← Library‹ 春琴抄

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春琴しゅんきん、ほんとうの名なは鵙屋琴もずやこと、大阪おおさか道修町どしょうまちの薬種やくしゅ商しょうの生うまれで歿年ぼつねんは明治めいじ十じゅう九きゅう年ねん十じゅう月がつ十じゅう四よん日か、墓はかは市内しない下か寺町てらまちの浄土宗じょうどしゅうの某寺ぼうじにある。せんだって通とおりかかりにお墓参はかまいりをする気きになり立たち寄よって案内あんないを乞こうと「鵙もず屋やさんの墓所ぼしょはこちらでございます」といって寺男てらおとこが本堂ほんどうのうしろの方ほうへ連つれて行いった。見みるとひと叢むらの椿つばきの木こかげに鵙もず屋や家や代々だいだいの墓はかが数すう基きならんでいるのであったが琴こと女おんなの墓はからしいものはそのあたりには見みあたらなかった。むかし鵙もず屋や家やの娘むすめにしかじかの人ひとがあったはずですがその人ひとのはというとしばらく考かんがえていて「それならあれにありますのがそれかも分わかりませぬ」と東側ひがしがわの急きゅうな坂路はんろになっている段々だんだんの上うえへ連つれて行いく。知しっての通とおり下した寺町てらまちの東側ひがしがわのうしろには生国魂いくたま神社じんじゃのある高台たかだいが聳そびえているので今いまいう急きゅうな坂路はんろは寺てらの境内けいだいからその高台たかだいへつづく斜面しゃめんなのであるが、そこは大阪おおさかにはちょっと珍めずらしい樹木じゅもくの繁しげった場所ばしょであって琴こと女おんなの墓はかはその斜面しゃめんの中腹なかはらを平たいらにしたささやかな空地あきちに建たっていた。光ひかり誉ほまれ春はる琴こと恵照えしょう禅定ぜんじょう尼に、と、墓石はかいしの表面ひょうめんに法名ほうみょうを記しるし裏面りめんに俗名ぞくめい鵙もず屋や琴こと、号ごう春琴しゅんきん、明治めいじ十じゅう九きゅう年ねん十じゅう月がつ十じゅう四よん日にち歿ぼつ、行年ぎょうねん五拾八歳ごじゅうはっさいとあって、側面そくめんに、門人もんじん温井ぬくい佐助さすけ建だて之これと刻こくしてある。琴こと女おんなは生涯しょうがい鵙もず屋や姓せいを名なのっていたけれども「門人もんじん」温おん井い検校けんぎょうと事実じじつ上じょうの夫婦ふうふ生活せいかつをいとなんでいたのでかく鵙もず屋や家やの墓地ぼちと離はなれたところへ別べつに一いち基きを選えらんだのであろうか。寺男てらおとこの話はなしでは鵙もず屋やの家いえはとうに没落ぼつらくしてしまい近年きんねんは稀まれに一族いちぞくの者ものがお参まいりに来くるだけであるがそれも琴こと女おんなの墓はかを訪おとなうことはほとんどないのでこれが鵙もず屋やさんの身内みうちのお方かたのものであろうとは思おもわなかったという。するとこの仏ふつさまは無縁むえんになっているのですかというと、いえ無縁むえんという訳わけではありませぬ萩はぎの茶屋ちゃやの方ほうに住すんでおられる七十ななじゅう恰好かっこうの老ろう婦人ふじんが年としに一いち二に度どお参まいりに来こられます、そのお方かたはこのお墓はかへお参まいりをされて、それから、それ、ここに小ちいさなお墓はかがあるでしょうと、その墓はかの左脇ひだりわきにある別べつな墓はかを指さし示しめしながらきっとそのあとでこのお墓はかへも香華こうげを手向たむけて行いかれますお経きょう料りょうなどもそのお方かたがお上あげになりますという。寺男てらおとこが示しめした今いまの小ちいさな墓標ぼひょうの前まえへ行いって見みると石いしの大おおきさは琴こと女おんなの墓はかの半分はんぶんくらいである。表面ひょうめんに真ま誉ほまれ琴こと台だい正道せいどう信士しんじと刻こくし裏面りめんに俗名ぞくめい温おん井い佐助さすけ、号ごう琴きん台だい、鵙もず屋や春琴しゅんきん門人もんじん、明治めいじ四十よんじゅう年ねん十じゅう月がつ十じゅう四よん日にち歿ぼつ、行年ぎょうねん八はち拾じゅう三さん歳さいとある。すなわちこれが温井検校けんぎょうの墓はかであった。萩はぎの茶屋ちゃやの老ろう婦人ふじんというのは後あとに出でて来くるからここには説とくまいただこの墓はかが春琴しゅんきんの墓はかにくらべて小ちいさくかつその墓石はかいしに門人もんじんである旨むねを記しるして死後しごにも師弟していの礼れいを守まもっているところに検校けんぎょうの遺志いしがある。私わたくしは、おりから夕日ゆうひが墓石はかいしの表ひょうにあかあかと照てっているその丘おかの上うえに彳たたずんで脚下きゃっかにひろがる大だい大阪おおさか市しの景観けいかんを眺ながめた。けだしこのあたりは難波津なにわづの昔むかしからある丘陵きゅうりょう地帯ちたいで西向にしむきの高台たかだいがここからずっと天王寺てんのうじの方ほうへ続つづいている。そして現在げんざいでは煤煙ばいえんで痛いためつけられた木この葉はや草くさの葉はに生色せいしょくがなく埃ほこりまびれに立たち枯かれた大木たいぼくが殺風景さっぷうけいな感かんじを与あたえるがこれらの墓はかが建たてられた当時とうじはもっと鬱蒼うっそうとしていたであろうし今いまも市し内ないの墓地ぼちとしてはまずこの辺へんが一番いちばん閑静かんせいで見晴みはらしのよい場所ばしょであろう。奇くしき因縁いんねんに纏まとわれた二人ふたりの師弟していは夕靄ゆうもやの底そこに大だいビルディングが数かず知しれず屹立きつりつする東洋とうよう一いちの工業こうぎょう都市としを見下みくだしながら、永久えいきゅうにここに眠ねむっているのである。それにしても今日きょうの大阪おおさかは検校けんぎょうが在ありし日ひの俤おもかげをとどめぬまでに変かわってしまったがこの二ふたつの墓石はかいしのみは今いまも浅あさからぬ師弟していの契ちぎりを語かたり合あっているように見みえる。元来がんらい温ぬく井い検校けんぎょうの家いえは日蓮宗にちれんしゅうであって検校けんぎょうを除のぞく温おん井い一家いっかの墓はかは検校けんぎょうの故郷こきょう江州ごうしゅう日野ひの町まちの某寺ぼうじにある。しかるに検校けんぎょうが父祖ふそ代々だいだいの宗旨しゅうしを捨すてて浄土じょうど宗しゅうに換かえたのは墓はかになっても春琴しゅんきん女おんなの側そばを離はなれまいという殉情じゅんじょうから出でたもので、春琴しゅんきん女おんなの存生ぞんじょう中ちゅう、早はやくすでに師弟していの法名ほうみょう、この二ふたつの墓石はかいしの位置いち、釣合つりあい等とうが定さだめられてあったという。目分めぶん量りょうで測はかったところでは春琴しゅんきん女おんなの墓石はかいしは高たかさ約やく六ろく尺しゃく検校けんぎょうのは四よん尺しゃくに足たらぬほどであろうか。二ふたつは低ひくい石甃いしだたみの壇だんの上うえに並ならんで立たっていて春琴しゅんきん女おんなの墓はかの右脇みぎわきにひと本もとの松まつが植うえてあり緑みどりの枝えだが墓石はかいしの上うえへ屋根やねのように伸のびているのであるが、その枝えだの先さきが届とどかなくなった左ひだりの方ほうの二三にさん尺しゃく離はなれたところに検校けんぎょうの墓はかが鞠躬加きっきゅうじょとして侍坐じざするごとく控ひかえている。それを見みると生前せいぜん検校けんぎょうがまめまめしく師しに事つかえて影かげの形かたちに添そうように扈従こしょうしていた有様ありさまが偲しのばれあたかも石いしに霊れいがあって今日きょうもなおその幸福こうふくを楽たのしんでいるようである。私わたくしは春琴しゅんきん女おんなの墓前ぼぜんに跪ひざまずいて恭うやうやしく礼れいをした後あと検校けんぎょうの墓石はかいしに手てをかけてその石いしの頭あたまを愛撫あいぶしながら夕日ゆうひが大だい市街しがいのかなたに沈しずんでしまうまで丘おかの上うえに低徊ていかいしていた

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