梅雨のあいだに高木節子は引っ越しをした。部屋はすぐに見つかった。勤めている美容院からは歩いて五分、そしてヨシオの自宅からなら三分とかからない場所だ。下北沢の駅から見て南西の方向に、高台になった住宅地があった。その高台の南の縁は、高台を作っている急なスロープだ。そのスロープの坂道を上がりきり、脇道へ入って少しだけいくと、高台の縁に沿って、なににも使われていない空き地がかなり広くあった。その空き地のまんなかに、南に面して斜めに、二階建てのアパートメントがあった。
どの部屋も二階式で、八世帯あった。アパートメントの部屋を探している人がいることを、ヨシオは父親に伝えた。父親は不動産業を営む友人に話を伝えた。そのアパートメントに空いている部屋がふたつあった。友人から託されたそのふたつの部屋の鍵を、ヨシオの父親はヨシオに渡した。だからヨシオが、そのアパートメントへ節子を案内した。節子は部屋を気にいった。西の端の部屋にきめ、ヨシオの父親の友人の事務所を訪ね、賃貸の契約をした。
それまで住んでいた京王線の明大前から、節子は引っ越して来た。かつて働いていたヨシオの高校のパン店も、節子の遠い親戚の人が経営していた。節子の引っ越しの日、学校へいくために駅へ向かう途中、ヨシオはアパートメントへ寄ってみた。パン店の小さなトラックが到着していて、荷台からはすでに荷物はすべて降ろされていた。
開いたままのドアからなかを見ると、節子が一階で荷物を整理していた。スラックスをはいてシャツの袖を肘の上までまくり、髪は大判のハンカチで覆っていた。
「ほんのちょっとの荷物なのよ」
と、節子は笑って言った。
「でも、一週間や十日は、落ちつかないわ。お店は水曜日が定休なの。その他に、週のうちもう一日、交代で休めるのよ。再来週の水曜日に、遊びに来て。お招きします。カルピス一杯でも、お招きはお招きよ」
だから二週後の水曜日、昼食を自宅で食べたあと、ヨシオは節子の部屋へいってみた。今日から梅雨明けだと誰もが思うような、快晴の夏の日だった。気温の高さのなかに風が心地良く吹いていた。節子は部屋にいた。淡い水色のショート・パンツに、たいへん薄い黄色のフレンチ・スリーヴのシャツを着て、花模様のハンカチで髪をうしろに束ねていた。
「あら、どうしたの?」
招き入れながら、節子は言った。
「夕方に来ると思ってたのに。学校は?」
「創立記念日で、休みです」
「まあ。記念日にこそ、お勉強すればいいのに。試験すればいいのに」
「昨日、記念の行事がありました」
「なになの、それは」
「ブラス・バンドの演奏と、クラブ活動で舞踏をしている人たちの踊りの発表と。それから、講演です。男性の講師と女性の講師と、ひとりずつ。舞踏をあいだにはさんで」
「部屋はほとんどかたづいたの。二階が寝室。とても素敵。朝から、あれを動かしたり、これを動かしたり」
そう言いながら節子は奥へ姿を消した。ポーチから玄関のドアを入ると、そこは居間のスペースだ。間取りはそこから奥に向けて縦に長い。居間の奥の、いっぽうの隅に、二階への階段があった。居間を奥へ抜けてその先のスペースに入ると、そこはキチンだ。キチンのさらに奥は、食事のためのスペースだ。キチンおよび食事のためのスペースと廊下をはさんで向き合うかたちで、浴室と洗面、そして南に面して部屋がひとつ、あった。居間はぜんたいが吹き抜けとなっていた。二階から、あるいは二階からの階段を降りながら、居間のぜんたいを見下ろすことが出来た。
カルピスを満たしたグラスをふたつ、小さな盆に載せて、節子は居間に戻って来た。居間の中央に丸い小さなテーブルがあり、椅子がふたつ、そのテーブルに寄せてあった。カルピスの入ったグラスを節子はそのテーブルに置いた。ふたりは差し向かいに椅子にすわった。
「あちらの壁に寄せて、ソファがあるといいのね。そして、ソファの前に低いテーブル。それだけで、ずいぶん楽になるわ。向かい側の壁は、あのままでいいかしら」
節子が示したその壁には、本棚とレコードを再生するための装置が、寄せてあった。本棚にはどの棚にも本がならび、レコードの再生装置はひとかかえほどある縦長の箱だった。スピーカーのグリルやコントロールのつまみ、そしてラジオのダイアルが、正面に見えていた。
「不動産屋さんのおじさまが、先週、訪ねて来てくださったの。住み心地はどうですかって。とても気さくなかた。言葉がときどき英語なの。二世のかたなの?」
「父親の友人で、子供の頃からハワイでいっしょだったそうです」
「あなたのお父さんも、日系二世なのね」
「そうです。子供の頃はハワイで、少年期の終わりからは、ふたりともカリフォルニアです」
「お部屋代は安くしてくださったの。だから私、扇風機を買ったわ。いまは二階に置いてあるの。ここは風がよくとおるのね。扇風機は必要ないほどだけど、なにか新しいものを買いたくて。無駄なものを買わずに、おかねを貯めなくてはいけません、と言われてるの。お店の主人に。これからの時代は女ひとりで生きていく時代なのですって。仕事をして手に職をつけて、同時にお金を貯めて土地を買って、アパートメントを建てるのがいちばんいいと言ってるのよ。お家賃が入るようになって、ようやく一人前ですって。この話は、したかしら」
ふたりはカルピスを飲んだ。椅子を立った節子は、グラスを持ったまま居間を端から端まで歩いた。向こうへ歩いていくときの彼女の、ショート・パンツをはいた姿の良さ、そしてこちらへ戻って来るときの、正面から見る太腿、膝、そして向こうずねのかたちの良さなどを、ヨシオは見た。
「扇風機よりもソファを買うべきだったわね。あちらの壁に三人はすわれるソファを寄せて、その前に低いテーブルを置いて。そのかたわらに、フロア・ランプ。そうすると、このテーブルはいらないのよ。居間のまんなかはなにもないスペースになって、動きやすいわ」
「このテーブルは、どうするのですか」
「キチンの奥の、食事のスペースに置けばいいのよ。食卓」