カワサキのオートバイにまたがって、ぼくは、にぎりめしを食べていた。
サイド・スタンドが雑草をまきこみ、土の中にすこしめりこんでいた。
かたむいたオートバイのシートに腰をのせ、重いブーツをはいた左足を地面につき、右足は、ステップに軽く置いていた。
高原の涼しい風が、いろんな方向から吹きぬけた。
遠く浅間山のうしろに、入道雲がそびえはじめていた。空は、まっ青だ。
浅間のずっと左手に、菅平が一望できた。
ぼくは、そのとき、千曲川をはさんで反対側、別所温泉の高原にいた。
今朝、露天風呂のある宿を出てすぐに、ガス・ステーションの自動販売機で買ったにぎりめし。
夏のさかりの信濃。晴天の下でカワサキにまたがり、浅間の入道雲を見ながらの昼食だ。
にぎりめし自体は、おいしくもなんともなかった。ただし、状況は素晴しい。
これでお茶があればと、ぜいたくなことを思ったとき、うしろに足音がした。
手に持っていたにぎりめしの残りを口に押しこみ、ぼくは、ふりかえった。
若い女のこだった。
ふりかえったとたんに、視線が合ってしまった。とてもはにかんだような表情で、彼女は、微笑してみせた。
ぼくは、微笑をかえせない。両方の頬が、にぎりめしで大きくふくらんでいる。
米と梅ぼしのなかにベロがとられてしまって、ウンともスンとも言えはしない。ひとつうなずいたぼくは、必死になって、口の中のにぎりめしを噛んだ。
彼女は、ぼくのほうに、歩いてきた。すんなりした体つきに、軽い足どりだった。ほどよい長さの髪に、化粧っ気のない、小麦色の顔。
おさえた色の、オフ・ボディみたいなコットンの半袖ワンピースに、ストラップのサンダル。大きな半月のかたちをした編みかごを肩にかけ、片手には、地図を折りたたんで、持っていた。
昨日、ぼくがとおってきた松本の町が、彼女のような夏の旅の女のこたちで、いっぱいだった。
「おほ」
よお、とぼくは言おうとしたのだ。だが、口の中には、まだかなりのにぎりめしがあったので、こうなってしまった。
ぼくのすぐそばで、彼女は、立ちどまった。そして顎を一度だけ、くんとあげて、ぼくの「おほ」のひと言に、こたえてくれた。
顎のさきが、かわいい。風に、彼女の髪が、軽くなびいた。
目を細めて、彼女は、千曲川のほうを見た。
「入道雲なのね」
きれいな声だ。張りがあって、軽くて。明るい笑顔と、なぜだか丸くかたく筋肉の張った太腿を連想させる声だ。
「わかった。あれは、浅間山だ」
地図をながめて、彼女が言った。
ぼくはうなずいた。うなずくと同時に、にぎりめしを飲みくだし、
「よお」
と、あらあためて、言った。
なぜだかとてもまぶしそうに、彼女はぼくを見た。彼女の瞳は光っていて、目もとにかなりの色気がある。
「はじめてかい」
「はじめてなの。とっても素敵」
彼女は、ぼくのオートバイを見た。
「これ、なんていうの?」
女のこは、みんな、こうだ。
燃料タンクに、KAWASAKIと、エンブレムが入っているのに。
「オートバイ」
「きれい」
濃紺を基調にしていて、燃料タンクだけには、さらに赤と白が使ってある。
「どこから来たの?」
「東京」
「これで?」
と、片手をそっと、ハンドルに触れた。
「そう」
彼女は、目を閉じた。
高原の空気を胸いっぱいに吸いこみ、しばらくとめてから、目を開き、言葉といっしょに、叫ぶように吐き出した。
「うわあ、うらやましい!」
ビニールの竹の皮に、にぎりめしが一個、のこっていた。
「食うかい?」
彼女は、首を振った。
「早くにすませたの。それよりも――」
と編みかごを肩からはずした。
「お茶」
「ほんとかよ」
ワイン色のラッカー仕上げをしたシグのボトルを、彼女は、さし出してくれた。
「ほうじ茶。つめたいの」
おいしいお茶だった。ボトルにいっぱいあったから、遠慮なく飲んだ。
「お茶が好きなので、持って歩いてるわけ」
と、彼女は笑った。
のこりのにぎりめしを、ぼくは食べた。
ぼくのうしろのほうにさがってなにかやっていた彼女は、
「カワサキさん」
と、呼んだ。
ぼくは、ゆっくり、ふりかえった。
コダックのポケット・カメラを、彼女は構えていた。シャッターの落ちる音がした。
「オートバイごと、そっくりみんな撮れてる」
「ピンぼけだといい」
「なぜ?」
「片手ににぎりめし、片手に水筒だもの」
「素敵よ」
フィルムを巻きあげ、彼女は、浅間山を撮った。
「撮ってやろうか」
おにぎりをたいらげたぼくは、ブルージーンズの太腿で手をよくこすり、コダックをうけとった。
菅平のほうをバックに、ぼくはカワサキにまたがったまま、彼女の胸からうえをフレームにおさめ、シャッターを切った。
右のミラーにかけたぼくのヘルメットが、いっしょにうつったはずだ。
「写真を送るわ」
「いいよ」
「だって」
「いいんだよ、別に」
「オートバイといっしょにうつっているのに」
「そうか」
「送るわ」
「そうだな」
彼女は、もう手帳を出していた。ぼくは、東京のアパートの所番地を、教えた。
「東京から、どうやってきたの?」
「中央高速で大月まできて、20号線で甲府、諏訪、塩尻。塩尻からは19号線。昨日、松本をとおった」
「これからどこへいくの?」
「上田へ出ようかな。浅間をまわって、帰りは峠をくだる」
「峠?」
「碓氷峠の旧道」
「このカワサキで?」
「そう」
彼女は、うらやましそうな顔をして、カワサキを見た。女の子がオートバイに対してこんな表情を見せるのは、珍しい。
かわった女性なのかな、と、ぼくは思った。
ぼくはシグのボトルを彼女にかえした。
「サンキュー。うまかった」
別所の安楽寺にある八角三重塔の話を、ぼくたちはした。ぼくも彼女も、その三重塔を見てきたばかりだった。
「国宝だってよ」
「そうなのね。四重なのに、なぜ、三重塔なのかしら」
「いつも三重だから、しじゅうなんだ」
ぼくたちは、笑った。
塔のまわりの杉木立の、セミの鳴き声をぼくは思い出していた。安楽寺は、信州ではいちばん古い禅寺なのだそうだ。
「これから、どうするの?」
「上田」
「ううん」
彼女は、首を振った。
「今日、いま、これから」
「風をさがして、昼寝」
「風を?」
「うん」
風のとおる道を、ぼくは、さがした。