九月第一週の晴れた静かな日、下北沢の午後三時過ぎは、明るくて人が少なかった。駅の南口からの商店街の道を、ヨシオは島村冬彦という高校で同級の友人とふたりで歩いていた。写真を撮るのが趣味の島村は、ほとんどいつもカメラを持っていた。今日の彼も、学校からの帰り道、写真をさまざまに撮った。ヨシオがつきあっていた。
一軒の映画館の前で、ウインドーのなかに貼ってある写真やポスター、入場券売り場の窓、入口など、冬彦は何枚も写真に撮った。映画館が奥にあるその脇道から、ふたりはおもての通りへ出て来た。そこでヨシオは女性の声に呼びとめられた。高木節子が働いている美容院の店主だった。立ちどまったヨシオに向けて、彼女は大股に歩み寄った。
「学校が退ける時間だから、見かけたら伝えて欲しいと頼まれたのよ」
と、彼女は言った。
ヨシオは彼女の言葉の続きを待った。
「うちの節子からの伝言」
「そうですか」
お盆の休みで静岡の実家へ帰るのを東京駅に送って以来、ヨシオは節子に会っていなかった。
「そうなのよ」
「どんな伝言ですか」
「相談したいことがあるから、連絡してくださいって」
「わかりました。これから店へ寄ってみます」
「かならずよ」
「はい」
「いまは暇な時間だから」
「寄ります」
「学校の帰り?」
「そうです」
ヨシオと彼女のやりとりをかたわらで見ていた島村冬彦は、彼女に向けて一歩、歩み寄った。
そして彼女に次のように言った。
「僕は島村と言います。ヨシオくんとは、おなじ高校のおなじ学年です。写真を撮らせていただけませんか」
「私の?」
自分を指さして、彼女は聞いた。
「そうです」
「私の写真を撮るの?」
島村は彼女にカメラを見せた。
「僕は写真を撮るのが好きなのです。いまもヨシオくんといっしょに、奥の映画館の写真を撮っていたところです」
「いいわよ。撮って」
「あの薬局の前を、駅に向けて歩いていくところを、真横から」
島村が指さした薬局を、彼女は見た。
「どうぞ。そうしたければ、そうしましょう」
薬局の前まで三人は移動した。九月の午後の西陽が薬局に直射していた。陽よけが深く斜めに張り出し、それにさえぎられた陽ざしは、ガラス戸の下から三分の一ほどに当たっているだけだった。
「この前を、駅に向かって歩いてください。まっすぐに前を見て。さきほどとおなじように、大股で歩いていただけますか」
薬局の隣の商店まで下がった彼女は、そこから指定されたとおりに歩いた。島村はすでに位置を取っていた。歩いていく彼女にカメラを向けて、三度、彼はシャッター・ボタンを押した。
「ありがとうございました」
頭を下げて礼を言う島村に、そのまま歩いていきながら肩ごしに振り返り、
「出来たらちょうだいね」
と、彼女は言った。
ごくゆるやかな下り坂の道を、島村とヨシオは歩いていった。
「人物も撮るのか」
と、ヨシオは聞いた。
「撮るよ。いまみたいに、知らない人でも話しかけて、許しをもらって。もちろん、許しなしでうしろから撮ったり、斜め横から撮ることも多いけれど」
「いまの人は、なぜ撮ったのだい」
「たいへん魅力的な人だから」
「美人だね」
「ヨシオがそう言うなら、確かだよ。魅力的な人は自分の良さを知ってるから、かならず撮らせてくれるよ。少なくとも僕の経験した範囲では」
「いまの人は魅力的だ」
「自信の塊のような女性だね」
「なぜ、薬局の前なんだ」
「ひとりの女性の魅力と自信が、九月の下北沢という日常のなかにある。その日常的な時間のなかの、一瞬」
島村の説明にヨシオは納得した。
商店街を抜けると道は三つに分かれた。立ちどまったヨシオは、
「僕はこっちへいく」
と、方向を示した。そして、
「僕といっしょにこっちへいけば、もうひとり美人に会える。いまの人よりもっと美人だよ」
と、つけ加えた。
「これからその人に会うのか」
「店へ寄ると、さっき僕があの人に言っただろう」
「なんの店だい」
「美容院」
「そこで働いている人なのか」
「そう。映画スターみたいな人だ」
思案する、という言葉がぴったり来るような表情で、島村はしばらく考えた。
「今日でなくてもいいよ。写真を撮らせてもらえるかどうか、聞いておいてくれ。撮らせてもらえるなら、その人が休みの日に、午後に多摩川へでもいってみよう。午後いっぱい写真を撮って、三人で夕食だ。親戚が成城でやっている、あのとんかつの店でよかったら」
「それもいいね」
「そうしよう」
「聞いておく」
ヨシオと島村はそこで別れた。ヨシオは節子のいる美容院に向けて歩いた。店主が言っていたとおり、美容院は暇な時間だった。客は椅子にひとりだけいた。奥にいた節子はドアまで歩いて来た。そして外に出て、隣りのビリヤードの植え込みの前で、ヨシオと向き合って立った。
「店主に駅の近くで会いました」
「伝言を頼んだの。あなたと偶然に会うのではないかと、なんとなく思ったから」
「会いました」
「だから寄ってくれたのね」
「そうです」
「ジョイスリンさんからお店に電話をいただいたの。お盆で静岡に帰るとき、あなたとお店に寄ったでしょう。あのとき、私はここの名刺をお渡ししておいたの。基地の学校に通わないかとおっしゃるの。府中の基地。英語の勉強をしたいとか、ハワイやアメリカへいってみたいというような、夢みたいな話をお店でしたのよ。その話の、真面目な続き。基地のなかに学校があって、私でも入れるのですって」
「いけばいいじゃないですか」
「午後からのコース。終了して試験を受けて合格すれば、高卒の資格なのですって。アメリカの高校よ」
最後の言葉を、節子は純粋に強調した。
「こういう話は、ほんとなの?」
「僕もおなじコースに通うことになるかもしれないのです」
「本当に、私でも入れるの?」
「入れると思います」
「これが民主主義なの?」
「きっと、そうでしょう」
「これが本当の民主主義なら、日本は民主主義でもなんでもないのよ」
「そうですか」
「どうしましょう」
「勉強はしたいのですか」
「したいのよ」
「では、そのコースに通えばいいのです」
「来週のお休みの日に、ジョイスリンさんと日比谷のお店でまた会うことになってるの」
「はい」
「こんなことって、あるの?」