冬の青天の日は、空がうっすらと青い。陽ざしは、充分に明かるいけれども、弱い。風が、容赦なく冷たい。富士に近く、すこし標高があるので、空気が希薄に感じられる。大きく胸に吸いこむと、その澄んだ冷たさで、体の内部が洗われていくようだ。
レーシング・マシーンの乾いた金属的な排気音が、澄んだ空気のなかを、突き抜けてくる。ヨーロッパのレーサーたちに人気のある、日本の497CC、正方形四気筒のマシーンだ。最終コーナーをまわり、六速めがけて加速しつつ、直線コースに突っこんでくる。一速で時速一三〇キロも出てしまうロードレーサーだ。
グランド・スタンド前の長いストレートへ、弾丸のように、飛んでくる。タンクのうえに上体を倒しているライダーの頭に、カウリングが、かぶさるようについている。カウリングの透明な部分から下は、赤と青、そして白に、鮮やかに塗り分けられ、ギア・ボックスの下部まできれいに流れておおいつくしている。明るい陽のなかで、くっきりと、光り輝く。最高スピードは時速二七〇キロだという。おそらくそれに近いスピードなのだろう、マシーンは、赤、白、青に塗り分けた矢のように、ピットの端に立っているぼくの前を、疾走して去った。あのマシーンでしかもこのくらいのスピードになると、走る、という概念を超えてしまっている。遠い夢のなかで見た幻の光のように、第一コーナーに吸いこまれていった。
マシーンは、スピードウエイをさらに二周した。そして、ピットに入ってきて、とまった。みんなが、マシーンのまわりに集まっていく。
ライダーが、マシーンから降りた。ヘルメットを取った。沢田秀政だ。ぼくとの決闘のあと、ふた月の入院生活を送り、休職ついでに休みをさらに長くし、栄光ロードレース・クラブの仕事に、この数ヶ月、専念してきたという。
ヘルメットをかむったミーヨが、ロードレーサーにまたがった。新しくあつらえたロードレース用の薄い皮つなぎに身をかため、手袋やブーツも、新しい本格的なものだ。
ステップのペダルの位置をたしかめて足を乗せ、三〇リットル以上も入る大きなタンクのうえに腹ばいになるようにして、グリップを握った。
数人の男たちが、ミーヨのまたがったマシーンを支えている。沢田が、いろんな注意をあたえている。六速だけれど、シフトのパターンは、市販車とは、まるっきりちがう。アクセルの開けかたやブレーキングなど、こまかな注意をあたえてから、
「では、走ってみるか?」
と、沢田が言った。
うなずくミーヨを、ぼくは、うしろから見ていた。
両側から車体を支えている男たちが、マシーンを押した。エンジンはライダー自身が押しがけで始動させるのだが、ミーヨには無理なので、またがって位置をきめてから、人に押してもらっている。
ほんの二、三メートル押しただけで、エンジンはすぐかかった。クラッチをつなぐと、なめらかに滑り出す。アクセルの開閉につれて、パララン、パラランと、信じられないほどに軽い排気音が、冷たい空気のなかに広がっていく。すぐに、ミーヨは、回転をあげはじめた。パアーンという突き抜けた音と共に、教えられたとおりのラインをとって、第一コーナーに入っていった。
コースをひとまわりしてくるマシーンの排気音が、ぎくしゃくせずに、なめらかに遠くから聞えつづける。まったくの素人にしてはとてもいいタイムで、ミーヨは最終コーナーを抜け、直線に入ってきた。そのまま、グランド・スタンドの前を走り抜ける。
「なかなかいいよ。きれいに乗ってる」
沢田が仲間の男に喋っているのが、ぼくの耳に届いた。
今日は、栄光ロードレース・クラブの、サーキットでのミーティングだ。祭日の、なにもレースのないスピードウエイのコースを時間で借り切り、人気の高いあのロードレーサーの試乗をさせてもらっている。会社の、支部の連中も全員、来ている。よかったら来いと誘いをうけたぼくは、ミーヨをつれ、朝早くに、カワサキとヤマハで、このスピードウエイに来た。
来るとすぐに、ピットで沢田に出っくわした。おそらく沢田に会えるだろうという期待もあり、ぼくはここへ来たのだ。
ぼくを見て、沢田は、顎をあげ、
「おう」
とだけ言った。
ミーヨを紹介すると、彼女には、
「やあ」
と言い、あのいかつい顔でにこにこしていた。
沢田に許された三周をおえ、ミーヨは、ピットに入ってきた。男たちにマシーンを押さえてもらい、シートにまたがったままヘルメットを脱ぎ、素晴らしい笑顔を男たちに見せた。緊張で血の気のひいた顔に、頬だけが、ぽっと赤い。
「三速でフロントが浮くの!」
「九〇〇〇くらい、まわってるんだ」
沢田が教えた。
「加速からなにから、ものすごくなめらかなのね。五〇〇〇以下だとタコの針が動かないの。びっくり、びっくり」
フレームやサスペンションの出来ぐあいについて、沢田は、シートにミーヨをまたがらせたまま、説明して聞かせた。
このコースをあのロードレーサーで三周できるなら、一万円くらい払ってもいいというオートバイ・クレージーはたくさんいるはずだ。ぼくだって、そうだ。だが、沢田は、ミーヨには試乗を簡単に許したのに、ぼくには、乗ってみるか、とも言ってくれない。適当に沢田のまわりをうろついてみるのだが、声をかけてくれそうな気配はない。ぼくを無視している。
しかたなく、ぼくは、ぼくのカワサキで、バンクをふくめたロング・コースを、走ってみた。何度やっても、この三〇度に路面のかたむいたバンクを走ることができない。今度こそはと思うのだが、そのたびに、いちばん低いところを走ってしまう。ヘア・ピンではパニックにおちいるし、ラップ・タイムはまともにタイムと呼べたものではない。