遠くから見ると、その工場はいつも白い霧に包まれている。工場から立ちのぼる湯気のような、湯気よりも濃密な白い煙が、風の吹く日は風の吹く方向へなびき、風のない日は立ちのぼったところから下へ、ゆっくりと舞いおりて来て、工場や付属の建物や、その周囲一帯の地面やくさむらや、道を隔てた根戸川の揚げ場までを、まっ白に塗りつぶすのであった。
そこは東に百万坪の荒地へ続く芦原、西は根戸川に接していて、工場のほかに事務所と、工員たちの小さな住宅があり、貝殻置場と薪小屋が並んでいた。事務所には工場主と、幾人かの事務員が詰めている。かれらが出勤すると、正面の扉は開かれるが、夏でも窓は閉めたままだし、かれらが帰ると扉はまたぴたりと閉められてしまう。――そうしなければ、いや、そうしていてさえも、焼かれた貝殻の微粒粉は、どこからともなく舞い込んで来て、事務所の中のあらゆる家具や備品や、床板の上にまで白く積り、拭けば拭くあとから積るのであった。――掃除をすることはばかげたことなのだ。室内に溜まった石灰を掃き出そうとすれば、あけた扉や窓から新たに石灰粉が舞い込んで来る。したがって年に二度か三度、工場の釜場の火を消すとき以外には、決して掃除などはしなかった。工場主も事務員たちも、帳簿とか机の上とか、そのとき必要な物や場所を、できるだけ静かにぬぐい、歩きまわるときはもとより、ペンを動かすにさえできるだけ注意ぶかく、静かにすることが習慣になっていたし、用事以外には話したり笑ったりすることもなかった。
事務所はいつも静かだった。貝殻が缶詰工場から運ばれて来ると、二人の事務員があらわれる。一人はその数量を計り、一人は記帳をして、運んで来た者に伝票を渡す。貝殻を運んで来た者も、もう馴れているので、あまり口はきかないし、事務員も殆んど無言のままだ。伝票を貰った缶詰工場の雇人は箱車を曳いて帰り、こちらの二人は事務所へはいって扉を閉める。ほかに石灰を買いつけに、月に一度ずつ仲買人が来るが、これもなが話はしていない。オート・バイがやかましい音をふり撒きながらやって来、用談を済ませるとすぐに、またオート・バイのやかましい音と、青白い排気ガスをふり撒きながら去ってゆく。こうして退社時間になると、かれらは次つぎと黙って帰り、最後に工場主が、表の扉の鍵を掛けて去るのであった。
工場は木造のトタン屋根で、建坪は十五メートルに三十メートルくらい。高さは屋根の上の換気窓まで、約十メートルほどあった。内部は二重の板張りで、貝を焼く窯が三基並んでい、おのおの貝殻を投げ入れる口と、焼きあげて出来た石灰を掻き出す口と、それらの下に、薪を燃やす大きな焚口が付いていた。
工場の外部もそうであるが、内部はもっと粉塵がひどく、柱も板壁も、踏段も床板も、まっ白に石灰がこびり着いているし、あたりには焼ける貝殻の微粒粉が、濃霧のようにたちこもっていて、二フィートはなれた人影もおぼろげにしか見えなかった。
工員は十五人いた。男が九人、女が六人、五つ組が夫婦で、あとの男たちは独身だし、女一人は雑役の老婆だった。
かれらの姿を初めて見た者は、おそらく一種のぶきみさにおそわれるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に剃り、眉毛もないし、腋やその他の躰毛もすべて剃りおとしているといわれる。それは石灰粉が毛根に付くと、毛が固まるからだそうで、胸とか腰部を見なければ、男女の差は殆んどわからなかった。
男も女も、逞しい躯つきであった。髪の毛を剃りおとした頭部が小さくみえるためか、その裸の肉躰の逞しさは不均衡であり、眉毛のないとろっとした眼や、いつもむすんだまま動くことのない唇など、見る者に異常な、非人間的な印象を強く与えた。女のほうはその感じが特にひどい。頭蓋のあらわな不恰好さ、躯を動かすたびに揺れる重たげな乳房、厚く肉付いて、圧倒するような量感のある広い腰、そうして畸型かと思われる曲った短い足。茶色にやけた肌いちめんに、石灰粉の斑にこびりついたまま、前跼みの姿勢でのろのろと鈍重に歩いてゆくようすは、人間というよりも、なにかえたいの知れないけものというようにさえみえた。
仕事は二十四時間、一年に二度か多くて三度、窯の掃除をするとき以外に、焚口の火を消すことはない。働くのは十人で、五人ずつ交代に寝たり食事をしたりするほか、月に一回、これも交代で休みがある。けれどもかれらは町へは出ないし、町の住民たちとも決してつきあおうとはしない。工場と、狭い小さな棟割り住宅だけがかれらの世界であり、そこへは誰をも寄せつけなかった。
事務所の人たちが無口である以上に、かれらは無口であり無表情であった。動作はひどく緩慢で鈍く、いつも背中に重い荷物でも負っているように感じられた。しばしば、かれらの幾人かは工場を出て、根戸川の土堤に並んで腰をおろし、弁当を喰べたりタバコをふかしたりする。夫婦ならば夫婦で並んでいるのだろうが、どの一と組がそれであるかは見分けがつかない。みんな川波をみつめたり、濁った眼を細めて対岸のいかずちにある船大工の小屋を眺めたりしながら、黙って(私のノートには「苔のついた日蔭の石仏たちのように」と記してあるが)弁当を喰べ、タバコをふかすのであった。お互いに顔を見ようともせず、話しあうこともない。同じ場所に躯をよせあっていながら、一人ひとりがお互いにまったく孤立しているようであった。
「あいつらはな」と町の少年たちは囁きあった、「みんな懲役人だぞ」
「人殺しもいるだってよ」
「んだ」と昂奮のあまり一人が息をはずませて囁いた、「こんどへえったあの赤痣のあるやつは、二人も殺したっていうだ、ほんとだぞ」
その男は三十五から四十五歳のあいだくらいにみえ、左のこめかみから頬にかけて、赤黒い色の大きな痣があった。