ぜいたくな昼寝のあと、ぼくは、山道をくだっていった。いつも東京の道路ばかり走っているぼくにとって、650RS・W3で山道をいくのは、ちょっとしたエンデューロだ。
陽がまだ高くても、山道では、四時をすぎると、気温が急に落ちはじめる。それまでに、ぼくは、国道18号線に出ていたかった。
山道を降りながら、気温がいっこうにさがらないことに、ぼくは気づいた。
上信越高原のほうに、遠く雷鳴を聞いた。
空を見ると、険悪そうな濃い灰色の雲が、急速に広がりつつあった。夕立だ。
降られる。
と思ったら、もう、燃料タンクにカン! と音がして、雨滴がひとつ、砕けて散った。
頬にも、当たった。
国道に出たときには、本格的に降っていた。稲妻が光り、雷鳴が轟き、空からまっすぐに、雨が落ちてくる。
夕立は、なぜだか、いつも頭上からまっすぐ、脳天だけを狙って落ちてくる。
雨宿りをするべきだろうか。
だが、もういい加減、濡れている。濡れついでだ、とぼくは思った。とことん濡れても、かわかせばそれでいい。濡れてしまえ。
雨の日にオートバイで走るのはいやだけど、ツーリングで出会った夕立は、許せてしまう。それに、ひと夏に一度くらい、夕立につかまってほんとうにずぶ濡れになるのも、悪くはない。
更埴から上田まで、信越本線ぞいに、国道18号。降られっぱなしだった。
戸倉、上山田あたりで、もっともひどかった。
上田にさしかかったときには、ほんとうに、文句なしのずぶ濡れ。パンツまで雨がとおっていた。股間の三角エリアに水がたまっていた。
すこし腰をうかし、じわっと体重をかけるようにしてシートにすわりなおすと、ジーンズやパンツにしみこんだ水がしぼり出されてくる。
これだけのどしゃ降りだと、ずぶ濡れも、気にならない。爽快ですらある。
だが、すこし雨足が弱くなってくると、濡れた全身が、不快だ。
もっと降れ。
そう思いながら、ぼくは走った。お昼のにぎりめしを食べるまえに、ぼくはシールドにくもり止めを塗った。おかげで、雨滴はみなきれいに流れ落ちる。
どしゃ降りが終ると、すこし弱くなったまま雨足は安定した。雷鳴は、もう遠い。
夏の信州の、夕立の香りは素敵だ。
もっと降れ。雨滴よ、ぼくをいろんな方向から激しく叩いてくれ。
ぼくは、シールドをあげた。雨滴を顔に受けた。
道路の左側に、一軒の建物が、ぽつんと見えた。このあたりは、もう、上田の市内のはずだ。
重そうな、しっかりした黒かわらで屋根をふいた、四角い、古風な建物だ。太い柱がつかってあり、壁は、上半分が黄色い土壁、下半分は、黒く塗った板張りだった。
建物の前にさしかかって、ぼくは、カワサキをとめた。
柱の上のほうに小さな看板がとりつけられてあり、うすれかけた字で、公共浴場、と読めた。
地元の人たちが無料で利用するお風呂だ。
ゆっくり湯につかって、出たころには、夕立もあがっているだろう。風呂で雨やどりなんて、洒落てる。
ずぶ濡れの服を、一刻も早く、脱ぎたくなった。
軒下にオートバイを入れたぼくは、側面の壁づたいに裏へいき、草の中に小さな用を足した。
ひきかえし、うしろのシートから荷物をはずし、木の桟が何本もついている、妙になつかしい重いガラス戸をあけ、なかに入った。
いっぽうの壁に番傘が一本、立てかけてあった。ちかくに、下駄がひとりぶん、脱いであった。
広い板の間が、まんなかのつい立てのような板壁によって、ふたつに区切られていた。そして、その中央の板壁の両側に、棚が何段か、つくりつけてあった。
ブーツを脱ぎ、ぼくは板の間にあがった。
ずぶ濡れのジーンズを両脚からはぎとるように脱ぎ、ダンガリーの長袖シャツを、上半身からひんむいた。
お湯の香りがした。
裸になったぼくは、濡れた服をひとかたまりにして荷物といっしょに棚の隅に押しこみ、重い木戸をあけ、なかに入った。
広い洗い場があり、そのむこうが、湯船だった。黒っぽい石でつくった湯船だ。高い天井の感じとか、ぜんたいの雰囲気は、田舎のよく使いこまれた、古い建物のものだった。
湯気が、立ちこめている。
湯船のそばで、ぼくは、木の洗いおけに湯をくんだ。水道の蛇口がなく、太い竹を割って水路にしたものが壁の穴から洗い場に入ってきていて、きれいな水が洗い場に流れ落ちている。
冷たいその水でお湯をうめ、体をざっと洗い、湯のなかに入った。
湯気のむこうは、大きな窓だ。いちめんのガラスで、この窓だけはアルミ・サッシだった。
しばらく、顎まで、ぼくは湯につかっていた。夕立に打たれ、思ったよりも体が冷えている。
いい気分にあたたまってから、湯船の内側の段になっているところに斜めに腰を乗せ、窓から外を見た。
まだ外は雨だ。裏は斜面になっていて、その底は川らしい。丈の高い夏草がいっぱいだ。
川のむこうは、林だ。樹がうっそうとしている。雨に濡れ、夕暮れが近いせいでもあるのか、濃い緑色にくすぶって薄暗い。
そんな林のなかを、ぼくは、ぼんやりとながめた。
ついさっきまで、夕立に叩かれながらオートバイで国道を走っていたのが、嘘のようだ。いい気分だ。こんな気分が、ただで手に入るとは。
やがて、湯のなかに肩まで腰を落としたまま、両手でお湯をかき分けるようにして、窓に沿って横長の湯船のむこう側へ歩いていった。ふちまで近づき、ふと顔をあげると、そこに人がいた。
「あっ!」
思わず、ぼくは、声に出した。
その人は、女性だった。
若い女性だ。ほぼ全身が、すっかり見えた。
湯船のふちに片手をかけ、中腰になっている。太腿や腰の張り、それに、かたちのいい乳房だって、見えてしまった。
これはいいや、といううれしい気持ちがどこかにありながらも、ぼくは、大いにあわてた。首まですっぽりとお湯に沈め、くるりと、反対をむいた。
そして、顔だけその女性のほうにむけ、
「ごめんなさい」
と、言った。
女湯に入ってしまった。とぼくは思ったからだ。あるいは、いまは、女性が入る時間なのだ。
「はあ?」
と彼女は言った。
もう一度あやまろうとして、ぼくは、彼女の顔を見た。
「ああ、あ、あ!」