それから二日ほどのちの午後、玉村さんのうちでは、おとうさんの銀之助さんは銀座のお店へ、おかあさんは麹町の親類へおでかけになって、高校一年の光子さんと、銀一君のふたりが、書生さんや、女中さんたちといっしょに、おるす番をしていました。
光子さんと銀一君は光子さんの部屋で、おやつのお菓子をたべおわったところです。
「おねえさん、それじゃあ、ぼく、じぶんの部屋で、宿題をやるからね。」
銀一君は、そういって、部屋を出ていきました。なんだか、へんですね。銀一君は、あの地底の牢獄から、にげだしてきたのでしょうか。そんなにやすやすと、にげられるはずはありません。
ひょっとしたら、いまうちにいる銀一君は、にせもののほうではないのでしょうか。まったくおなじ顔をしているので、おとうさんも、おかあさんも、おねえさんも、すっかりだまされてしまって、にせものを、ほんとうの銀一君と、しんじているのではないでしょうか。
銀一君がいってしまうと、光子さんは、机の前のいすにかけたまま、窓のほうをむいて、広い庭を、ながめていました。
すると、庭の木のしげみのおくから、みょうな人間が、あらわれてきたではありませんか。
女のこじきです。年は光子さんとおなじ十六ぐらいに見えます。かみの毛はモジャモジャになって、ひたいにかぶさり、服はボロボロにやぶけて、肩から、腰から、たくさんのひもがぶらさがっているように見えます。それに、くつ下も、くつもはかない、どろまみれの足です。
そのこじきむすめが、じっと光子さんを見つめて、こちらにちかづいてくるのです。
ふつうのむすめさんなら、こんなものを見たら、おくへにげこんでしまったでしょうが、光子さんは、にげません。光子さんは、たいへん、なさけぶかいたちで、かわいそうな人を見ると、だまってはいられないのです。
あるとき、道ばたにすわっている、おばあさんのこじきを見ると、つくったばかりの外とうをぬいで、そのこじきにきせかけたまま、さっさとかえってきたことがあります。
また、あるときは、子どものこじきを、自動車の中にひろいあげて、うちにつれてかえり、おかあさんに、そのこじきの子を、うちにおいてくださいと、たのんだこともあります。
光子さんは、そんなふうに、なみはずれた、なさけぶかい心をもったおじょうさんでした。
ですから、庭にあらわれた、こじきむすめを見ても、にげだすどころか、ちかづいてきたら、なにかしんせつなことばをかけてやろうと、じっとまちかまえているのでした。
こじきは、やがて、窓の下までくると、そこに立ったまま、ジロジロと光子さんをながめながら、みかけによらぬ、きれいな声でいいました。
「おじょうさん、なぜにげないの? あたしがこわくないの?」
光子さんは、それをきくと、この子はひがんでいるのだ、だから、こんな、ひにくなことをいうのだと、かなしく思いました。そこで、できるだけ、やさしい声で、たずねてみました。
「あんた、どこから、はいってきたの?」
「門からよ。だって、ねるところがなければ、どこにだって、はいるわ。ゆうべは、お庭のすみの物置小屋でねたの。」
あんがい、ちゃんとしたことばをつかっている。このむすめは、生まれつきのこじきではないらしいと、光子さんは考えました。
「おなかがすいているんでしょう。あんた、おとうさんや、おかあさんは?」
「なんにもないの。みなし子よ。そして、おなかのほうは、おさっしのとおり、ペコペコだわ。」
「じゃあね。人に知れるといけないから、この窓から、はいっていらっしゃい。いま、わたしが、なにか、たべるもの、さがしてきてあげるわ。」
「だれも、きやしない?」
「だいじょうぶよ。このうちには、いま、わたしと弟きりで、あとは書生や女中さんばかりよ。この部屋には、だれもこないわ。」
それをきくと、こじきむすめは、窓をのりこえて、はいってきました。光子さんは、こじきをいすにかけさせておいて、部屋を出ていきましたが、やがて、クッキーのカンと、牛乳のびんを二つと、コップをもって、かえってくると、それをこじきの前のテーブルにおき、
「さあ、おあがりなさい。」
とすすめるのでした。
こじきは、よっぽど、おなかがすいていたとみえて、クッキーをわしづかみにして、口にほおばりましたが、そのとき、ひたいにたれていたかみの毛を、うるさそうにかきあげたので、はじめて、こじきの顔が、はっきり見えました。
ああ、なんて美しいこじきでしょう。きたない服にひきかえて、顔だけは、すこしもよごれていないのです。色白のふっくらとしたほお、パッチリとした、美しい目、赤いくちびる。
「まあ、あんた……。」
光子さんは、さけぶようにいって、思わず立ちあがると、ドアのほうへ、にげだしそうにしました。
光子さんは、ひどくおどろいたのです。こじきが、美しい顔をしていたためばかりではありません。もっと、びっくりすることがあったのです。
すると、こじきむすめは、ニッコリ笑って、
「ああ、うれしい。おじょうさんにも、やっぱり、そう見えるの? あたし、ほんとうにうれしいわ。こんなきたないこじきの子が、このりっぱなおやしきのおじょうさんと、そっくりだなんて。」
ほんとうに、そっくりでした。一方は、ちゃんとといたかみの毛、きれいな服、一方はモジャモジャ頭、ボロボロの服、そのちがいをべつにすると、ふたりは、背の高さから、肉づきから、顔かたちまで、まるでふたごのように、おそろしいほど、よくにているのです。
「あたし、もうずっと前から、おじょうさんと、あたしと、ふたごのように、よくにていることを知っていました。もし、あのおじょうさんと、ひとことでも、お話ができたらと、もうそれが、あたしの、一生ののぞみだったのです。いま、そののぞみがかなって、あたし、こんなうれしいことはありませんわ。」
こじきむすめは涙ぐんでいました。
「まあ、こんなふしぎなことって、あるもんでしょうか。」
光子さんは、それまでよりも、十倍も、なさけぶかい心になって、ため息をつきながらいうのでした。