秋の夜の九時ころ、船宿「千本」の店先に縁台が三つ出してあり、船頭や漁師たちが、涼みながら話したり、酒を飲んだり、将棋をさしたりしていた。――月のいい晩で、空にはほんの僅かな千切れ雲しかなく、根戸川の水面も明るかったし、対岸のいかずちの家並みも、一軒ずつはっきり見わけられるほど明るかった。現に二人の若い船頭が将棋をさしているが、そこは店の外で、電燈の光などは届かないのに、駒を動かすのに少しも不自由はなかった。――三つの縁台に十二三人いたであろうか、一時間ほどまえまでは子供たちも混っていたし、人数も多かったが、しだいに人が減ってゆき、道の往来も殆んどなくなっていた。
河岸には通船が三艘と、釣舟やべか舟が並べてもやってあり、それらには人けがなく、月光を浴びたまま、ひっそりと身を寄せあっているようにみえた。そのうちに、葛西汽船の三十二号から、一人の少年があらわれ、渡り板を踏んで岸へあがると、そこで草履をはいて「千本」の店のほうへ来た。少年は痩せたすばしっこそうな躯つきだし、色こそ汐やけで黒いが、おもながの顔は眼鼻だちが際立っていて、美少年といってもいいだろう。ことにはっきりとした眉毛と、澄んでいるが少しばかり狡そうな眼つきが、その相貌をひきたてていた。
「酒をもう一升」と少年は「千本」の店へはいってどなった、「野口エンジに付けといてな」
店の奥から二女のおすみが出て来た。
「あら銀ちゃん」とおすみが云った、「おめえまだ船にいたのか」
「野口エンジに一升」と少年は云った、「佃煮かなんかくんなってよ」
店先の縁台から、よういろ男、と少年に呼びかける者があった。
「銀公か」と将棋を見ていた船頭の一人が云った、「三角のお吉はどうした、もうものにしちゃったか」
「昨日だっけ」と端の縁台で酒を飲んでいた中年の蒸気乗りが云った、「安田屋のおつゆがまた草履を呉れたってえじゃねえか、年もいかねえくせにてえした腕だな」
少年は振り向きもせず、口もきかなかった。その顔には誇らしい自尊心と、おとなたちに対する軽侮と優越感とが、少年らしいなまなましさであらわれていた。――店は電燈を一つ残して、あとは消してあったから、広い鉤なりの土間は、月光の遍満している戸外の明るさで、実際よりもうす暗くみえた。――おすみは酒の壜と、蓋物を持って土間の奥から出て来た。草履をつっかけているので、足音は聞えなかった。彼女は手招きをし、少年が近よってゆくと、持っている酒の壜と蓋物を脇へ置き、すばやく少年を抱いて接吻をした。少年はじっとしていた。躯も頭もまっすぐにしたままで、両手は躯に添って垂れていた。おすみはものたりなげに、けれどもすぐに少年からはなれた。
「はいお酒」とおすみは云った、「この中にすずめ焼としぐれ煮がはいってるよ」
少年はその二つを受取って店を出た。
「よういろ男」と初めに呼びかけた男が云った、「今夜は三十二号で逢曳きか」
だが少年は黙って道を横切ってゆき、草履をぬいで小腋にはさみ、渡り板を渡って三十二号船の中へ姿を消した。
彼は三十二号船の見習い水夫であった。年は十七歳、みんなは彼を「銀公」と呼んでいる。銀次というのか銀太というのか、あるいは銀造とでもいうのか、苗字も正しい名もわからない。この土地では一般にそういうことに興味をもつ者はいないようだ。もちろん、所属の船会社の名簿には記載してあるだろうし、ことによれば町役場の戸籍簿にも記録されているかもしれない、だが、日常生活ではそんなことはどっちでもよかった。――三十二号船の「銀」といえば、徳行でも浦粕でも誰より娘たちにもてる若者、として知らない者はなかった。徳行や浦粕だけではない、通船の航路にあるすべての発着所と、その界隈にまで知られていたというべきだろう。――その発着所の多くに、三十二号船を待ちかねている娘たちがいて、それぞれなにかしら彼に贈り物をした。ここでは一例だけあげるが、水夫は甲板勤務のときに麻裏草履をはくので、贈り物ではそれがもっとも多く、彼の手許にはいつも、新しいのが十五六足もあった。中には手作りで、ひどくしゃれたのや、凝った品があり、そうでなくとも、鼻緒の色だけは贈りぬしによって違っていた。念を押すまでもなく、それは娘たちの自己主張であり、他の娘たちへの対抗意識のあらわれであろうが、銀公はその鼻緒の色によって、贈りぬしを判然と区別することができた。
たとえばこうだ。――三十二号船がAの発着所へ近づくとき、彼はそこに待っている娘の贈った草履をはいていて、極めてさりげなく、その草履をはいていることを相手に認めさせる。そして船がBの発着所へ着くときには、ちゃんとBで待っている娘に贈られた草履をはいて、その事実を相手の印象にしっかりと焼き付ける。これがCからD、DからE、Eから――と順を追って、正確に、決してAとCやEとFとを誤ることなしに繰返されるのであった。――これは一種の天才だと云ってもいいだろう、十五六足もある草履の、鼻緒の色によって贈りぬしを弁別するばかりでなく、いそがしい見習い水夫の甲板勤務に追われながら、間違いなく草履の「はき替え」をやってのける、などということは、天才なしにはとうていできがたいことなのだ。なぜなら、こういう類いの問題について後年、筆者みずから銀公の才能がいかに非凡であったか、ということを身にしみて感じた経験があるからである。