九月の終りにちかい日。午後七時。夕暮れと夜の、微妙なさかい目だ。
もう暗くなっている。秋だ。完全に、秋。でも、いいんだ。もう、秋だって冬だって、かまわない。
東京の西新宿。超高層ビルというやつが、何本も建っている。そのうちのひとつ、三井ビルの前の道路。甲州街道と青梅街道を結ぶ道路とT字交差し、新宿駅西口の地下コンコースまで、のびている。片側三車線。水銀灯が、道路を照らす。
その道路の、新宿駅にむかう車線のいちばん右、植えこみのある中央分離帯に右足をつき、ぼくはカワサキにまたがってとまっている。左のウインカーをつけっぱなして。
次から次に、何台も、タクシーや乗用車が、新宿駅にむかって、ぼくの左側を、タイア音と共に、走り抜けていく。すれすれにかすめていくやつもいる。一瞬、風圧を、体の左側に、ななめうしろから、感じる。
ヘルメットを右のミラーにかけ、皮のグラブを右手に握っている。黒い皮の、オートバイ・ジャンパーに、14オンス・デニムのブッシュ・パンツ。ブーツは、いつものハーネス・ブーツ。
進入してくる車に面して、「トンネル内、点灯せよ」と書きつけた大きな看板が中央分離帯に、立っている。ぼくは、その看板とトンネルの入口との中間にいる。
約束の時間は七時十五分だ。
しばらく前に、ぼくは、ここへ来た。今日は、六時あがりの仕事が、ちょうど六時に終った。ここへ来てから、ずっと、こうして右足をつきっぱなしにして、待っている。高層ビルに窓がいくつもあり、不規則に黄色く、明かりが輝いている。
人が、たくさんとおる。ビルにくる人、駅のほうへむかう人。はじまったばかりの夜のなかを、そんな大勢の人たちの歩きかたが、けだるい。
目に入る文字を、ぼくは、何度も、読んだ。右側の車線のすじむこうにある高層ホテルには、SEIKOの英文字がブルー地に白。それに、植えこみのなかに、「展望室入口」という標示。
行手の陸橋には、「新都心地下道」「けた下4・2m」と、読める。三井ビルへの階段のわきには、「55ひろば」「商店街」「住宅センター」。左端の車線には、白い字で大きく、「タクシーのりば」。歩道の端に標識が立っていて、その標識にも、「タクシーのりば」とある。のりばにタクシーがつづけて入ってきた。屋根の標識は、「国際」「帝都」「大和」「個人」「新日本」。もう一台、「新日本」が、駅にむかって走っていく。
新都心地下道が、ゆるいカーブを描いて、駅にのびている。クリーム色に塗ったコンクリートの柱が何本もつらなり、蛍光灯の光をうけている。車の赤いテール・ランプが、いくつもつづく。
左手首の腕時計を見た。七時十二分。排気ガスまじりでも、秋の夜の空気は、妙に軽くてすがすがしい。
うしろから来る車を左のミラーで警戒しながら、ビルや人を、ぼんやりとながめた。
彼女はどっちのほうからくるのだろうか。そう思いながら動かしていたぼくの視線が、ビルの前の広場の階段を降りてくるひとりの女性をとらえた。たくさんの若い女性のなかから、瞬間的に、ぱっと、とらえた。魔法だ。ぼくが魔法を発揮しているのではなく、魔法にかかっているのだ。
胸が高鳴った。彼女の名を叫びたい。だが、抑える、抑える。
階段を降りて、彼女は、あたりに人をさがすように、左右を見渡している。ベージュのキュロット・スカートに、ブラウンのブーツ。白いブラウスに、ジャケットのようなものを、はおっている。今夜の空気に、そんな服装が、とてもよく調和している。脚をよほど大きく広げないと、キュロットだとわからないスカートだ。こんないでたちのミーヨを、ぼくは、今夜、はじめてみる。
わるくない。わるくないどころか、とても洒落ている。素敵だ。誰の目にも、美しい女性だ。
赤い煉瓦の小さな壁に軽くもたれて、ふと、彼女は、ふりかえった。視界のなかにぼくが入っているはずだ。だが、気づかない。
彼女は、駅のほうを見ようとする。
ぼくは、カワサキのホーンを鳴らした。
気がつかない。もう一度。だめだ。たてつづけに、二度、三度、四度。道をいく人たちが、ぼくを見る。五度目のホーン。いぶかしげにミーヨがふりかえり、ぼくを見た。
ぼくは手を振った。
きれいな動作で壁をはなれたミーヨは、軽快に、小走りに、歩道の端まで、きた。
首をすこし左にかしがせ、ミーヨは、まぶしそうにぼくを見る。なにか言っている。走り抜けていくタクシーにかき消されて、聞えない。
車の切れ目をつかまえて、彼女は車道に降り、ぼくのところまで走ってきた。
「元気なの? なんだか、人がいっぱいねえ」
「元気だ」
「カワサキも?」
「快調」
ミーヨは、ハンドルに手をかけた。
尻にスポイラーをつけた下品なアメ車が、爆音を放って、ふっ飛んでいく。風圧にミーヨのキュロットがはためくのだが、彼女は平気だ。
「乗れよ」
ぼくは、シートのうしろにさがった。前のほうにスペースをつくり、ミーヨにまたがせた。
左腕でうしろからミーヨを抱き寄せ、右手でグリップをつかんだ。いい気分だ。彼女の髪の感触と香りが、ぼくの顔に感じられる。
「久しぶりっていう感じ、しないのね」
顔をなかばうしろにむけ、彼女が言った。
「いつまで東京にいるんだい」
「ずっとよ」
「ずっと?」
「そう」
「会社は?」
「話をつけたの」
「やめたのか?」
彼女は、首を振った。
ぼくの唇や鼻に、髪がやさしく触れる。
「やめないわよ。やめたら、損しちゃう。東京で仕事ができるように、話をつけたの。今日から、ずっと、東京」
ぼくのほうへ、顔をねじまげる。その彼女の顔を横からのぞきこむようにして、ミーヨと唇を合わせた。
唇をはなす。香りが、ほのかに甘い。
彼女の胸が、大きく上下している。呼吸が、深く早い。ぼくの左腕に、それが、胸のふくらみといっしょに、はっきりと感じられる。とても素敵な感じだ。
「でも、いくとこ、ないのよ」
「なんだって?」
と、ききかえしたとき、いきなり、
「そこのオートバイ! なにをしている!」
と、左ななめうしろから、スピーカーをとおした、かん高い声が、ぼくたちに浴びせられた。パトカーだ。
「なにをしている!」
ぼくは左を見た。