ナミの臨月は七月だ。二十五日が予定日になっている。小川といっしょに、六月のはじめから京都にいってしまった。録音のためだ。京都に新しくできたスタジオで、LPにおさめる十一曲を臨月までに録音してしまう。バックをつとめるミュージシャンたちと泊まりこみ、共同の生活をしているという。
七月のはじめに、京都のナミから、電話が入った。ぼくは仕事が夕方の六時にあがり、家にいた。ミーヨも、そばにいた。彼女の会社の忙しさも一段落したのだ。
電話で、ナミは、泣いていた。なぜ泣くのか、その理由を聞こうとするのだが、要領を得ない。レコーディングがあと二曲残っていて、その二曲がうまくいかない。うまくいかないのは小川敬一のせいだ。というところまで、なんとか聞き出した。
「来て。すぐに来て」
ナミは、泣いている。
ミーヨが、しきりに彼女をなぐさめた。一時間ちかく電話で話をしたあと、ミーヨは送話口をふさいでぼくに言った。
「来てくれって、泣いてる。いってあげなさい。お腹がいよいよ大きくなってきて、精神状態が不安定なのよ」
「おまえ、小川に説教してやれ」
「どこかへいっちゃって、いないんですって。いってあげなさい」
返事をしかねていると、ミーヨは勝手に、
「だいじょうぶよ、コオはいくって言ってる」
と、約束してしまった。
いってあげなさい、とミーヨはしきりに言う。明くる日、現場の通信社ではなく、AJEの本社へいき、夏の休暇を早目にとらせてもらえるかどうか、交渉した。輸送員全員のローテーションを考えに入れなくてはならないから、それは駄目だという。
四日か五日、休みたいと言うと、だったら休職にしてほしいと言う。それにぼくが応じると、こんどは、休職よりも退職にしてくれと言う。休みをとるための休職だということがほかの輸送員にわかると都合がわるい、などという。
電話一本で勝手に休んでしまえばよかったのかもしれない。話のもっていきかたが、へただったのだ。ぼくは、退職した。また働く気ならいつでも雇ってやると言い、入社内定書という一枚の書式に必要事項を記入させられた。不思議な会社だ。
夏にそなえて、カワサキは、整備に出してある。栄光ロードレース・クラブで使っている一流のファクトリーが、整備をひきうけてくれた。オートバイは、ほかに、小川のホンダCB400フォアⅡと、ミーヨが借りたままのヤマハRD250がある。どちらも、やめにした。
小川がガレージに置きっぱなしにしている中原麻里のセリカで京都にいくことにきめた。ミーヨを誘ったが、まだ東京を出られないと言う。
「夏の休みは、ながくとりたいんだもの。会社の部内で調整しなければいけないのよ」
中原麻里に、セリカを使う承諾を得るための電話をした。自分も行きたいと、麻里は言った。
「今日だよ」
「いいわよ、いつだって」
「いますぐだ」
「どこでひろってくれる?」
「インタチェンジまで、自前で出てこいよ」
「東京の?」
「そう」
いつだったか、四輪のミラー折りをやったときに小川と落ち合った、二子玉川のドライブ・インの名を、ぼくは麻里に告げた。
そのドライブ・インは、改装中で休業だった。建材をおろしている小型トラックのそばに立って、麻里は待っていた。
セリカに入ってきた彼女が最初に言った言葉は、
「もう夏なのね!」
という驚きの確認だった。
「去年の夏と同じ服なのよ。気がついた?」
「ぜんぜん」
「一年後の夏ではなくて、おなじ夏なんだと思いこみたいの。だから、おなじ服を着てるのよ」
「自分をだましてるわけだ」
「そうよ。いけないことかしら」
「他人をまきぞえにするなよ」
「正解、という感じ。九十五点」
ぼくは笑った。
「京都まで遠いかな」
「ねえ、コオ。そう言えば、一年ぶりでしょ。去年の夏以来、会ってないわね」
「そうかな」
「そうよ」
その根拠を、麻里は説明した。
「そうだな。一年ぶりだ」
「一年ものながいあいだ、なにをしてたの」
「いろいろだ。でも、退屈は、してなかった」
シートのなかで、麻里はぼくに向きなおった。目を輝かせ、
「ねえ、ねえ、どうやったら、一年ものあいだ、退屈しないでいられるの?」
「秘訣なんて、なにもない」
「そうだろうとは思うんだけど」
東京インタチェンジから、ぼくたちは東名高速にあがった。
途中、一度だけコーヒーを飲み、京都まで走りとおした。ひどくくたびれた。
録音スタジオは、木屋町の南のはずれにあった。大きな古い民家の裏にあり、おもての家に、ナミやミュージシャンたちが泊まっているのだった。スタジオは、裏庭と倉庫をつぶしてつくったという。
ナミは、小川とのいさかいがすでにおさまったらしく、腹を突き出し、けろりとしていた。
「あと一曲、のこってるの。ちょうどよかった。つきあって。いまの自分をこれまでの十曲でさらけ出して、もうほとんどからっぽなの」
「これがあるじゃないか」
ぼくは、ナミの腹を指さした。
「ずいぶん大きい。双子だな」
「お医者さんに聴診器で聴いてもらったの。中身は、ひとりですって。寝てると、蹴とばすのよ」
「なにが?」
「なかの赤ん坊が、なかから、私のお腹を蹴っとばすの」
小川は、いつもとかわらない小川だった。
「ちょっかいを出しすぎたんだ。そしたら、怒って、泣きだした。のこりの二曲について、うたいかたをかえさせようと思ったら、私を自分好みの女にかえようとしてると言って、ナミは怒ったんだ」
ナミとのいさかいを、小川はそんなふうに説明した。
「人を自分の好みにはめるなよ。出たとこ勝負なんだから」
「おまえに言われなくても、わかってる。ミーヨは?」
「好きなようにやってる」
「オートバイか」
「うん」
「死ぬぞ」
「え?」
「オートバイにかけては天才にちかいんだ。おまえなんか、ぜんぜんかなわない素質だから」
「それは知ってる」
「でも、死ぬよ」
「なぜ?」