元井エンジは葛西汽船の七号船の水夫であった。十四の年から通船に乗り、二十三の年にエンジナーの免状を取って、二十八号船のエンジさんになった。兵隊の経験はない。背丈が足らなかったのだ。五尺そこそこのずんぐりした躯つきで、毛深くて、角張った、しかんだような顔をしていた。滅法しゃがれ声だから、話をするのに苦しそうだし、そのためというよりも性分だろうが、話しべたで、めったに人と話したがらなかった。仇名は「もくしょう」という。もくしょうは冬期によく捕れる蟹で、握りめしのようなむっくりした形をしてい、茶色で、全体が毛だらけであり、毛蟹とも呼ばれていたが、それは殆んど冒涜的にまで元井エンジに似ていた。
彼にはまだ水夫のころから好きな娘があった。新川堀の「臼田屋」という、雑貨と洋食屋を兼業している家の二女で、名をおさい、年は彼より二つ下だった。彼女には兄と妹があり、洋食屋のほうは兄がやっていた。必要のないことは省略しよう。おさいは昼のうち雑貨店のほうで働き、夕方からは洋食屋のほうを手伝った。色が黒く、小柄で、縹緻もかなりいいし、勝ち気ですばしこくて、手も口も達者だった。――臼田屋は通船の発着所のほぼ前にあるから、船員たちとはもとより馴染だったし、洋食部のほうには、土地の漁師や若者たちもよく集まるので、おさいのほかに二人の女給がいた。その二人は厚く白粉を塗り、鼻がばかになるほど安香水を匂わせ、すぐに客の膝へ腰掛けたり、客の吸っているタバコをひったくって吸ったりするのが、現代的サービスだと信じきっているような女性であった。
おさいは白粉もつけず、ふだん着のままで店にあらわれ、てきぱきと料理の皿やビールや酒を、運んだりさげたりしながら、客たちがもっとメートルをあげるようにと、絶えず、巧みに女給を煽るのであった。しかし、自分は決して客の相手にならず、話しかけられても簡単に受けながすだけだし、諄く冗談を云われたり、躯へ触られでもしたりすると、客のほうで消えてしまいたくなるほど辛辣な言葉で、てきびしく容赦なくやりこめた。
――おらんとこの五号船のぶっくれエンジンみてえだ。
東湾汽船の三十六号船に乗っている留さんがそう云った。その五号船はごく古いもので、エンジンを発動させると凄いような排気音を放ち、船ぜんたいをばらばらにするかと思うほど揺りたてる。五号船に乗っているあいだは、「うっかり口もきけない」といわれるくらいであった。
そのおさいが元井エンジを好きになった。きっかけを作ったのは、云うまでもないがおさいのほうだ。彼は船で使う草履や、塵紙、鉛筆、雑記帳などを買うとか、また、ときたま食事をしに寄る程度だし、そんな場合にもおさいに話しかけるのはおろか、眼をあげて顔を見ることさえなかった。――どんなふうにして二人が将来の約束をするようになったか、知っている者はない。或るとき、洋食部で彼がなかまにからかわれていた。小学校も満足に出ていないもくしょうが、エンジナーになる勉強をしているというのは、禿頭で髷を結うようなものだ、などというわけである。彼は相手にならなかった。怒りと恥ずかしさのために、――というのは、そういう勉強をしていることは内緒にしていたからで。しかし彼は、赤黒く充血した顔を伏せ、黙ってライスカレーの匙を使っていた。するとおさいが出て来て、からかっているなかまをやっつけた。五号船のエンジンどころではなかったらしい、日にやけた彼女の顔が蒼ざめて細くなり、眼から涙をこぼしていたそうであった。
二人がいい仲になっている、という噂はそれから弘まった。いろいろな評が取り交わされ、いっとき「もくしょう」の存在が大きく、蒸気乗りたちを圧迫した。臼田屋のおさいをものにしたということ、しかも相手がもくしょうだとあってみれば、影響の大きさと強さは尋常ではなかったのである。彼は周囲の眼をそらし、噂に耳を塞ぎ、非凡な精力で勉強を続けた。そうして、どのくらいの期間が経ったかはっきりしないが、ついに機関士の免状を取った。
ここまでの経過はこまかい部分がわかっていない。婚約期間が仮に二年だったとして、そのあいだ二人だけで逢ったことがあるのか、また、恋人同士らしい交渉があったか、ひそかに逢ったとすればどこでどんなふうだったか、愛の言葉を囁くとか、口喧嘩などが交わされたか。などという点については、なんの噂もなく、かげぐちも聞くことはできなかった。
彼は二十八号のエンジナーになり、「元井エンジ」と、多少の皮肉をこめて呼ばれるようになった。そこで、彼は故郷へ帰省した。祖先の展墓を兼ねて、自分の出世を報告するために、――故郷は岩手県のどこかで、汽車をおりてからバスで半日ほどゆき、それから歩いて何里とかの山を越す、といったような寒村であった。もちろん結婚することも話したであろう、ほぼ半月ほど経ってから、彼は土産物を持って帰り、「臼田屋」へおさいを訪ねていった。――おさいはいたが、彼を見るととびだして来て、いきなり激しく怒りだした。怒って罵りながら、両手の指を鉤のように曲げ、全身を音のするほどふるわせていた。
――おめえは徳行にふじという女がいる、その女はおめえの子を産んだ、とおさいは叫んだ。この恥知らず、よくもおんだらを騙したな。
彼にはわけがわからなかった。
――しらばっくれるな、とおさいはかなきり声をあげた。おら自分でその女に会って、その女の口からじかに聞いただ、よくもあんなすべたあまと見替えやがった、もう騙されやしねえぞ。
彼は抗弁した。自分の並み外れたしゃがれ声と訥弁を呪いながら、身に覚えのないことだと証言したが、おさいは聞こうともしなかった。
――聞かね聞かね聞かね、と彼女は指が鉤のように曲った手を振りあげた。おめえの嘘っぱちなんか聞くもんか、さっさと帰れ、もう二度とふたたび来るんじゃないよ。
そしておさいは店の奥へ去った。
これははっきりわかっていることだ。彼は暫く、気のぬけたように立っていた。それから、持って来た土産の包みを、店先へそーっと置いて、そこをたち去った。