私が増さんと初めて会ったのは、堀南にあるてんぷら屋「天鉄」の店であった。私は僅かな稿料がはいると、よく天鉄へいってめしを喰べた。てんぷら一人前で酒を一本ゆっくりと飲み、そのあと、その日の特にいいたねを二つか三つくらい揚げてもらってめしを喰べる。そのころ私はまだ酒に弱かったので、よほどのことがなければ二合飲むようなことはなかったし、一合を飲むのにも一時間くらいかかったろう。必ず本を持っていって、冬ならば小さな瀬戸火鉢を抱え、夏なら団扇を使いながら、本を読み読みてんぷらを喰べ、思いだしては酒を啜る、というぐあいであった。いま考えるとずいぶんとしより臭いまねをしたものだと思うが、天鉄の人たちとはすっかり親しくなり、ときによるとお花という娘が、「今日はいいたねがはいったから」と、てんぷらを揚げて届けに来たりした。
店は昔ふうで、土間に卓子が二脚ほどあり、鉤の手に畳を敷いた座敷があった。もちろん土間に面したほうは障子もなにもなく、客があれば薄い座蒲団を敷くだけ。膳は四角で、足のない平膳であった。
増さんは年のころ五十くらいで、背丈が低く、ひどいがに股で、頬や顎のまわりに、いつも太い銀色の無精髭を、ブラッシのように伸ばしていた。てっぺんの禿げた頭のまわりも、短くて太い、ブラッシのような疎毛で蔽われていて、太陽の下ではその一本ずつがきらきらと光った。――増さんは酒持参で天鉄へ来た。じつは酒ではなく焼酎なので、一合のそれを天鉄で二合に割ったうえ燗をしてもらうのだが、誂えるてんぷらも変っていた。くるま蝦にしてもあなごにしても、鯊、きす、めごちにしても、自分は頭とか中骨とか尻尾などを、べつに揚げさせて、それを肴に焼酎を啜る。身のところを揚げたのは包んでもらって、家へ持って帰る、というのがいつもの例であった。
ここでちょっと記しておくが、数年まえ、或る出版記念会のあとで、林房雄がこの「くるま蝦の頭だけ」のてんぷらを食わせてくれたことがあった。彼が自分で思いつき、銀座裏の某てんぷら屋に命じて作らせたのだそうで、それは豊富なカルシウムを含む極めて美味な食品であると、自分の着眼の独創的な点を大いに誇っていた。
――これを世間では捨てているんだ、と林房雄は繰返し強調した。こういうすばらしい物をさ、と林房雄は自分では箸を出さずに云い張った。みんな捨てているんだ、世間ではみんな捨てちまうんだぞ、さあ喰べてくれ。
私は一つだけやってみたが、どれほどそれがカルシウムに富んでいるにせよ、とうていのみこめる代物ではないと知り、すばやくナフキンに吐き出して卓子の下へ捨て、「世間の人たちがみんな捨ててしまう」のは当然の理であり、林房雄は逆説を弄しているのに相違ないと思った。
右のように、林房雄は自分の独創性を誇っていたが、それより二十数年以前、すでに増さんという先覚者のあったことを私は知っているのである。私は吐き出したが、増さんはうまそうに、頭だの骨だの尻尾だの、一つ一つ丹念に噛み味わいながら、私以上にゆっくりと時間をかけて、燗をした水割り焼酎を啜るのであった。
その次には路上で会った。堀東のところで私がスケッチをしていると、一人の男が背中に初老の女をおぶって歩いて来、背中の女と、なにやらなごやかに話しながら、中堀橋を渡って去っていった。この土地でそんなところをみつけると、人は決して黙っていない。おとなはまあともかくとして、悪童どものからかいの好餌になることは疑う余地がなかった。だが、そこには往き来する人がいたし、悪童どもも遊んでい、かれらはみなその二人を認めたのであるが、爪の先ほどの関心を示す者もなく、むしろそのことのほうに私はおどろいた。その次に、同じような二人と路上で出会ったとき、女を背負っている彼のうしろ姿を見て、彼の足が涜神的にまでがに股であることと、「天鉄」で魚の頭や尻尾のてんぷらを注文する男であることに気がついた。こうして幾たびめかに、私は堀南にある「梅の湯」という銭湯をスケッチしていたとき、その女を背負った彼が、「梅の湯」の暖簾をあげ、女湯のほうへはいってゆくのを見て、ちょっと眼をみはった。
「ああ、そりゃ増さんてえだ」
蒸気河岸の「根戸川亭」で、平二郎という老人の漁師が私に云った。平二郎は息子の嫁と寝るといわれ、そのはらいせに息子と平二郎の妻(後添いで息子には義母に当ると聞いた)が寝るという噂のある老人で、べらぼうに酒が強く、口もまた達者であった。
「背負ってるのはおっかあでね」と平二郎は云った、「ああやって背負っていって、着物をぬがして、躯をすっかり洗ってやって、きれいに拭いて、それから着物を着せて、うちまで背負ってけえるだよ」
私が質問すると、平二郎は大きな眼をそろそろとすぼめ、ふしぎなことを訊く人間がいるものだ、とでも云いたげな顔つきで私を見た。
「なんでだね」と平二郎は訊き返した、「――若えもんならともかく、あんなとしよりが女湯へへえったって別条なかんべえがえ、おらだって用があればいつだってへえるだ、女どもだってそんなこと屁とも思やしねえだよ」
そして、増さんはおっかあのことを決して他人に任せない。おっかあのどんな親しい者がいて、たまにはあたしが洗ってやろうと云っても、増さんはきっぱりと断わり、おっかあの躯の隅ずみまで入念に自分の手で洗ってやるのだ、と平二郎は云った。
私は高品さんの炉端でも、増さんの話をもちだしてみた。高品さんのところではあまり収穫はなく、「昔は村一番の鼻つまみだった」とか、「綽名を家鴨って云うだ」とか、いま漁業組合で働いているが、それは大蝶の旦那が口をきいたからで、その大蝶の旦那でさえ増さんの顔は「見たくもねえ」と云っている、などという程度のことしか聞くことはできなかった。綽名の「家鴨」というのは、彼がひどいがに股で、躯を左右にゆさぶりながら歩く恰好が証明していた。そういうわけで、増さんのことは平二郎の問わず語りでしか聞けなかったのであるが、それはおよそ次のようなものであった。