← Library‹ 東京青年 あとがき

この小説しょうせつが一いち九きゅう九きゅう六ろく年ねんに単行たんこう本ほんで刊行かんこうされたときにジャケットに使つかった写真しゃしんを、今回こんかいのこの文庫ぶんこ本ほんでもジャケットに使つかうことが出来できた。まったく同一どういつの写真しゃしんではないが、おなじ被写ひしゃ体たいをおなじように撮とったものだ。僕ぼくはこの写真しゃしんを気きに入はいっている。一いち九きゅう五ご〇れい年ねん代だいのおそらく前半ぜんはん、アメリカのごく一般いっぱん的てきな雑誌ざっしに掲載けいさいされたファッション写真しゃしんから、僕ぼくが五十ごじゅうミリのマクロ・レンズを使つかって複写ふくしゃした。

掲載けいさいされていたのは全身ぜんしん像ぞうだった。当時とうじのアメリカで最さい先端せんたんだったはずの女性じょせいファッションを身みにつけてポーズをとった、ひとりのモデルの全身ぜんしん像ぞうだ。その写真しゃしんを僕ぼくは一いち眼がんレフのファインダー視野しやでいろんなふうにトリミングしながら、複写ふくしゃ遊あそびをした。白黒しろくろの印刷いんさつ物ぶつの複写ふくしゃに僕ぼくはカラーのリバーサル・フィルムを使つかう。たくさん撮とったなかでいちばん良よかったのが、今回こんかいもジャケットに使つかったこの写真しゃしんだ。なぜこの写真しゃしんがいちばん良よかったのか。このように作つくり上あげられた若わかい女性じょせいの足あしもとという光景こうけいは、普遍ふへんに到達とうたつしていると言いっていいほどの出来できばえのいくつかの要素ようそによって、構成こうせいされているからだ。

見みるからに歩あるきにくそうな靴くつ、そしてスカートではないか、なぜこれが普遍ふへんなのか、という意見いけんもあるだろう。普遍ふへんという言葉ことばの、ここで僕ぼくが使つかうにあたっての意味いみを、僕ぼくは説明せつめいしておかなくてはいけない。架空かくうの物語ものがたりのなかに、一定いっていの役割やくわりをあたえられて登場とうじょうし、その役割やくわりどおりに機能きのうする女性じょせいの登場とうじょう人物じんぶつを、この一いち葉ようの写真しゃしんから、僕ぼくは少すくなくとも何なん人にんかは作つくり出だすことが出来できる、というような意味いみで僕ぼくは普遍ふへんという言葉ことばを使つかっている。

『東京とうきょう青年せいねん』というこの小説しょうせつの内容ないようを、他たの小説しょうせつとおなじく、僕ぼくはゼロから考かんがえて作つくった。まったくなにもないところに、ある日ひふと、考かんがえていくための小ちいさな足場あしばがひとつ、生うまれる。物語ものがたりの背景はいけいとなる時代じだいを、三、四十さんよんじゅう年ねんほど以前いぜんの東京とうきょうに設定せっていしよう、というような思おもいつきが、小ちいさな足場あしば作つくりの発端ほったんとなった。一いち九きゅう九きゅう六ろく年ねんを背景はいけいにして小説しょうせつを書かくことなど、とても馬鹿馬鹿ばかばかしくて出来できない、と思おもったからだ。この思おもいはいまでも続つづいている。

主人しゅじん公こうとなるべき青年せいねんは、一いち九きゅう五ご七しち年ねんには十じゅう七なな歳さい、そして一いち九きゅう六ろく〇れい年ねんには二十にじゅう歳さいというふうに、思おもいつきはやがていま少すこし具体ぐたい的てきになっていく。年号ねんごうと年齢ねんれいがうまく重かさなり、照合しょうごうするのがたやすい。この青年せいねんがさらに二十にじゅう二に歳さい、二十にじゅう三さん歳さいとなっていくあたりまでを背景はいけいにしよう、などと思おもう。東京とうきょうオリンピックのちょっと手前てまえまでだ。一いち九きゅう五ご七しち年ねんには十じゅう七なな歳さいの少年しょうねん、そして一いち九きゅう六ろく〇れい年ねんには二十にじゅう歳さいの青年せいねんという、ひとまずただそれだけではあるけれど、ひとりの男性だんせいが僕ぼくの頭あたまのなかの小ちいさな足場あしばの上うえに立たった。

ジャケットの写真しゃしんを複写ふくしゃしたのは、ちょうどその頃ころだったと思おもう。いちばん気きにいった足あしもとの写真しゃしんをプリントしてみた。表紙ひょうしに使つかえる、とはさすがにそのときはまだ思おもわなかったが、節子せつこ、直子なおこ、夏子なつこ、優子ゆうこ、そして順子じゅんこという五ご人にんの女性じょせいたちを、この足あしもとの写真しゃしんから僕ぼくは作つくり出だした。

十じゅう七なな歳さいの少年しょうねんであれ、それから三さん年ねん後ごの二十にじゅう歳さいの青年せいねんであれ、あの時代じだいのひとりの若わかい男性だんせいにとって、容姿ようしにおいて膝ひざから下したがこれほどの出来できばえである女性じょせいは、当然とうぜんのこととしてまず年上としうえではないか。少すこしだけ年上としうえである節子せつこと夏子なつこを僕ぼくはまず作つくり、続つづいて二十にじゅう歳さい以上いじょうも年上としうえの直子なおこを引ひき出だしたのち、高校こうこうの同級どうきゅう生せいであるおなじ年齢ねんれいの優子ゆうこを、そして時代じだい的てきにはかなりさかのぼるけれども、優子ゆうこの母親ははおやである順子じゅんこも、おなじ一いち葉ようの写真しゃしんから、少すくなくとも彼女かのじょたちの基本きほんは、発想はっそうした。

十じゅう七なな歳さいから二十にじゅう二に、三さん歳さいまでの期間きかんに、ひとりの東京とうきょう青年せいねんが五ご人にんの女性じょせいを引ひき受うけるのは、いくらフィクションとは言いえ無理むりがある。折おりにふれてなおも写真しゃしんを眺ながめると、やがてこの五ご人にんの女性じょせいの割わり振ふりが見みえてきた。節子せつこは途中とちゅうで退場たいじょうする。主人しゅじん公こうの親友しんゆうとして冬彦ふゆひこという男性だんせいを作つくり、夏子なつこは彼かれの相手あいて役やくとする。女優じょゆうになる優子ゆうこは、彼かれらふたりからほぼ等ひとしい距離きょりをとって、やや脇わきにいる。そして順子じゅんこは、いまはすでにこの世よにはいない人ひとだ。

こうして四よん人にんがそれぞれの場所ばしょを得えたあとに、直子なおこが残のこった。残のこったとはつまり、彼女かのじょの役やくがもっとも大おおきい、ということにほかならない。彼女かのじょをいちばん年上としうえの女性じょせいにすればいい。この写真しゃしんの女性じょせいは直子なおこである、と思おもいながらさらに写真しゃしんを観察かんさつしていくと、やがてひとつ思おもいつく。このスカートにこのハイヒールで彼女かのじょがいつも歩あるくのは、板張いたばりのフロアが好このましいのではないか、というアイディアだ。このアイディアを延長えんちょうさせていくと、彼女かのじょが店長てんちょうである板張いたばりのフロアの喫茶きっさ店てん、という場所ばしょが浮うかんでくる。

『東京とうきょう青年せいねん』という物語ものがたりのすべてがこの写真しゃしんのなかにある、とまでは言いい切きれないものの、かなりのところまでがこの写真しゃしんにあらかじめ内蔵ないぞうされていた、とは言いっていい。じつに不思議ふしぎな写真しゃしんだ。手てに取とって眺ながめていると、あるときふと僕ぼくの頭あたまのなかにアイディアを転送てんそうしてくれる、魔法まほうのような記憶きおく媒体ばいたいなのではないか。

片岡かたおか義男よしお

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