今日は、いやな日だ。
一週間の夏休みをとっていたバイトさきのおなじ職場の先輩、沢田秀政が、今日から仕事に出てくる。だから、いやな日。
ぼくは、午後からの出社だ。
カワサキで会社へいき、車溜りに入れ、同僚たちの溜りである地下一階の部屋へいった。
昼食のすぐあとなので、部屋のなかには、顔ぶれがそろっていた。
「よう、ベートーベン」
「英国紳士、登場!」
と、何人かが、声をかけてよこす。
英国紳士とは、ぼくがOHVのバーチカル・ツインに乗っているからだ。イギリス系の、いかにもオートバイらしいクラシカルなエンジンと別体ミッションなのだ。本国のイギリスにも、もうこんなオートバイは、ない。
真四角の、殺風景な部屋だ。天井はダークなグリーンで、鉄板の壁はクリーム色に塗ってあるのだが、きたない黄色にすすけている。
ふたつの壁いっぱいにスチールのロッカーがある。あいた壁には、仕事でよく出向く先の電話番号や、同僚たちの自宅の番号が、大きく書いてはり出してある。
この通信社の記者がニューヨークから持って帰ったというポルノ雑誌の大きなポスターが、そのとなりにテープでとめてある。はじめての人は、これを見ると、みんなおどろく。
大きな四角いテーブルのまわりに、全員がすわっていた。
コークの空きカンや、弁当の容器、スポーツ新聞、マンガなどが、散らばっている。
オートバイのロードレースのクラブに所属している数人の男たちを中心に、ロードレースの話が展開していた。
しばらくして、出社してきた沢田秀政を、ぼくは、視界のはじにとらえた。
テーブルの隅のほうにすわった沢田は、ぼくを見て、立ちあがった。テーブルをまわって、ゆっくり、彼は歩いていく。ぼくは気づかないふりをしていた。
もういっぽうの壁に、ホンダ・GL1000LTDゴールドウイングの、横に長い巨大なポスターが貼ってある。それまで貼ってあったこまかなピンナップなどをすべてとりはらい、ゴールドウイングのポスターだけを貼ったのだ。
燃料タンクとサイド・カバー、それにラジエター・カバーの黄色が、この部屋の壁の色とよく似ている。
しばらくそのポスターをながめてから、ぼくは、ゆっくり、振りかえった。部屋の入口ちかくに、沢田が突っ立っていた。
沢田の鋭い視線が、ぼくの目をとらえた。
こい! という意味をこめて、沢田がぼくに顎をしゃくった。そして、半開きのドアから、外へ出ていった。席を立ったぼくは、そのあとにしたがった。
沢田の大きな体が、薄暗い廊下を、のっそりと歩いていく。角を曲がる。
何本もの廊下が、おたがいに交差しあいながら、いろんな方向にのびている。曲がり角が、いくつもある。
ぼくたちオートバイの原稿輸送員が臨時に泊まるときに使う仮眠室につながった廊下に出た。沢田は、足をとめた。肩をいからせ、太い両脚をふんばり、ふりかえった。
沢田から数歩はなれて、ぼくは、立ちどまった。
「いいからもっとこっちへこい」
ドスのきいた低い声だ。
さらに二歩、ぼくは、沢田に近よった。
沢田は、ぼくとおなじくらいの背丈だ。だが、体のつくりが極端にごっついため、ぼくよりずっと大きく感じられ、威圧的だ。
丸い大きなイガグリ頭。肉の分厚い、ジャガイモのような顔。鼻が、みごとにひしゃげていて、不敵な両の頬に張り出している。口は横に大きく、顎が万力のようだ。鼻の下に、ちょびひげがある。首は、まるで丸太だ。
いつも、レイバンのサングラスをかけている。今日は、グレーの丸首のスエット・シャツに、アメ横で買ったという迷彩の戦闘ズボン、それに、モトクロスのブーツ。半袖から突き出ている両腕が、特大のソーセージみたいだ。
あのかわいい冬美に、こんないかつい兄がいるとは。
「おい。橋本の馬鹿」
「はい」
「なにが、はいだ。ふざけるな。浅間へは、いったかよ」
「いきました」
「いつ」
「四日前、かな」
「考えたか」
「考えました」
「どうなんだ」
「やっぱり、冬美とは、別れます」
「気軽に呼びすてにするな」
「冬美さん」
「別れりゃあいいってもんじゃないんだぞ」
「わかってます」
「なにが、わかってんだ」
ぼくは、黙った。黙るよりほか、ない。
「ただの、やり得じゃねえか」
これにも、こたえようがない。
このふた月ちかく、沢田は、このひと言で、ぼくを責めてきた。
「浅間で、なにを考えた」
「冬美さんのことです」
「どうするんだ」
「だから、結局、別れるしかないんです」
「なにが、だからだよ。生意気な口をきくな」
「はい」
「なにが、はいだ」
沢田は、ぼくのすべてが、気に入らないらしい。
「どうすればいいんですか」
このひと言を、何度、ぼくは沢田に喋ったか知れない。
「どうするつもりなんだ」
「ぼくと冬美さんと、ふたりでこうなったことですから」
「うるせえやあ。おまえが口説いたからだ。処女ってものは、男に口説かれないかぎり、やたらに乗っけたりはしないもんだ」
ぼくは、また、黙った。
「どうなんだよう」
ぼくは、なにもこたえられない。追いつめられたと言えば、たしかにそう言える。
沢田は、一歩、ぼくに近よった。
片手にさげていた黒い皮のオートバイ・ジャンパーのポケットから、沢田は一枚の紙きれを取り出した。
ぼくの鼻さきにつきつけ、
「よく読んどけ」
と、言った。
「決闘だ。日時と場所が、書いてある。逃げたら、殺すぞ」
ぼくは、紙を見た。リコピーだ。地図に、文字がちょっとそえてある。
沢田の右腕が、一閃した。
あっ、と気づいたときには、もうおそい。沢田の、ばか大きいこぶしを、ぼくは、顎の先端に、まともにくらった。
両足の下から廊下がいきなり飛び去ったみたいに、ぼくは、あおむけにひっくりかえった。恥ずかしいほど、あっけない。
背中から廊下に叩きつけられた。肺のなかから空気がなくなる。口をぱくぱくさせるのだが、呼吸できない。体ぜんたいにしびれが走っていて、言うことをきかない。頭のなかが、ガーンと鳴っている。顎のさきの鋭い痛みが、鈍痛となって脳ミソのあちこちに散らばっていく。
ぼくをその場に残して、沢田は、歩み去った。しばらく、ぼくは立てなかった。