とても、悲しい。悲しいと同時に、底なしのうんざりを、頭からひっかぶってしまったような気持だ。
重く暑苦しい、曇天の日の午後。
東京の空は、雲でおおわれ、その雲の下に、スモッグの層が、厚くとじこめられている。風がない。むし暑い。
重苦しい灰色の底で、東京ぜんたいが、うめき声をあげ、苦しまぎれの寝がえりを打とうとしている。だが、寝がえりは、打てない。
ぼくはいま、高速環状線の江戸橋インタチェンジにいる。エンジンを切ったカワサキにまたがり、江戸橋のランプから箱崎町のランプに抜ける走行車線の外にとまっている。低いコンクリートの壁にぴたりと寄せてカワサキをとめ、片足をつき、じっとしている。
右まわりの、ゆるやかなカーブの頂点だ。うしろからひっきりなしに、トラックやさまざまな車が、うなりをあげてふっ飛んでくる。カーブの外へはらみ、とまっているぼくを追い抜き、走り去る。
一台一台の車の音がひとつにかさなり、いつまでも連続してつづいている。その音がぼくの全身を押しつつみ、圧迫してよこす。不吉な地鳴りのような音だ。
いまのぼくの気分に、まったくふさわしい。
対向車線も、車の流れが、すさまじい。神田橋のほうへまっすぐに走っていく車。そして、インタチェンジで大きくカーブし、宝町の方向へ抜けていく車のつらなり。
震動が、カワサキの車体をとおして、ぼくの体に伝わってくる。
うなりをあげてぼくの左を抜けていく巨大なトラックが、風圧をぼくの体にぶつける。トラックのパワーが空気のなかをまっすぐにぼくを直撃し、ぼくの上体が思わず前にかしぐ。
排気ガスのかたまりが、インタチェンジの底によどんだまま、動かない。どこを見ても、きたなく黒くすすけたコンクリート。高速道路を支えるコンクリートの大きな四角の柱の不吉な列。荒れた路面。高速道路の周辺に、びっしりと建っている大小さまざまなビルは、排気と騒音の中で不気味な増殖をつづけているみたいに見える。
トラックのタイアの、路面を力まかせに踏みつける音が、背後から近づいてくる。目には見えない怪物のように、その音は急激に大きくなって力を増し、ぼくの背にのしかかり、頭をどやしつけてくる。
カーブを外側いっぱいにはらんで抜けていくトラックの内側を、白いライトバンが、ホーンの悲鳴を放ちつつ、猛スピードですり抜けていく。ぼくのカワサキすれすれだ。
そのライトバンが、カーブを抜けるあいだ鳴らしつづけていたホーンの音にこたえるかのように、奇怪なエネルギーに満ちた自動車という名の怪物たちが、あちらからもこちらからも、ホーンを鳴らした。無数のビルの壁面や、この高速道路の裏面や柱にこだまし、雲にとじこめられたスモッグの空に、やがて消えていった。
呉服橋のほうから来て、大きく四十五度以上にカーブを描いて宝町のランプに曲がりこんでいる車線が、ぼくの頭上におおいかぶさっている。昭和通りの上を上野から来ておなじく宝町に抜ける車線が、おなじくカーブをつくって、それによりそっている。
箱崎のほうから来る車線も、左右の両端の車線が、本線をまんなかに残して上へせりあがり、大きく左へくねり、宝町のランプにのびていく。この車線もまた、ぼくの頭上だ。
ちょっとした地獄の底だ。
肺のなかに排気ガスがびっしりと入りこみ、胸の底に重く沈殿している。ほかの車のタイア音と振動と風圧とで、全身の感覚が麻痺している。
なぜ、ぼくは、こんなところにいるのだろうか。
ぼくとの決闘で転倒した沢田は、入院してしまった。左の肩の脱臼。あばら骨の骨折。そして腰の骨にひびが入ったそうだ。おなじ職場の、栄光ロードレース・クラブの男たちが、そう言っていた。
あの日以来、沢田は、休職扱いとなっている。
入院している沢田に会いにいこうと思い、ロードレース・クラブの男たちに入院さきをたずねたのだが、教えてくれない。いくら頼んでも駄目なのだ。
「教えてくれるなと口止めされているから」
と、ロードレース・クラブのいちばんの責任者が言っていた。
ぼくは銀行へいき、貯金を全額、ひきおろした。明るい明日をめざして、すこしずつためにためておいたおかねだ。五十一万円になっていた。
カウンターでくれた袋に入れ、会社へいき、『沢田秀政様』と、上書きし、栄光ロードレース・クラブの責任者をやっている男に、渡した。
「沢田さんにです」
「おう」
と言って受け取り、
「なんだ、分厚いな。五百円札か」
と、彼は、笑っていた。
明くる日、彼は、沢田のサインの入った領収書をくれた。
「ほらよ、領収書。沢田は、いらないと言ったけど、取っとけって俺たちがすすめた」
ほがらかにそう言い、領収書をぼくに手渡してくれた。
「裏を見てみな」
と、彼は言った。
領収書の裏には、電話番号がひとつ、走り書きしてあった。
「病院で、沢田の妹に会ったんだ。あのくらい可愛けりゃ、男なら誰だって口説きたくなるさ。その番号に電話してみろ」
その電話番号に、見おぼえはなかった。冬美の自宅の番号ではない。
「就職したさきかな」
「そうだろうな。電話くれるようにおまえに伝えてくれって言われたから」
今日、一時間ほど前、ぼくはその番号に電話をしてみた。
なにかの会社だった。交換台の、早口な若い女性が、
「沢田と申しますと、どの課でしょう、おわかりですか?」
と、ききかえした。
「この春、入社された女性のかたです。沢田冬美さん」
「お待ちください」
しばらくして、
「もしもし」
と、冬美の声だ。
ぼくは、なぜか、ドキドキしてしまった。声がうまく出ないし、喋り方の調子が、おかしい。
「冬美さんですか。ぼくです。橋本です」
「はい」
と、冬美は普通に言い、そのまま、黙っていた。
昭和通りの電話ボックスで、車の流れをながめながら、ぼくは途方にくれた。
「ごめん」
ひとまず、ぼくは、そう言った。
「いいのよ」
「もういちどくらい会えると思ったのだけど」
「そうね。でも――」
「兄さんは?」
「兄のことは言わないで」
アタッシュ・ケースをさげた男が、電話ボックスの外に立った。いらいらしたような顔で、ガラスごしにぼくの顔を見た。
「近くから電話してるんだ」