。ただし母親は、話を聞き出す相手としては、心もとなかった。体は健康そうなのだが、ヨシオを順子の夫だと思ったり、息子だと思ったりした。順子の娘の優子の、高校での同級生だと説明しなおすと、ああ、そうですかと返事をしながら、今度はヨシオを優子の夫や息子と取り違えた。
中原順子の父親は、豊かな農家の長男だった。田畑は昔から大勢の人に貸し、家賃の取れる家も多く所有していた。それらの収入を合わせると、一家は充分に生活していくことが出来た。だから中原順子の父親は、これまでの人生のなかで一度も、定職についたことがなかった。町の名誉職ばかりをいくつも歴任し、自宅に人を集めて集会を開いたり宴会をしたりするのが、彼の仕事だった。農家から嫁いだ妻は、その世話役として日々を過ごして来た。
中原順子には姉と弟がひとりずついた。警察官である弟は、実家からさほど遠くないところに、妻と子供たちとともに住んでいた。姉夫妻とその子供たちは、実家の近所に家を持っていた。姉の澄子、そして父親の雄一郎がヨシオに応対した。姉も父親も、中学生のときの優子が訪ねて来たことを、よく記憶していた。今度こうして自分が来たのは、女優になる日比谷優子について、母親の代からのライフ・ストーリーを書くためだ、とヨシオは説明した。雑誌に載せたり本にまとめたりするはずです、とヨシオは言っておいた。
「優子さんはお母さんの写真を探してたのよ」
澄子がヨシオに言った。
「優子さんが中学生のときですね」
「そう。ほんとにしっかりした娘さんで、びっくりしましたよ」
「こちらに残っている写真は、そのとき優子さんがすべて見ましたか」
「私のとこからも、そして弟のところからもアルバムを持って来て、お母さんが写っている写真はみんな複写しましたよ。アルバムごと町の写真屋さんへ持っていって。私がいっしょにいったから、よく覚えてます」
「写真のほかに、なにか残ってませんか」
「順子が生まれたのは一九一一年で、十五のときにはもう博多へいってましたから。生まれてからの歳月も、今年でもう五十一年でしょう。それに、博多へいってからは、亡くなるまで唐津には一度も帰ってないし。ずっとここにいたのなら、いろんなものが残っているでしょうけれど、いなかった人のものは、なにもないのよ」
「古い手紙とか」
「優子さんが来たとき、私も弟も、そういうものはみんなここへ持って来て、みんなで見たのよ。それっきり、いまでも全部ここにあると思いますよ。押入れのなかに」
屋敷の母屋の奥の、なににも使っていない部屋の押入れへ、澄子はヨシオを案内した。古いさまざまな物が、そのなかに雑然と入っていた。縁側へ持っていって埃をはたいたりしながら、中原順子のものだと澄子が言うものを、ヨシオは部屋のまんなかで畳にならべてみた。
習字の手本帳。そのなかに折ってはさんである、幼い子供の書いた習字。なかはらじゅんこ、と平仮名で名が書いてあった。古い教科書。おなじく古いノート。すっかり色褪せている紅白のはちまき。阿蘇山の絵葉書のセット。神社のお守り札。おみくじ。学校の表彰状。博多にいたときに両親に宛てた葉書。
「葉書が一枚しかないのねえ。博多からはもっと来たはずだけれど、なくなるのね。取ってあればそのままずっと取ってあるのだから、なくなったのは当時すぐになくなったのよ。まちがって捨てたとか、どこかにまぎれ込んで、そのまま塵として捨てたとか」
澄子はそんな説明を試みた。おそらくそのとおりなのだろう、とヨシオは思った。
神戸からの葉書は三枚あった。三枚とも絵葉書だった。
「短大のころでしょう。ほら、差出人の所番地が三枚ともおなじ。おなじ所に住んでたからですよ。短大の寮。全寮制だったから。いまでもそうだと思いますよ」
三枚の絵葉書には、なぜか時候の挨拶だけが、万年筆を使って短い文章でしたためてあった。一枚だけは澄子に宛てたものだった。
「だからこれは、私が自分の家から持って来たのですよ。アルバムにはさんで持って来たの。手さげ袋のなかにアルバムしか入れなかったのを、いまも覚えてますよ。私のところには、自分のアルバムに貼った写真と、こんな葉書しかなかったということね」
東京からの葉書が四枚あった。四枚とも転居を伝えていた。
「日付のいちばん新しいのが、亡くなった当時に住んでいたアパートからのものでしょう。これね」
澄子は四枚のなかから一枚を選び出した。
「葬式にはいけなかったわ。なにしろあの時代でしょう。いきたくても、汽車がろくに走ってなくてね。遺骨はこちらへ戻してもらって、墓は代々の墓地にありますよ。優子さんはお参りをしてくれました」
七枚の葉書を預かりたい、とヨシオは言った。澄子は承諾した。優子は欲しがらなかったのだろうか、とヨシオは思った。押入れから出したものを押入れにしまうと、すべてはそこで終わりだった。ことによったら唐津に二、三泊することになるかな、ともヨシオは思っていた。その必要はまったくなかった。
中原順子が通った学校へ、澄子はヨシオを連れていった。校舎も校庭も、そして周囲の景色も、昔とほとんど変わっていない、と澄子は説明した。お寺、よく遊んだ川、通学路などを、澄子はヨシオに見せた。それもすぐに終わり、バスの停留所まで歩いてヨシオはバスを待った。ともに待ちながら、
「神戸や大阪そして名古屋にも順子はいたのですけれど、住んでいたのがどこだったのかは、もうわからないわねえ」
などと澄子は言った。澄子とはそこで別れた。バスに乗ってヨシオは国鉄の駅へいき、博多へいく汽車の切符を買った。
博多では、順子が通った学校を、ヨシオは見ておいた。戦後になって名称が変わったということだった。汽車の時間の都合もあり、彼は校舎を眺めるだけにした。神戸までの汽車の旅は存分に長かったが、彼は退屈はしなかった。席にすわって窓枠に腕を置き、その上に顎を載せて外の景色を見ていると、飽きることはなかった。停車駅がほどよいアクセントとして機能した。