ほかにもうひとつ、大きな、ちゃんとした応接間があるにちがいない。
ぼくがいまひとりで原稿を待っているこの部屋は、略式の応接間だ。
くつろげるようにカラー・テレビが置いてあるし、週刊誌や漫画のつまった書棚もある。和服を着たおとなしいお手伝いのおばさんが、ひっきりなしになにか持ってきてくれる。
はじめは、お茶だった。次に果物が出て、それから紅茶とクッキー。その次が、オレンジ・ジュース。そして、コーヒーとブルーベリー・タルト。
ついさっきまたやってきて、
「おビールは召しあがりますか?」
と、きいてくれた。
ぼくは原稿をもらったら、オートバイで大至急、社に帰らなくてはいけない。ビールなんて、駄目だ。
かれこれ二時間、ぼくはこの略式の応接間にすわっている。
ここは、有名な時代小説作家の自宅だ。
しっかりした造りの、和風の大邸宅だ。しんとして、とても静かだ。真夜中のせいでもあるのだろうけれど、なんの物音も聞えてこない。
いきなり、ドアに、ノックの音がした。ぼうっとしていたぼくは、びっくりした。
「どうぞ」
と、ぼくがこたえると、ドアが開いた。お手伝いさんだ。深々と礼をし、
「先生は、ご執筆がながびいていらっしゃいます。先生からおうかがいしてこいと言われたのですが、剣道はおできになりますでしょうか」
「いいえ。できません」
「さようでございますか」
と、また礼をし、一歩さがった。
「では、どうぞ、こちらへおとおりくださいませ」
ドアの外の、よく磨きこまれた広い廊下を手で示す。
「どうぞ、こちらでございます」
ぼくは、お手伝いさんのあとについて、歩いていった。つるつるの板に靴下がすべり、歩きにくい。スリッパは、さっき脱いだままだ。
廊下を何度も曲がり、庭に面してガラス戸がつづいているところを抜け、渡り廊下でつながった離れのような部屋の前に出た。
広い板の間があり、そのむこうに、障子をはめた入口がある。障子の両側には、甲冑がひとそろいずつ、置いてある。
「おいでいただきました」
と、障子の前で、お手伝いさんが言った。
「お入りなさい」
陽気な声が、障子のむこうから、聞えた。
お手伝いさんが障子をあけてくれた。
どうぞ、と彼女は、目でぼくに伝える。ぼくは、なかに入った。冷房がきいている。
広い畳敷きの、落着ける部屋だ。中央に大きなすわり机があり、先生は和服姿で、その机のむこうにいる。資料なのだろう、古風な本が、きれいな畳のうえに散乱している。
お手伝いさんが障子をしめた。どうしていいのかわからないので、ぼくは、突っ立っていた。
先生が顔をあげ、ぼくをじっと見る。
「うーむ。二十四歳、育ちは東京に近い、神奈川か静岡か」
「神奈川です」
先生は、うなずく。
「年は?」
「当たりました」
「よろしい」
白いもののまじったオールバック。鼻の頭が赤い。酒とのつきあいは、ながそうだ。無精ひげ。銀ぶちの眼鏡の奥で、二重まぶたの目が意外にやさしい。厚い唇に、微笑がうかんでいる。
「じつは、頼みごとがある」
「はい」
「靴下を脱いでくれたまえ」
「は」
「庭へ出てほしい。私といっしょに」
先生は、立ちあがった。背丈はぼくとおなじくらい。くすんだ色の、しわのよった和服だ。
床の間のようなところへいき、立てかけてあった二本の日本刀をつかんだ。
「こっちだ」
ガラスのはまった障子をあけると、廊下。その廊下のガラス戸の外が、中庭だった。きれいな芝生に、白銀灯が光を注いでいる。飛び石が、カーブを描いて築山のむこうに消えている。池や植え込みが見える。
日本刀の鞘を二本とも払った。光をうけて、冷たく銀色に、ぎらりと光る。真剣だろうか。不気味な光りかただ。
「白刃だ。人が斬れる」
と、先生が言った。
ぼくに歩みより、一本を差し出す。
「構えてみたまえ」
両手にずしりと重い。
「自分の脚を切らないように、しっかりと、持ちたまえ」
喋りかたに妙な抑揚があり、それが愛嬌となっている。
「こっちへ」
と、芝生のまんなかへ、ぼくをつれ出した。
ぼくとのあいだにすこし距離をとり、
「私を斬るつもりで、構えてみたまえ」
と、先生は言った。
重い真剣を、ぼくは、ちゃんばらのように構えた。
白刃を右手にだらりと下げたまま、先生は、ぼくをじっと見る。眼鏡の奥の目を光らせ、しばらく先生はぼくを見つづけた。
「よろしい。撃ちこみたまえ」
「は?」
「ぼくを斬ってよい。斬りなさい」
「どうすればいいのですか」
「こうだ」
先生の両足が芝生を蹴った。白刃が夜の中に一閃した。ガチッ、と音がし、先生がぼくの目の前にきていた。ぼくの構えた真剣に先生の剣がすり合っている。ぼくの頭をふたつに割る寸前で、先生は剣をとめたのだ。
「こうだ」
さっと、ひと飛びして、先生は、さきほどの位置にさがった。おどろくべき身の軽さだ。
「さあ。来たまえ」
白刃を握った右腕を、先生は再び、だらりと下げた。
ぼくは、構えなおした。重いので、腕がすぐにさがってくる。両足を踏んばり、先生がやったように、ぱっと前に出た。
すっと、先生がうしろへひく。
「もっとはげしく来い!」
なんのことだかわからないまま、ぼくは夢中になって、
「やっ!」
と叫び、右から左へ真剣をバットのように振りまわし、前へ出た。重さに体がひきずられる。
先生の体が沈み、
「えやあっ!」
ものすごい気合いと共に、ぼくのわきをすり抜け、ふっ飛んでいった。
「いまのように、さあ、来たまえ」
構えなおしたぼくは、こんどは、槍のように、突いていった。
ひらりと左に飛びざま、先生は斜めに斬りさげてよこした。びゅっ、と風を切る音がした。ぼくの顔のすぐ近くだ。
「もう一度、来たまえ。いまの調子だ」
ぼくは、突然、こわくなった。
だが、こわいですよ、と言うそのひと言が、声になって出てこない。
真剣を両手で必死に握りしめ、両足を踏んばって芝生のうえに突っ立ったままでいることしか、できなかった。
「来なさい」
その声にたぐり寄せられ、ぼくは走るように前へ出た。
先生も、ぼくにむかって、飛んでくる。上体を右いっぱいにうしろへねじり、両手で持った真剣を背中のうしろにまわしている。