朝日屋は堀一橋の近くで、河岸通りに面している。間口六尺、奥行十二尺。五色揚を揚げて売る店台と狭い三尺の土間、部屋は六帖が一と間だけしかない。もともと古材木を叩きつけて造った建物で、そのうえ年代が経っているから、「ぶっくれ小屋」とさえ云えないような、危なっかしい家であった。――但し一つ、五色揚を揚げたり売ったりする店台だけは、まだかなり新しかった。それは障子一枚くらいの大きさで、揚げ鍋や金網つきの油切りや、幾つかの壺や皿、または経木の束などを置くだけの余地しかなく、しかもその小建造物は、古い家の外部へ、ごく簡単に釘で打ち付けられたもののようであった。
朝日屋の夫婦は五日に一度くらいの割合で大喧嘩をした。亭主の名は勘六、細君はあさ子、どちらも寅だか午だかの三十二歳であった。寅どしか午どしか判然としないのは、かれらが喧嘩をするときに、相手を痛めつける表現がときによって違うからであった。
「寅の八白だなんてぬかしゃあがって」と勘六が云う、「てめえなんぞ本当はひのえんまの元締じゃあねえか」
「干支しらべならてめえのを先にしろ」とあさ子はやり返す、「笑わしゃあがって、てめえなんぞ午どしなら竹んま、寅どしなら張子の虎がいいところだ、すっこんでやがれ」
勘六は博奕打だといっていた。東京深川のなにがし組で、かつてはあにい分だったという。酒を飲むときまって、そのころの派手なでいり話を口演するが、それもときと場合でいろいろと趣向を変えるだけの努力を払うのだが、身をいれて聞く者は誰もなかった。それについて、若い船頭の倉なあこが、いつも赤い頬ぺたに穏やかな微笑をうかべながら、次のように語ったことがあった。
何年かまえ、堀東の理髪店に杉さんという渡り職人がいた。五十年配の独り者で、半年ほどしかいなかったが、勘六のでいり話を幾たびか聞いたのち、そういう語り物はしょうばい人に任せとくがいい、と云った。しょうばい人たあなんのこった、と勘六はひらき直って左の腕を捲った。左の二の腕にはんにゃの面の刺青があって、勘六がどすをきかせようとする場合の薬味になった。杉さんはそんなものには眼もくれずに答えた。なにやぶしさ。なにがなにやぶしだ。おめえのでいり話のことさ、あれはみんななにやぶしから取ったもんじゃねえか。それがどうした、と勘六が云い返した。なにやぶしってものは博奕打のでいりを元にして語るもんだろう、してみればおれのでいり話をなにやぶしが取ったとも云えるじゃあねえか、ええ。そして彼は自分のあたまのよさに酔い、例の浦粕的アフォリズムでしめ括りをつけた。
――大石ゆらの助は芝居を見てっから忠臣蔵をやらかしたんじゃねえだろう。
杉さんはあいそ笑いをし、お見それ申しましたと云って降参したが、あとで勘六の細君をさそい出し、三日のあいだ伴れ歩いてから、船橋という町で細君を放りだしたまま、姿をくらましたということであった。
――勘六は口で勝って手で負けた。
そういう評が立ったが、夫婦喧嘩のときにもときたまそのことが引合いに出た。
勘六もあさ子も博奕が好きであった。浦粕は小さな漁師町だから、博奕場などという大掛りなものは立たないが、慰み半分の寄合はよくあったらしい。そういうときには朝日屋へ知らせがある。相手は夫婦をかもにするつもりだが、夫婦はいっぱししょうばい人のつもりで、――なぜなら、亭主はもとなにがし組のあにい分だったから、――義理を欠かすわけにはいかない、などと気取ってでかけてゆく。亭主が元あにい分だとすれば、伴れ添うあさ子もずぶの素人ではない。尤も彼女はごったくやで稼いでいたのだから、ずぶの素人でないことは慥かであるが、ここではもう一つの意味。つまり博奕打の女房という鉄火な自意識をさすのであり、そのためには、亭主の負けがこんでくると、片膝立ちになって赤いものをちらちらさせるという、特技を演ずることも辞さなかった。
この特技は人によるそうである。若くて、小股の切れあがった美人で、それが片膝立ちに構えると、下の肌着と肉躰の一部がちらちらし、そのため博奕を打つ手許が狂うというのであるが、あさ子の場合は成功しなかったばかりか、「気分を害しちゃう」という非難さえ起こった。それは彼女が若くもなく、小股の切れあがった美人でもないからではなく、なすびがさがっているから、という理由であった。筆者はそれがどういう意味であるか、いまでもとんと理解できないのであるが、片膝立ちになって赤いものがちらちらするとき、同時に、さがっているなすびが見え隠れしたのでは、――なすびがいかなる物であるか不明にしても、なんとなく「気分を害する」という気持がわかるように思えるではないか。
夫婦は博奕で勝つときもあった。勝ったときは家へ帰って、二人で酔っぱらって、適当に口喧嘩をして寝てしまう。しかしたいていは負けるのがきまりで、するとあさ子がことば巧みに何人かを客として家へ伴れ帰り、しょうばい物の五色揚を肴に酒を飲ませ、博奕場で負けた分の幾割かを取り戻す、ということになるのであった。
或るとき、駐在の巡査が来て、これを営業法違反であると指摘した。あさ子はべらんめえ調で猛然とはむかった。問答の細部はわかっていないが、あさ子は知っている限りの毒舌をふるい、若い巡査は昂奮のあまり口がきけなくなった。
「わかりましたよ、ええ」とあさ子は云った、「そんなら五色揚を店で売ればいいんでしょ、そうでしょう」
それから朝日屋ではそれを実行した。客を伴れて来て酒の支度をすると、勘六が外へ出て店台の前に立ち、おい、てんぷらを呉れ、とどなる。
するとあさ子が出ていって、おやいらっしゃい、幾らあげますかと云う。幾ら幾ら呉れ。はい幾ら幾らですね。あさ子は五色揚を経木に幾つか包んで亭主に渡す、お待ち遠さま、一つお負けですよ。おいよ。亭主は銭を渡し、経木包みを持って家へはいり、公明正大なような気分で飲みだす、というぐあいであった。