堀の南の洋食屋「四丁目」で、東浦バス会社の会計主任が、三人の運転手にビールを奢りながら話していた。彼は三十二歳くらいで、名は杉田春といい、周囲の人たちに「春さん」と呼ばれ、誠実さと頭のよさとでたいそう敬愛されていた。細おもてで色が(土地の者にしては)白く、濃い眉毛にもいやみはないし、まっ白で丈夫そうな歯を見せて、笑いながら話す口ぶりは静かで考え深く、自分で納得のいかないことでもすぐには反対しない。よく検討し慥かめてみたあとで「どうも月にゃ兎は棲んでねえようだな」と答えるということであった。
「おらは看護兵だっただ」と春さんはバスの運転手たちに話していた、「おんだらのめえの兵は看護卒と云ってたようだっけだが」
「やっぱりな」と運転手の一人が云った、「頭がよくなくっちゃ看護兵にゃなれねえってえだが、春さんはそのじぶんから違ってただ、なせ」
「そんなこともねえさ」他の二人が同意を表するまえに春さんが云った、「看護兵なんてのは、ふつうの兵として役に立たねえ者がなると云ってもいいくれえだ」
運転手たちは反対した。病気の兵が多くて手のまわらないときなどには、「軍医の代診もする」と云うから、或る程度以上の切れる頭を持っていなければならない筈である、と運転手たちは云った。春さんが会社の会計主任であり、自分たちがビールを奢ってもらっているから、お世辞を云っているのだ、と疑えるような気配はどこにもなかった。かれらは心から春さんを敬愛し、春さんの頭の明敏なことを、むしろ自分たちの誇りにしているようでさえあった。
「こんなことがあったっけだ」春さんはかれらの讃辞から身を除けるように云った、「二年兵になった秋ぐち、三連隊でひどくたちの悪い風邪が流行った、なんとかインフルエンザっていったっけ、世間でもずいぶん流行ったが、肺炎を起こして死ぬ者がたくさん出た、なにしろこれが効くっていう薬がねえだから、病人の躯にもちこたえる力があるかどうかで勝負がきまる、っていうあんべえのもんだっただ」
「注射してもだめだかい」
「せえぜえ強心剤を打つくれえだっけだ」と春さんは答えた、「それはまあとにかく」と彼は話を脇へそらせまいとして続けた、「おらがいまでも覚えてることを話すべえ、まあ飲みながら聞いてくれ」
「飲むこたあ忘れねえだよ」と運転手の一人が云った、「尤もおらあビールよりもちゅうのほうがいいけどな」
「その病気の兵隊の中に」と春さんは構わずに云った、「島田っていう初年兵がいただ、うちは慥か能登のほうだった、佐渡かもしれねえ、もう忘れちまっただが、相撲のように頑丈な躯をした男で」
「その」といちばん若い運転手が訊いた、「うちが能登か佐渡だとすると、連隊区が違やあしねえかね」
「寄留すればいいだよ、東京で寄留届けをしてあれば寄留地の連隊にへえることもできるだ」と春さんが説明した、「麻布の三連隊ってえばおめえ、全国から入隊志願がわんさと集まったもんさ」
「そうだ」と他の運転手の一人が云った、「三連隊ってえば名誉連隊だからな」
「その島田ってえ初年兵は」と春さんはいそいでその話題からぬけ出した、「衛戍病院へへえるとまもなく重態になった、軍医はもうだめだからって、隊では親元へ電報を打つと、島田のおふくろと妹が駆けつけて来た」
「まにあっただかい」
「軍医はまにあうまいと云った、おらあ当番だったが、おらもこのようすじゃあまにあうめえと思っただ」と春さんが云った、「それがなんのおめえ、おふくろと妹が着くまっでちゃんと持ちこてえたし、それからも持ちこてえ続けただ」
「すると、治っただな」
「重態のまんまさ」と春さんは云った、「もうだめか、いま死ぬかっていう危篤状態でいて、それがいっかな死なねえだ」
「肝煎っちゃうな」
「それどころの沙汰じゃねえさ、軍医は投げちまって寄りつきもしねえ、ほかにも患者は大勢あるってえのに、おらあ島田初年兵からはなれることができねえ」春さんは白い歯を見せ、肩をすくめて当惑の気持を示した、「――なぜかってえば、島田はいまにも死にそうな重態が続いているから、ときどき強心剤の注射をしなけりゃあなんねえし、息を引取るときに隊の者が付いていなかったとなれば、軍の責任問題になる勘定だべえさ、なせ」
「そうだな」三人の中では年嵩らしい、二十八九になる運転手が、考えこんだような口ぶりで云った、「軍縮からこっち、赤の野郎がいばりけえってのさばってるし、軍としても、国民感情にゃあ気を病まねえばなんねえだからな、おらあ軍縮にゃあてんから反対なんだ、仮にもおめえ国家てえものがあるのによ」
「それでもおらあまだいいほうだった」と春さんは話を引戻した、「おらにゃあ交代ってものがある、交代になれば休むこともできるが、気の毒なのはそのおふくろさんと妹だった、小さな痩せたおふくろと、はたちくれえの、兄貴によく似た躯つきの固太りに肥えた妹とは、病人の枕許に付きっきりで、弁当もそこで喰べるし、手洗いにゆくときのほかはいっときも側をはなれねえし、一睡もしなかったっけだ」
「情愛だな」
「情愛だ」と春さんが云った、「おらなんぞ軍務の看護兵だが、とてもあの二人のまねはできなかった、とにかく付きっきりで一睡もしねえし、代る代る病人に話しかけては泣いてるだ、おふくろも妹も眼をすっかり泣き腫らして、いよいよ死ぬらしいと聞くたんびに、二人で島田に抱きすがって泣きひいるだ」
「それでも死なねえか」
「それでも死なねえ」と春さんが云った、「よっぽど心臓が丈夫だったんだべえさ、軍医もこんな依怙地な心臓にゃあこれまでおめにかかったことがねえって、心臓がこんなに丈夫でもよし悪しだって云ってたっけだ」
「専門家にゃあ専門家の意見があるだな」