← Library‹ 彼のオートバイ、彼女の島 7

とても、悲かなしい。悲かなしいと同時どうじに、底そこなしのうんざりを、頭あたまからひっかぶってしまったような気持きもちだ。

重おもく暑苦あつくるしい、曇天どんてんの日ひの午後ごご。

東京とうきょうの空そらは、雲くもでおおわれ、その雲くもの下したに、スモッグの層そうが、厚あつくとじこめられている。風かぜがない。むし暑あつい。

重苦おもくるしい灰色はいいろの底そこで、東京とうきょうぜんたいが、うめき声ごえをあげ、苦くるしまぎれの寝ねがえりを打うとうとしている。だが、寝ねがえりは、打うてない。

ぼくはいま、高速こうそく環状かんじょう線せんの江戸橋えどばしインタチェンジにいる。エンジンを切きったカワサキにまたがり、江戸えど橋はしのランプから箱崎町はこざきちょうのランプに抜ぬける走行そうこう車線しゃせんの外そとにとまっている。低ひくいコンクリートの壁かべにぴたりと寄よせてカワサキをとめ、片足かたあしをつき、じっとしている。

右みぎまわりの、ゆるやかなカーブの頂点ちょうてんだ。うしろからひっきりなしに、トラックやさまざまな車くるまが、うなりをあげてふっ飛とんでくる。カーブの外そとへはらみ、とまっているぼくを追おい抜ぬき、走はしり去さる。

一いち台だい一いち台だいの車くるまの音おとがひとつにかさなり、いつまでも連続れんぞくしてつづいている。その音おとがぼくの全身ぜんしんを押おしつつみ、圧迫あっぱくしてよこす。不吉ふきつな地鳴じなりのような音おとだ。

いまのぼくの気分きぶんに、まったくふさわしい。

対向たいこう車線しゃせんも、車くるまの流ながれが、すさまじい。神田橋かんだばしのほうへまっすぐに走はしっていく車くるま。そして、インタチェンジで大おおきくカーブし、宝町たからちょうの方向ほうこうへ抜ぬけていく車くるまのつらなり。

震動しんどうが、カワサキの車体しゃたいをとおして、ぼくの体からだに伝つたわってくる。

うなりをあげてぼくの左ひだりを抜ぬけていく巨大きょだいなトラックが、風圧ふうあつをぼくの体からだにぶつける。トラックのパワーが空気くうきのなかをまっすぐにぼくを直撃ちょくげきし、ぼくの上体じょうたいが思おもわず前まえにかしぐ。

排気はいきガスのかたまりが、インタチェンジの底そこによどんだまま、動うごかない。どこを見みても、きたなく黒くろくすすけたコンクリート。高速こうそく道路どうろを支ささえるコンクリートの大おおきな四角しかくの柱はしらの不吉ふきつな列れつ。荒あれた路面ろめん。高速こうそく道路どうろの周辺しゅうへんに、びっしりと建たっている大小だいしょうさまざまなビルは、排気はいきと騒音そうおんの中なかで不ふ気味きみな増殖ぞうしょくをつづけているみたいに見みえる。

トラックのタイアの、路面ろめんを力ちからまかせに踏ふみつける音おとが、背後はいごから近ちかづいてくる。目めには見みえない怪物かいぶつのように、その音おとは急激きゅうげきに大おおきくなって力ちからを増まし、ぼくの背せにのしかかり、頭あたまをどやしつけてくる。

カーブを外側そとがわいっぱいにはらんで抜ぬけていくトラックの内側うちがわを、白しろいライトバンが、ホーンの悲鳴ひめいを放はなちつつ、猛もうスピードですり抜ぬけていく。ぼくのカワサキすれすれだ。

そのライトバンが、カーブを抜ぬけるあいだ鳴ならしつづけていたホーンの音おとにこたえるかのように、奇怪きっかいなエネルギーに満みちた自動じどう車しゃという名なの怪物かいぶつたちが、あちらからもこちらからも、ホーンを鳴ならした。無数むすうのビルの壁面へきめんや、この高速こうそく道路どうろの裏面りめんや柱はしらにこだまし、雲くもにとじこめられたスモッグの空そらに、やがて消きえていった。

呉服橋ごふくばしのほうから来きて、大おおきく四十よんじゅう五ご度ど以上いじょうにカーブを描えがいて宝町たからまちのランプに曲まがりこんでいる車線しゃせんが、ぼくの頭上ずじょうにおおいかぶさっている。昭和しょうわ通とおりの上うえを上野うえのから来きておなじく宝町たからまちに抜ぬける車線しゃせんが、おなじくカーブをつくって、それによりそっている。

箱崎はこざきのほうから来くる車線しゃせんも、左右さゆうの両端りょうたんの車線しゃせんが、本線ほんせんをまんなかに残のこして上うえへせりあがり、大おおきく左ひだりへくねり、宝町たからまちのランプにのびていく。この車線しゃせんもまた、ぼくの頭上ずじょうだ。

ちょっとした地獄じごくの底そこだ。

肺はいのなかに排気はいきガスがびっしりと入はいりこみ、胸むねの底そこに重おもく沈殿ちんでんしている。ほかの車くるまのタイア音おとと振動しんどうと風圧ふうあつとで、全身ぜんしんの感覚かんかくが麻痺まひしている。

なぜ、ぼくは、こんなところにいるのだろうか。

ぼくとの決闘けっとうで転倒てんとうした沢田さわだは、入院にゅういんしてしまった。左ひだりの肩かたの脱臼だっきゅう。あばら骨ぼねの骨折こっせつ。そして腰こしの骨ほねにひびが入はいったそうだ。おなじ職場しょくばの、栄光えいこうロードレース・クラブの男おとこたちが、そう言いっていた。

あの日ひ以来いらい、沢田さわだは、休職きゅうしょく扱あつかいとなっている。

入院にゅういんしている沢田さわだに会あいにいこうと思おもい、ロードレース・クラブの男おとこたちに入院にゅういんさきをたずねたのだが、教おしえてくれない。いくら頼たのんでも駄目だめなのだ。

「教おしえてくれるなと口止くちどめされているから」

と、ロードレース・クラブのいちばんの責任せきにん者しゃが言いっていた。

ぼくは銀行ぎんこうへいき、貯金ちょきんを全額ぜんがく、ひきおろした。明あかるい明日あすをめざして、すこしずつためにためておいたおかねだ。五十ごじゅう一いち万まん円えんになっていた。

カウンターでくれた袋ふくろに入いれ、会社かいしゃへいき、『沢田さわだ秀政ひでまさ様さま』と、上書うわがきし、栄光えいこうロードレース・クラブの責任せきにん者しゃをやっている男おとこに、渡わたした。

「沢田さわださんにです」

「おう」

と言いって受うけ取とり、

「なんだ、分厚ぶあついな。五百ごひゃく円えん札さつか」

と、彼かれは、笑わらっていた。

明あくる日ひ、彼かれは、沢田さわだのサインの入はいった領収りょうしゅう書しょをくれた。

「ほらよ、領収りょうしゅう書しょ。沢田さわだは、いらないと言いったけど、取とっとけって俺おれたちがすすめた」

ほがらかにそう言いい、領収りょうしゅう書しょをぼくに手渡てわたしてくれた。

「裏うらを見みてみな」

と、彼かれは言いった。

領収りょうしゅう書しょの裏うらには、電話でんわ番号ばんごうがひとつ、走はしり書がきしてあった。

「病院びょういんで、沢田さわだの妹いもうとに会あったんだ。あのくらい可愛かわいけりゃ、男おとこなら誰だれだって口説くどきたくなるさ。その番号ばんごうに電話でんわしてみろ」

その電話でんわ番号ばんごうに、見みおぼえはなかった。冬美ふゆみの自宅じたくの番号ばんごうではない。

「就職しゅうしょくしたさきかな」

「そうだろうな。電話でんわくれるようにおまえに伝つたえてくれって言いわれたから」

今日きょう、一いち時間じかんほど前まえ、ぼくはその番号ばんごうに電話でんわをしてみた。

なにかの会社かいしゃだった。交換こうかん台だいの、早口はやくちな若わかい女性じょせいが、

「沢田さわだと申もうしますと、どの課かでしょう、おわかりですか?」

と、ききかえした。

「この春はる、入社にゅうしゃされた女性じょせいのかたです。沢田さわだ冬美ふゆみさん」

「お待まちください」

しばらくして、

「もしもし」

と、冬美ふゆみの声こえだ。

ぼくは、なぜか、ドキドキしてしまった。声こえがうまく出でないし、喋しゃべり方かたの調子ちょうしが、おかしい。

「冬美ふゆみさんですか。ぼくです。橋本はしもとです」

「はい」

と、冬美ふゆみは普通ふつうに言いい、そのまま、黙だまっていた。

昭和しょうわ通とおりの電話でんわボックスで、車くるまの流ながれをながめながら、ぼくは途方とほうにくれた。

「ごめん」

ひとまず、ぼくは、そう言いった。

「いいのよ」

「もういちどくらい会あえると思おもったのだけど」

「そうね。でも――」

「兄あにさんは?」

「兄あにのことは言いわないで」

アタッシュ・ケースをさげた男おとこが、電話でんわボックスの外そとに立たった。いらいらしたような顔かおで、ガラスごしにぼくの顔かおを見みた。

「近ちかくから電話でんわしてるんだ」

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