京都でのロケーション撮影の日程は、四月の第四週の月曜日から次の週の月曜日まで、と確定した。日比谷優子は金曜日だけ丸一日、撮影がなかった。したがってその意味で、優子は金曜日を休みにすることが出来た。三月の最後の日、夜遅く、ひとりでアパートメントへ帰って来た優子は、ヨシオの部屋へ来た。居間のソファにすわって、優子は日程をヨシオに教えた。それを彼はノートブックに書き込んだ。
「来てね」
「いくよ」
「冬彦くんには伝わってます。来てくれるそうよ。あなたも彼といっしょに来てもいいわね。でも彼は、写真の撮影があるから、たいへんだわ」
二十一歳の女優、日比谷優子をめぐって、ロケーション撮影現場での彼女というものを、可能なかぎり写真に撮っておくということを、ヨシオは思いついた。島村に提案し、島村は熱意を示した。主演第一作の制作過程の全体のなかに優子を追って彼が撮った大量の写真は、島村が思っていたよりもはるかに興味深いものとなった。島村の熱意は、その当然の延長線上にあった。
「私の専属みたいだから、彼はとても忙しいの。私以外の写真も撮らなければならないし、大学へもいくし」
「僕はどうにでもなる」
とヨシオは言った。
「私と冬彦くんとは、京都からいっしょに神戸へいくことになると思うわ」
「僕は東京から直行する」
「前日に到着して、神戸に一泊かしら」
「成り行きでいいよ」
「汽車を選んで」
向かい側の壁の本棚に時刻表があった。それを持って来て、ヨシオは優子とともに汽車を選んだ。
「午前中に現場に着いていたいわね。午前十時、あるいは遅くとも十一時」
という優子の希望から逆算して、もっとも都合のいい特急を一本、彼らは選び出した。列車名、発車時刻、そして到着時刻などを、優子は手帳に写した。
「冬彦くんにも教えておいて」
「そうする」
「宿泊の手配は?」
「神戸に着いてから旅館を探すよ」
「それでいいの?」
「短大の銅像の前で、午前十時に会おう」
一泊を間にはさんで神戸まで往復するという小さな旅行のための資金を、ヨシオは父親から借りた。父親は彼に借用書を書かせた。選んだ特急とその時間を、ヨシオは冬彦に伝えた。伊東夏子もいくことになった、と冬彦は折り返しヨシオに連絡した。ふたりの旅費を夏子が貸してくれることになった。だからヨシオは、父親から借りた現金を返却した。借用書はアパートメントの彼の部屋の郵便受けに、次の日、入れてあった。
伊東夏子とともに、東京駅から、ヨシオは特急に乗った。子供の頃からおたがいに近所の顔見知りであり、この三、四年は島村冬彦を介してさらに距離の近くなった夏子だ。一点の非の打ちどころなく完成された大人の女性、という印象をヨシオは夏子に対して持った。
伊東夏子は京都で降りた。優子の撮影現場で、夏子は島村冬彦と合流する予定だ。夜、ヨシオは神戸に到着した。夕食をすませ、手頃そうに見える旅館を見つけ、そこに泊まることにした。二階の廊下の端にある小さな部屋だった。いったんそこに入ってから、ヨシオは外出した。銭湯を探して風呂に入り、コーヒー牛乳を買って飲み、旅館へ戻った。部屋へ上がる階段の踊り場に、浴衣を着た若い女性がひとり、自分自身を持てあました風情の崩れた姿勢で、立っていた。諦めた結果のような暗い表情で、彼女はヨシオを見た。かたわらをとおり過ぎようとするヨシオを、
「ねえ」
と、彼女は呼び止めた。
立ちどまった彼に、
「いくつ?」
と、彼女は聞いた。
「なにがですか」
「歳」
「二十一歳です」
「私もここに泊まってるのよ」
そう言った彼女は、品定めをするときの視線でヨシオを見た。
「坊やなの?」
と、彼女は聞いた。ヨシオにはその意味がわからなかった。だから彼は、
「最近まで学生でした」
と答えてみた。
「今夜の部屋代を払ってくれるなら、ショートで抱かれてあげる。ショートと言っても、二時間くらい」
彼女の言葉にヨシオは首を振った。
「そんなおかねは持っていません」
「部屋代だけでいいのよ」
「持ってません」
「どこから来たの?」
「東京からです」
「だったら、持ってるはずよ」
「汽車で来て、明日は明石の友人のところへいきます。そしてそこで職を世話してもらう予定です。汽車賃はその友人からの借金です」
「ほんと?」
と聞き返しつつ、彼女は半分は信じていた。というよりも、早くも半分は諦めていた。
ヨシオは二階へ上がり、部屋に入った。布団を敷いてそこに腹ばいとなり、ノートブックに今日の書き込みをおこなった。それを終え、持って来た寝巻に着替え、明かりを消して布団に入った。
眠りに落ちていこうとする頃、外の廊下との仕切りである襖が、ゆっくりと開いた。襖の内側は畳二枚ほどの広さの板の間だ。細長いそのスペースの片方には窓があり、窓の下には手を洗うための小さなシンクが取り付けてあった。反対側は造りつけの鏡台のようになっていた。その板張りのスペースの内側にもう一枚、襖があった。その襖も、静かに開いた。
「ねえ」
女性の声が言った。先ほど階段の途中でヨシオに声をかけた女性だった。
「寝たの?」
「なんですか」
「部屋代だけでいいから」
「ないですよ」
「ほんとなの?」
「明石までの電車賃しかありません。部屋代は前払いを求められましたから」
ヨシオの返答を受けとめ、しばらく考えてから、彼女は言った。
「だったら電車に乗せてもらえばいいわ。それっぽっちでは、私は乗せないから」
開いたときとおなじように、なぜだか静かに二枚の襖を閉じて、彼女は廊下を奥へ歩き去った。ふたたび眠りへと落ちていきながら、彼女は夜中に盗みに来るのではないか、とヨシオは思った。財布は布団の頭の下にでも入れておくといい、などと思いつつヨシオは眠った。
次の朝、財布は彼のスラックスのポケットのなかに無事だった。旅館を出た彼は、町の食堂でやや遅い朝食を食べ、電車を乗り継いであの女子短大に向かった。電車、そしてその窓から見る景色は、三月に彼が体験したものと、まったくおなじだった。四月の終わりの快晴の日、午前十時前の陽ざしのなかに、彼の記憶しているとおりに、女子短大の木造の校舎と門があった。